2006529日(月)             辻 淳二          
 
 
修験の山で国宝/重文の宝庫」三徳山に登る

 私たち夫婦は、06528日(日)から30日(火)の3日間、山陰地方を旅行することにしていた。ビジネスを卒業して混まないウイークデイの旅ができるようになったので、その最初として旅行会社が募集していたツアー旅行に申し込んでいたのだった。
 そのまま、ツアーだから気楽と特段の準備もしていなかったが、数日前になって「少しは旅行先のことを知っておこう」と思い立ち、先ずは鳥取県庁のホームページ(HP)をアクセスした。すると、その最初のページで「三徳山で重要文化財の文殊堂と地蔵堂を6月9日まで特別公開」の見出し表示が目に留まった。そこからいくつかリンクを手繰って行くと、前に登った人の登山記録に行き着き、それに絶壁をくり抜いたような岩窟に荘厳に鎮座する雰囲気のお堂(「投入堂」という、舞台造りでは木造最古の国宝)の写真が添えられていたので、「このお堂の写真、我がHPにも載せた!」と思い当たった。早速「経営と情報通信」研究会HPを手繰り、「ライフワーク」欄へ瀬川滋さんから036月号に投稿して頂いたものと分かった。かくして、この稿は、ちょうど同じ季節の入山記録とあって、貴重な参考情報となった(本稿が書けたのは瀬川さんのおかげと感謝)。


 急遽、「ツアー旅行への組込み」を企画

 その時点で、まだ三徳山の位置も定かに認識しておらず、また、他の季節ではあったが入山時間や天候不良を理由に入山を断られ3回目にようやく登った人の苦闘の記録も載っていて、軽く立寄るという感じでは行けないと察してもいたが、「これ、今回の旅行に組み込めるかも!」とのワクワク感が我が胸の中を占めるようになった。直ちに、いそいそとという感じで、関連情報を詰め始めた。先ず、三徳山の場所は、旅程の2日目に通過する 倉吉市 から三朝温泉を経て5キロ程度の位置と分かり、また、高度は高くないが登山路では蔓や鎖を頼って登る、難路の山であることも分かった。次に、今回公開されているのは、山頂ではなく、中腹にある、約一世紀ぶりに改修されてちょうど完工した二つの重要文化財のお堂と分かった。かくして、経由地となるJR 倉吉駅 からの往復で4時間くらいの滞在時間が取れれば少なくとも重文のお堂までは行けると、凡その見当をつけることができた。

 そうなると、気持ははやって、「どうやって、旅程に組み込むか」に向かった。先ず、旅行会社に電話して、2日目の旅程の途中で脱け出して自由行動を取ることの了解を取り付けた。そして、上記の滞在時間が取れるJR特急をインターネットで調べ、鳥取駅発122分に乗り約30分で倉吉に着けばそこからはバスがうまく繋がって13時頃に三朝温泉までは行けるのでそこからタクシーで登山口まで行けばいい、それにはツアーのバスが鳥取の砂丘に着いた所で自由行動にして貰うことで良かろう、とおよその手筈を立てた。さらに、家人との間で「リュック、ウオーキングシューズ、雨具携行」等の準備を申し合わせた。

 こうして、「ツアーに便乗しながら個人的な興味も満たす」という、願ってもない旅行プランが前日ギリギリにできたのだった。「これで良し!」と少し落ち着いてから旅行会社からの資料を精読して、次のような幸運に恵まれていたことに気が付いた。それは、当のツアーでは松江に近い 安来市 にある足立美術館訪問が目玉で、我々もそこを観るのを本命に申し込んだのだったが、そこへの訪問が募集時の新聞広告では
2日目となっていて、確定の旅程が届いた時点で3日目に変更されていたことだった。


 
出発後、旅程をリアルタイム調整

 前日となる旅行初日(28日)は、新幹線で新大阪に行き、そこからはバス旅行で、途中天橋立で散策などの時間を過ごして、宿泊地の城崎温泉に向かった。この日の目玉だった筈の天橋立は、私自身は初めての訪問だったが、展望台から一望しても前にメディアの報道写真で見た以上の臨場感はなく、日本の三大名勝というイメージが過去のものとなってしまったのかとの印象だった。結局この日は、城崎温泉での「外湯めぐり」、つまり、小雨降る温泉街を下駄で歩き、宿泊者でなくても入れる名湯に同行の義妹夫妻と連れ立って入りに行ったのが一番の旅情緒だった。

 ただ、バス車中でのガイド嬢の案内で、翌日の朝一番に訪ねる但馬の小京都・出石訪問の詳しい時間予定が明確になり、そこに寄っていては上記の三徳山登山が難しくなりそうと分かったので、翌朝の時点でツアーを離れ、丸一日別行動することに予定変更した。

 当日(29)は、ツアーバスの出発に先立って、私達夫婦だけJR 城崎温泉駅 から山陰線で鳥取に向かった。途中、「当の車両に乗っているのは、私達だけ」という区間もあり、また、余目の鉄橋を渡った時に「かって、突風が吹いて車両が浮き上がった事故の場所はここだったか」と目を凝らしたり、初めて乗るローカル線での移動をのんびりと楽しんだ。鳥取駅に着くと、砂丘に行くバスを確認したが幸便はないと分かり、タクシーで入り口まで行って貰うことにした。そして、その車中での運転手との会話で、全く想定になかった旅程変更をすることとなった。運転手が、今日はウイークデイでお客は少ないと読んだのだろう、「三徳山登り口まで、砂丘までの料金も含めて1万円で行ってもいい」と提案してきたのだった。所要時間を聞くと、我々の予定していた現地到着時間より40分くらいは早く着くという。とっさに費用の方もおよそ算段し、砂丘までの料金に加え、鳥取から倉吉までの特急料金や三朝までのバス、そこからのタクシー等に掛かる費用との差は大してなさそうと判断した。そこで、早く着くことにお金を掛けることにし、彼の提案に乗ることにした。結果的に、車中での運転手との諸々の会話で旅の楽しみを広げることもできたし(特に、家人がそれを喜んでいた)、それで、家人ともども頂上の投入堂まで登るゆとりを持てる(当初は、頂上には私だけが行くことも想定していた)結果にもなり、適切な判断になった。

 
ユニークな登山を満喫

 
鳥取で砂丘見学する間待って貰ったタクシーが三徳山の登り口に着いたのは、運転手の見積りよりやや早い1215分頃だった。天気も曇り空ながら持ちそうなので、私たちは、登り口に昔からある風情の茶店で腹ごしらえをし、登山に不要な荷物を預かって貰って、麓にあるお寺(天台宗三徳山三佛寺。釈迦、阿弥陀、大日の三如来が安置されている)の参道から山道へ通じる石段へと足を進めた。茶店で得た情報で、山頂までの高度差や歩く距離は我が家から近郊の高尾山とさほど変わりなく、去年の夏に5合目から歩き始めて夫婦とも7合目でリタイアした富士登山よりは楽な筈との見当はつけていた。そこで、時間も十分あるし、マイペースで登れば夫婦ともども頂上まで行けると確信してのスタートだった。両側に宿坊がある石段を登ると程なく本堂、そこで入山料と引きかえに受け取った輪袈裟を肩からかけて、登山路へと入った。

 途中でかずら(蔓)坂とかくさり(鎖)坂とか呼ばれている険しい道を登ると聞いていたが、登山路に入ってすぐに、かずら、つまりのたうっている木の根を手によじ登る難路になった。そこが、もうかずら坂の入り口だった。そこで、気持を引き締め、かずらを掴んで身体を引き上げつつ、適度に休みを取りながら、ゆっくりと登っていった。

 三十分余りも登っただろうか、険しい岩場を鎖で登る登山路から見上げる眼上にお堂らしい建物が見え、岩場を登りきると目線の高さに新しく葺かれた感じの屋根が見えて、その建物の上に達したことが分かった。それが、お目当てのお堂の一つ、「文殊堂」だった。そういう険しい立地からの制約だろう、お堂には回廊を回って反対側から入る造りになっていた。岩場の上は、北側には晴れていれば日本海が見える、小休止向きの場所だったが、そこに立て札があって「ここで墜死事故あり」と書かれていた。確かに、ホッとして景色を見た時に足元が定まっていなかったら・・と思わせる難所でもあった。

 もう一つのお目当ての「地蔵堂」ももう目と鼻の先の位置、ここまで来るのが当初の目標だった家人にとっては「それはもう達成したも同じ」となって、私達にはすっかり余裕ができた。

 そこで、お堂の板の間に入り、今回の改修の説明をしてくれるお坊さんの話もゆっくり聞いた。回廊に立つと、幅は60センチ余りで外側に手摺りがないから足がすくむ一方で、この場所ならではの気のいい風が汗ばんだ顔をなでて通り過ぎて行った。
 山道の最大の難所に密接させて内部に
4畳半くらいのスペースがあるお堂を建てたのだから、約千年前の創設時の苦労たるや、大変なものだったろう。しかも、それが、今に至る長きに渡って風雪に耐えて原型を留める設計/施工技術で建てられていたとは・・(前回はおよそ一世紀前に修理をしているようで、手入れもきちんとされてきたようだ)。

 私たちは、このように何とも稀有な場所に身を置いて、この建設プロジェクトを完遂した昔の人たちはどんな人たちだったのか・・としばし想いを馳せたのだった。
 
 それから、二人揃って山頂の投入堂まで行く心積りで、また山道を登り始めた。すぐに着いた地蔵堂でも、お坊さんの話を聞きながら同様にゆっくりした時間を過ごした。瀬川さんは、この辺りで奥様のお点前でお茶を楽しんだとのことだったが、ここはそういうことにピッタリの場所で、よくぞその準備をして出掛けられたものと感心した。
 

 地蔵堂を出てすぐの所に、鐘楼があった。そこは、山道ではやや広い場所に大きな石を積んで、従ってその石組みをよじ登った位置で鐘を突く造りになっていた。行き来する人も少なかったので一人づつ、息を落ち着かせて大きく突いたところ、とても明るい音色で辺りに響き渡って心地良かった。
 
 ここまで来ると、もう高度的にはかなり頂上に近いらしく、ゆるい勾配の道を辿って行くと納経堂・観音堂・不動堂などが次々と現れ、その先を大きく曲がると視界が開けて、改修中で前面に足場が組まれた姿の投入堂が目の前に表われた。

 距離的にはまさに十メートルくらいの至近距離にあるのだが、正面へと進む道はなく、後世の人が投入堂と名付けたのが「いかにもうまい!」と思えるイメージだった。しかも、お堂を支える柱は急な岩壁の斜面に合わせて一本一本長さを変えて造られ、また、急斜面に屹立しながら足場の岩にも建物にも千年を経ても狂いが全くない、完璧な建物!。私は、これらのお堂のことも、これが国宝ということも、恥ずかしいことに知らないに等しかったが、「こういう人知れない場所にいぶし銀のような建築物を造った人たちが居て、また、それを見落とさずに国宝/重文に認定している日本ってすごい」と心を洗われる思いがしたものだった。しばし投入堂を眺めている間に、最初は足場で遮られた姿に興醒めする想いであったのが、「今より遥かに大変であったろう建設時も、やはりこういう足場を組んで建てたのだろう」とリアルに想像できる時期に訪ねることになったのは幸運、とのプラス発想に変わっていったのも珍しい体験だった。  

 頂上と言っても、狭い山道から投入堂を眺める狭いスペースのことだから、ゆっくり寛げる場所ではない。従って、上記のような物思いの時間はほんの5分くらいで、程なく下山へと向かい始めた。いま登ってきた道を下りる気安さはあるが、急坂を下りるから腰や膝を痛める危険性はあると、慎重に道を選び、かずら等に頼りながら、ゆっくりと下山していった。結局、地元の人が往復1.5時間というコースを約2.5時間掛けるという結果になったが、家人も真にしっかりと歩いてくれて、お互いに大満足の山行きとなって終った。

 麓で確認すると、倉吉へ下るバスの時間にかなりのゆとりがあったので、三佛寺の宝物殿に入って、ずっと投入堂に本尊として安置されていたという、密教道場ならではの仏像「金剛蔵王大権現」などの重文を見たり、お茶屋でとち餅の汁粉を食べて疲れを癒したりして時間を過ごし、5時少し前のバスで三朝温泉を経て倉吉へと向かった。私たちも同乗する筈だったバスツアーの一行は、倉吉はとっくに通過して、境港の魚市場に立寄って宿泊地の皆生温泉に近づいている時間だった。途中、河原に野天風呂がある三朝温泉を通り、倉吉からは特急に乗り、車窓から暮れ行く大山の山並みを眺めながら、米子へと向かった。皆生温泉に着くと、もう夕食の宴会は始まっていたが、30分くらいの遅れで無事に合流することができた。 

 おわりに

 私は、「少しでも創造的に/個性的に生きる」ために、「C&AConcept making & Action)」(「これは!」と直感が働いたら、即行動して実現をめざす)と名付けたモデルを実践している。それでも、その実践の結果として「ガッツポーズ並みの手応え」を得られることはそう多くはない。今回は、出発2日前に思い立って(Concept  making)して数日後に実行できてAction、好結果を得るという、幸運な体験となった。これからも、時に旅に出掛けることになると思うが、旅行の楽しむのにこのモデルが使える図らずも知ったことを今後に活かしたいと思っている。[06.6.29

 
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