崩壊直前のソ連見聞記(そのU)       新田 謙治郎

 2.ウラジオストックにて

 3日目に日本に一番近い軍港ウラジオストックに移動した。用意された特別機に乗ってまず驚いたのは、椅子の背もたれの1/3位が後ろにだらりと倒れたままで、その席も後ろの席も使えないので皆さん席を探すのに苦労をしていた。一見最新のジェット機のように見えたのにこの有様。ソ連人はメンテナンスと言うことを知らないのかと思った。これは中央から指令が無いからなのか、修理しても一銭も貰えないから放っておくのか分からない。そういえば後の都市で移動したバスも椅子のガタガタが多く、しかも汚いので、誰かが運転手に「掃除はしないのか」と聞いたら「手が汚れるからしない」と言う返事だったとか。ここにもカルチャーショックがあった。

 ウラジオストックではソ連随一の軍港を水中翼船に乗って二時間ぐらい案内して貰った。それまでのソ連だと軍港を海外の人に見せるなんておよそ考えられなかったのに、いかに日本に期待をしていたかの1つの証拠だろう。有名な戦艦ミンクスも停泊していた。

 夜は市をあげての歓迎会だったが、そこで「新田さんはいませんか」と探している人がいた。この人は放送局の会長さんで、「今日本に電話を掛けたくてもつながるのに1日か2日かかる。ここは日本に一番近いのに直接の回線が無く、1本の回線がモスクワにつながっていて、そこから日本に繋ぐからだ。そこで何とかNECと共同でインテルサット(通信用人口衛星)を打ち上げて、直接日本につながる様にしたいから、是非協力してくれ」と言うものだった。話が大きいので、「約束はしかねるが、帰って検討しよう」と約束した。この話は形を変えて、ソ連国内の通信網の整備計画にNECが参加する一つのきっかけになったと後で聞いた。

 夕食後はロシア民謡の合唱を聴かせてくれた。私はその2,3を知っていたので結構楽しめたが、説明や紹介が何も無いので皆さんは退屈したようだ。その後、イルクーツクでもヤクーツクでもいろんなショウを見せてくれたが、説明は全くなし。だから何処の民族衣装でどんな種類の歌や踊りなのか全く分からず興味半減だったのは確かだ。そういえばどこの企業訪問をしても会社紹介のパンフレット一つなし。相手をもてなそうとする気持ちは伝わるのだが、70年間サービスというものを経験したことの無い国民の悲しさが伝わって来た。

 また後で他の団員から聞いたことだが、「ウラジオストックから日本を攻撃して、2日で降参する。そうすると日本の属国になれるからそれが一番の早道だ」と言っていたロシア人がいたそうだ。

 ウラジオストック駅で面白いことがあった。ここはシベリア鉄道の出発地でまわりを圧する立派な建物だった。念のため中に入って壁に貼ってある時刻表を見て妙なことに気が付いた。なぜ時刻表を見る気になったかというとヨーロッパに一人で出張に行ったとき、汽車に何度か乗ってそのたびに時刻表を見ると、いろいろな情報が分かるからだ。

 残念ながらロシア語は読めず、どちらが出発で、どちらが到着なのかも分からなかったのだが、「おや?」と思ったのは書かれている時間が殆ど12:00から夜中(朝方)の3時頃までなのだ。宿に帰って全日空の人に聞いたら「それはロシアの時刻表は皆モスクワ時間で書いてあるからだよ」と教えてくれた。モスクワで計画された時刻表がそのまま書かれているという。時差は7時間もあるというのに。ここでも社会主義国のすさまじさを感じた。それにしても現地の人は不便を感じないのかな。誰でも時差を計算し直して乗るほど頭が良いとは信じがたいが。それともそれが出来る人しか乗らないのか。

 ウラジオストックからイルクーツクに飛ぶときちょっとした事件があった。特別機のパイロットが気を利かせたのか飛行機を滑走路にではなく、わざわざ建物の後ろにあるバスの発着所まで運んで来てくれていた。ところがその親切心が仇になってしまった。と言うのもそこから建物の横を通って滑走路にでる通路が道路工事中で、丁度アスファルトを半分敷いたばかりだった。そこでパイロットと道路工事の人が「通す、通すさぬ」で喧嘩が始まった。話は付かずそれぞれの上司にお伺いを立てているらしく、待たされること4時間。その間パイロットと道路工事責任者らしい男が口を利くことなく、私達の前を後ろ手を組んで、熊がのそりのそりと歩くようにぐるぐる回りながら歩いている様子は何とも滑稽だった。4時間後に通れたのはその間アスファルトが固まってもう傷が付かなくなっていたからかも知れない。おかげでイルクーツクのホテルに入ったのも夜10時過ぎてからだったと思う。

 3.イルクーツクにて

 イルクーツク市はシベリアでも最も古い町で、ナホトカやウラジオストックに比べ、よりヨーロッパの都市に近い大きな街だった。ホテルもかなり立派で初めてエレベータ付きだったが、4F迄上がるのにガタゴト揺れながら1分もかかる代物だった。ここで3泊し最初の2日は工場見学とバイカル湖の観光に出かけた。私が選んだのは航空機工場、電気機械工場、そしてケーブル工場だった。他の団員はそれぞれの職種に合わせた見学先を選んでいた。航空機工場はソ連軍需産業の中心で、さすがと感じることもあったが冷戦終了で作る飛行機が減ったので、一部民需化をはかり近い内に電気掃除機の生産を始めると言うことだった。「飛行機から電気掃除機!」とこの落差の大きさに驚いたが、後でいろいろなところを訪問し、これが唯一の地に足のついた計画だったことを知った。後の2つの工場の汚かったこと。部品や製品が粗末に扱われていただけで無く、工場内に何が何処にあるのか分からぬほど雑然としていた。

 工場のトイレに入って驚いた。大小便共用で昔の日本式の前カバーが無いやつだ。そこに何人分かの大便が流されもせず放ってあり、思わず飛び出してしまった。昔NECの大先輩が私に海外出張の経験が無かった頃、「西洋人は清潔好きだ。トイレは何処に行っても綺麗だし、みんな手も丁寧に洗っている。これは肉食動物の特徴なのだろう。」と言ったのを妙に良く記憶している。そのころの日本は未だ水洗便所は少なく、国鉄のトイレや街の公衆トイレが汚かったのを想い出す。でもこの時は一瞬「ロシア人は西欧人では無いのか」と思ってしまった。

 ケーブル工場でもう一つ恐ろしい話を聞いた。いろんなサイズのケーブルの中に、直径1センチ位の電線を何本も撚って直径20センチ以上もある特別大きなケーブルの束が目立った。「これは何に使うのか」と訊ねると「カザフからモスクワまで1,500万ボルトで送る高圧線だ」という。1.500万ボルト!高ければ高いほど伝送ロスは少なくなる理屈だが、確か日本では60万ボルトが一番高い筈。これが国際基準だと思っていたので、「害は無いのか」と聞いたら、「高圧線の下の幅2〜300メートルは草木も生えず、この下を通り抜けようとする動物は皆死んでしまう」とのこと。何ともすさまじい国だと思った。

 イルクーツクにある有名なバイカル湖を4時間船で観光した。これもイルクーツク市の観光資源の宣伝とサービスのつもりだったのだろうが、7人の民族衣装を着たコーラス・グループが歌で歓迎してくれた。但しロシア民謡に似てるような、似てないようなこの歌は一体何処の歌なのか、何処の民族衣装なのか何も説明が無かったので、時々休みを取りながら4時間も歌を聴きながら、みんなは退屈していた。湖もやたらと大きく景色の変化に乏しいので、感激するにはちょっと物足りない気がした。この湖は世界一透明度が高い湖として有名(確か摩周湖が2番目だと聞いた記憶がある。)で、確かに水は綺麗に見えた。但し市の話だと湖に流れ込む上流の河の側に、石油化学工場があってこれが工場廃棄物を垂れ流しにしたので、ずいぶん透明度が下がったそうだ。この工場は操業停止になっていたが、水が元の透明度を取り戻すには何十年か掛かるだろうという話を耳にした。

(続く)

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