「経営と情報通信」研究会(第16期第1回)記録 文責: 石井
真司
03年7月9日(水)に16期に進む総会と合わせて開催、出席者11人、2次会参加5人。話題提供は大村英堯さんで、テーマは「ベルリンの壁・歴史に何を学ぶ」。
東西ベルリンを断絶させていた「壁」が崩壊した直後、東ドイツと交渉し 壁の一部を持ち帰ることに成功した当事者である大村さんに、壁を引き取りに行った際に撮影されたVTRや関連資料をもとに、当時の生々しい状況や、壁崩壊後に公開された諸種の論考などについて解説して頂きました。お話の要旨は、以下の通り。
壁は当時日本ビソー社が計画していた外壁資料館の展示品とする目的で入手した。入手したのはブランデンブルク門すぐそばのB-8というセグメント。高さ3.7m、幅1.5m、重量2.8トンで、西側に出入りできる扉つきの珍しいもの。Ratolos(理不尽だ)の落書きがある。「壁」崩壊の89年11月9日、民衆が引き倒すシーンがテレビで世界中に放送された部分である。交渉相手の東ドイツ当局は体制転換の混乱の真っ只中で条件設定に苦労した。交渉開始90年1月、現地引取り90年3月1日、長崎到着同年4月11日。産経新聞・三越の共催で全国の三越で展示、7月には長崎旅博にも出品した。
壁は異形棒鋼を曲げた骨組みに砕いた大理石をセメントで固めた極めて強固なもので、ホーネッカーが200年はもつと豪語したのもうなずける。
東ベルリン滞在中は常に秘密警察につきまとわれた。報告する上司や組織はもはや存在しないのに、習慣とは恐ろしいものだ。壁開放のわずか5ヶ月前に脱走を試みて銃殺されたクリス・ゲオフログ青年の墓碑をみたが悲しかった。実際に使用されなかったが、「デモ大量処理機」なる科学兵器(?)の残骸もみた。計画した人物は「天安門のデモ処理は野蛮だ。我々は科学を人間のためばかりでなく、人間に対しても最大限活用する」と語っていたという話をきき背筋が凍る思いをした。音楽や哲学・文学・医学に世界に冠たる伝統を誇るドイツ民族に、ごく一部とはいえなぜ、このような残虐性があるのかが理解できなかった。特殊な国家権力体制のもとでは、どの民族でも同じようなことがおこるものなのか。
黒く汚れたシュロス橋のかかるシュプレー川は汚濁、ベルリン大聖堂は爆撃破壊されたまま、帝国議会の壁面は銃撃のあとが生々しく、ポツダム広場は荒涼とした無人地帯。東独の首都東ベルリンの当時の様相は半世紀前の終戦時の化石そのものだった。しかし、ブランデンブルク門の上からウンター・デン・リンデンを見下ろすカトリーガーのヴィーナス像、ダイムラー・ベンツが西側の壁際にたてた黒い大理石塔のカリヨンが毎日12時と夕方6時に東に向けて流すウエーバーやモーツアルトの音楽、このふたつは分断された民族の統一を象徴しているかのようだった。
それにしても、「われわれこそ人民だ。(共産党の特権階級ではない!)」とのスローガンのもとで結束し、連日のデモで遂にホーネッカーを追放した「東ドイツ無血革命」の意義は崇高だ。たしかに壁開放には、アルバート・ゲンツ(ハンガリー大統領)のオーストリーとの国境開放が果たした役割が大きかった。しかし時機が熟すまで耐え忍び、あくまでも平和的手段で訴え続けてきたドイツの民衆と指導者文化人たちの力はそれに以上に大きかった。2度の大戦の教訓として肝に銘じた非暴力絶対尊重の精神が支えたのだ。それは、今回のイラク戦争のブッシュ大統領に対する毅然たる態度にもはっきりと表れている。
これにひきかえ日本の現状はどうか。戦後ただひたすら経済的豊かさを追求し、その帰結としてわれわれの価値観・倫理観があるべき世界の潮流から大きく逸脱し、世界が大きく転換したにもかかわらず逸脱を自覚せず、民族・自立・平和・自由・正義・隣人愛・真の豊かさなどを真剣に考察することをないがしろにし、いまだに「経済成長復活」の幻影にとらわれた追従議論や行動パターンが多すぎるのではないか。
〜 以上 〜
研究会報告
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