2002年の正月休み           辻 淳二


 実家に出かけることもなくなった最近の我が家の正月は、帰ってくる子供たちを迎えてノンビリ過ごすのが常態になっていた。ところが今年は、初体験の「正月の過ごし方」になった。
93歳になった義父が一人暮らしで、もしものことがあっては・・という状況になって、昨秋から家人を含めた実子三家族が週交代の泊り込みでケアしているのだが、正月は週日に通っているデイサービスがお休みとなる。そこで、日中のケアもあるから正月はどこかの家で過ごすのが良かろうと相談したところ、前向きに買って出る家庭はなく、結局その役割を我が家が負うことになったからだった。

 1230日の午後に家人が迎えに行き、新年14日の夕方に実家へ送り届けるという56日のステイ。幸いに足はしっかりしているが、記憶力の減退は着実に進んでいる状況の中で、我が家でどう屈託なく過ごして貰えるか、「何とかなる」との楽観と「結構大変なのでは」との不安がない交ぜのスタートとなった。一先ず、暮らし方の中心は適当に外出して街の年末年始風景を体感して貰うことに置く、最大のケア要件はフラッと出かけてしまって迷子になってしまうことのガード(自分の家でも毎日通っているルートでないと覚束なくなっていることから、我が家だと一ツ角離れても一人では帰れなくなる公算が大)と大掴みに決めておいて、「後は状況対応で」ということにしていた。

 結果として、実子でない私もほぼ密着してのサービス/目配りに追われることになった一方で、いろいろと勉強になった面も多々あって、結構リアルな手応えを掴めた正月になったのだった。

 最初の内は至って順調に進行

 初めの方の大晦日と元日は、極く極く穏やかに過ぎていった。義父自身、「長女(家人)の家で過ごす」ことを納得してきていて、気持ちの落ち着きもあった。そして、家の中に居て退屈し始めたのを見計らって、我々が、大晦日は近くの公園散歩と正月用食料の買い物、元日は近くの高幡不動尊への初詣に同行することで、両日の穏やかな天候の通りに過ごすことができた。その過程で、出かけた公園の高さ50メートルくらいの小山の真下で「ここ、上ってみましょうか」と誘ったら手摺を伝ってながら上りきれたとか、トイレの間隔は長短あって頃合いよくトイレのある場所にいてうまく促さないと・・とか、その場ではちょっとした感動のシーンがあれば確かな反応をしているのに家に帰って話題にすると数時間前の記憶がもう消えている(例えば、「小山を上り切った」ということで機嫌よくしていたことも思い出せない等。昨秋からの泊り込みで感じていた以上に、状況は進行しているとの感)とかの、ケア上重要な気付きが得られた。この間は、食事も、我が方は年末の大掃除にかまけていて必ずしも老父に合わせて用意していた訳ではなかったのに、落ち着いて待って、出したものもほぼきちんと食べてくれていた。

 元日の夜には、長女の一家が孫娘を連れて泊まりにきて、「我が家に4世代が集まる」という貴重な体験もでき、ケアする側もされる側も、満足度高く過ごせていたと思う。ただ、その間にも微妙に不安の芽がなかった訳ではない。元日の夜は、この夜だけ泊まる長女の家族3人が落ち着いて寝られるようにと、前日まで義父が使っていたお客様用の和室から2階の家人の部屋に移って寝て貰うことにしていた。ところが、その準備に掛かったら、どうも自分の家と今いる家がこんがらがり始めたようで(自分の家での自室は2階)、意識のブレがひどくなり、結局部屋替えを見合わせたのがその一例だった。

  日を追ってギクシャクが

 正月2日は、老父に長女一家3人、埼玉県から帰宅の長男、我が家の住人3人(夫婦と次女)の四世代が朝のお雑煮を一緒に食べるという団欒風景が実現した。食後、老父と2歳児が共に楽しめる所ということで、近くの多摩動物園に2人に我が夫婦が同行して出かけることになった。園内に入るところで、思いがけないことに気付かされた。それは「65歳以上は無料」という表示で、老父も孫っ子も無料なのは当然として、付き添いの我々も程なく無料の側に入ってしまうことだった。思わず「もうじき、俺たちもタダ」と口に出したら、家人には「そんなこと、言わなくても・・」といやな顔をされてしまった(私には、結構インパクトある気付きだったのだが)。

 園内に入ると、ここでは孫っ子の方が主役、それでも義父も寒さにもめげずに園内をしっかり歩き、ライオンバスに乗り、ゾウ園では日本の動物園で一番大きいという巨象も見、キリンやオランウータンなどもゆっくりと見て、数時間を園内で過ごしたのだった。暗くなるまでに帰ろうと乗った帰路のバスの中で孫っ子はグッスリと眠ってしまい、帰宅してもそのまま一時間くらい眠ったが、その間は、義父の方はリビングルームで休憩して貰っていた。

 ここまでは、出来過ぎくらいのvery happy だった。ところが、この「空白の時間(お腹は空いてくる。することはなく、間がもたない。)」が、望ましくない方向に“狂言廻し”をすることになってしまった。他に買い物に出かけた娘や息子たちが帰ってきて、(サービスの積りで)老父に動物園での話などを問いかけると、どうも少し前に見てきたシーンがすっと思い出せないらしい。多少きまりが悪い感じもあるらしく、また、自分の方がしっかりと生きてきたんだとの自負も当然ながらある。そこで、話が自分の昔話を押し付ける感じになる。初めの内は受け容れて聞いていた子供たちも、同じ話が繰り返されるにつれて、苛立ちを示し始める。一方で、お腹は更に空いてきて(既に、普段夕食を食べている時間帯に入っている)、準備をせかすところで我侭がでてくる。かくして、我々ケアをしている側と義父との間のやりとりが、先ず一人と、次いでまたもう一人とという形で険しくなって、気まずい空気になってしまうということが現実化したのだった。

 私自身、気まずい空気の当事者に

翌3日も、そのパターンが繰り返された。この日は、朝食が済んで間もなくに義父が「今日は帰るんだ」と言い出して、「帰っても誰も食事を作ってくれないのだから」と引き留めるのが一仕事だった。もともと、自分の家があることを心の頼りにしている人ということもある。これに、何日も空けていることへの不安や、我が家では例えばテレビのチャンネルを切り替えるのでさえも自分の家のやり方とは微妙に違う等、マイペースで振舞えないもどかしさが重なったようで、老父の側に立ってみると出るべくして出た行動のように見えた。それを何とか、家人が中心になって、午後に老父自身がこの冬に着るものを街に買い物に行こうということにして宥め、その後は、イメージしていた買い物を一通り済ませて夕方に帰宅するまでは、無難に時が進んでいった。ところがこの日も、また夕方の時間帯が鬼門になった。この時は、私自身がケアをしていて、夕食を早く食べたい父と一緒に買物に行って少し休んでから夕食の準備に掛かりたい家人との間にギャップがあるのがはっきりと見えていた。そこで、料理のメニューの主要なものができたと見届けたところで、私が立っていって父の分をさーっと食卓の上に並べ始めた。それに呼応するかのように、父も食卓のいすに移って、一目散に私が並べた料理を食べ始めた。それを見た家人や次女は、父に「もう少し、周りの人に気配りしなきゃ」と対立的な姿勢を見せた。すると、その空気が父にも通じたらしく、最初に私が整えた料理をおおかた食べ終えると、その間にできた料理をお皿に盛って渡しても「食べない」と頑固に固まってしまう。かくして、義父がイライラと食事を待っていたのもつぶさに見ていた私自身が、どちらの気持ちも分かって「間で立ち往生」という気まずい状況に陥ってしまった。その後も、そこを何とか収めて沸かした風呂に入り、中で歌を歌っていたので機嫌を直したかと思いきや、上がってきて曰く「ぬるくて、暖まらなかった」、私ヘの接し方もまだとんがったままだった(これも、湯船の温度調節の操作が自宅のと違ったのが、悪い方に作用したらしい)。

ケアが終わった夜に考えたこと

最後の1月4日は、午前中に近くの公園に散歩に出かけた時にも「昼飯が食べられる所に連れてって」と言ったりして、“帰心、矢の如し”の気分のようだった。それでも、その夜からのケアを引き継ぐ予定の義弟の方の要請に合わせてギリギリまで引っ張って、家人が車で送り届けた。帰路にも、車の中でトイレに行きたいと言い出して道筋のお店を借りたり(結局、トイレはこの時以外はことなきを得た)、すぐ近くで車から下りて家に入ったのにしばらく自宅に帰ったことがわからなかったりと、一騒動があったらしい。かくして、最後が今一つスッキリした別れにならなくて、帰ってきた家人は疲れがドッと出たようだった。

「ともかくもヤレヤレ」と肩の荷を下ろしての、お茶を飲みながらの会話の最初に彼女の口をついて出た言葉は「もう、こうやって預かるのはムリね」だった。これに対して会話しながら私が行き着いた応えは、「56日が長すぎたということでは? こちらが勉強になったこともあったし、子供たちにも老いの一つの実像を直に接して見たことは必ずプラスになるだろうし、23日くらいならできなくはないのでは?」だった。「預かったからは、気分良く過ごして貰おう」と努めても、数時間後には記憶に残っていないのだから、別れる時に「楽しかった。有難う」というポジティブな反応を期待することは難しい。夕方の魔の時間帯に些細なことからぶつかってしまうと、それまでいい感じで持ってきた充実感が一瞬に消えてしまう感じになるのもいかにも切ない。しかも、ぶつかってしまった我々側が「あそこで、あんなことを言わなければよかった・・」と落ち込んでしまう感じになるのもつらい(これは、私が当事者だった時にそう感じたのだが、次女も全く同じことを言っていた)。これらを目の当たりに体験して、気持が萎える部分も私にも確かにある。ところが、会話をしながら、「これを体感できたのが、今回の一番の勉強だった!」と思い当たったのだった。つまり、高齢者介護は“打てば響く”ような双方向性(もとより、これが理想だが)を期待してやるものではない!と。そこを受容してしまえば、“この種の落ち込み感”に出くわさないようにする工夫の余地(例えば、2泊程度にするとか)はあるし、そこを克服しながらやっていくのが高齢者介護なんだとプラス思考に転じることもできそうだ。今回の学習効果として、そんな意識が私の中に生まれての到達点だった。(家人はまだ上記の双方向性に希望を繫いでいる感じ。その分、当座の疲労感が重たいのかもしれない)

 私は、かねてから「今のレベルの元気さを引き伸ばすように頑張って生きながら、80歳までにはスカッと死にたい」と思っていて、家人にも親しい友人たちにもそう話している。我が気功の先生の河野さんにも、「そういう意識の力を付けられるように、気功の力を身に付けたい」とムリ難題を投げかけている。今回の義父のステイを通して、「93歳まで、よくも達者で来たな」と感心する一方で、「年取ると、こうなるのか。そうはなりたくないな」と思う面も見せて貰った。この二つを重ねて反芻し、あらためて、「私の場合は80歳まで行けば上出来。それ以上はなくていいのでは」との自分に関する直感は結構当たっているとの感を強くした正月休みだった。[2002.1.29]

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