崩壊直前のソ連見聞記(そのV)       新田 謙治郎 

 3.イルクーツクにて(続き)

 イルクーツクでは三日目に市長、政府関係者を始め1,000人近い人が大講堂に集まって総括会議があった。まず日本の参加者から意見を聞きたいと言うので、私が口火を切った。その時の発言が記録に残っているので要点を書いてみよう。
 「2日間工場を見学して感じたことは、まず工場が汚く、雑然としていることだ。工場の整理整頓は良い品質のものを作るとか、生産性を上げる第一歩だと日本では認識している。ところが素材置き場も、製品置き場も汚く、ひどいのは雨ざらしになっている。ボルト、ナットなどの部品も、通路にひっくり返って散らばったまま放ってある。中間製品の倉庫を見ると、何が何処にいくつあるのか全く分からないくらい雑然としている。あなた達は、二言目には日本から自動機械を入れて、技術指導をして貰えば良い製品ができると言うが、これは全くの誤解だ。清潔で整理整頓された工場が良い製品を作る第一歩だ。そのためには、訓練された人材を育成することから始めなけれはならない。 身近な例だが、こちらのホテルのエレベータに乗って、4階上るのにガクンガクンと揺れながら1分も掛かった。私のいる東京のビルでは40階上るのに音もなく30秒位で上る。つまり、エレベータと言葉は同じでも全く違うものだ。 皆さんは、二言目にはソ連には沢山の良い地下資源や木材があるという。ですが一番大切な資源は教育され、訓練された人材では無いでしょうか。」

 この発言の一部が翌日のイズヴェスチャ紙(ソ連最大の新聞)に載った。その一部を抜き書きすると、
「(前略)日本人のコメントは厳しいものであった。彼らの考えでは、我々が考えているような競争力のある合弁会社創設までには、少なくとも後2〜3段階経なければならない。この認識における大きな差を、ある電子メーカの幹部が以下のように分かりやすく語った。
 “例えばエレベータとは何かに付いての認識が、我々とあなた方では大きく異なっている。ソ連のエレベータには振動、騒音、揺れがつきものである。つまり、同じことを語り合っていても、その裏にある認識は異なるのである。”
 資源に関する認識にも大きな隔たりがある。ソ連側は、決まり文句のように自分たちの天然資源の豊富さを正面に出し、将来を語りたがる。一方日本人は、最も重要な資源は人間であり、その頭脳と教養であるという意見を確信を持って語る。このことを我が国の上層部が正しく評価しているかどうか疑わしい。(後略)」
(これは翌日ソ連専門家の人がすぐ訳して、私にくれたものだ。)

 バイカル湖から流れ出るアンガラ河の側に私達のホテルがあった。夕方一人で写真を撮ろうと河の側を散歩していると、若者が近づいてきて「キャビアを買わないか」と言った。一缶1,000円で、ルーブルもドルも駄目だと言う。「10万円貯めて日本からの中古車が買いたい。」と理由を説明した。咄嗟に頭の中で、留守をしている4人の事業部長へのお土産には荷物にならないし、欲しいと思って、「いくつある」と訊ねると2つだと答えた。「もう5つ欲しいが無いか」と言うと、明日持ってくると言う。「ではホテルに持ってきてくれ」と言うと「ホテルには行けないから、明日10時にここで」という答えが返ってきたので、「多分盗品だな」と思いつつも約束する。帰って商社の人にこのキャビアの缶を見て貰うと、「これはソ連では最高級品で日本では卸でも8,000円から1万円はする代物だ」というので驚いた。(デパートでは2万円くらいか?)翌日、約束の時間に河岸に出かけた。若者は、新聞紙で包み込んだ荷物を大事そうに抱えていた。(この話をその後あるロシア通の人に話したら、「新田さんは見かけによらず大胆な人ですねえ。」と言われてしまった。)

 4.ヤクーツクにて

 イルクーツクから特別機で4時間、北の果てヤクーツクへ。空から見たヤクーツクのツンドラ地帯(凍土地帯)は荒涼とした異様な雰囲気だった。ここは人間が住む最も冷寒な土地と言われ、冬には零下65°〜70°Cにもなるという。適当なホテルが無いので、レナ河に客船を用意してくれてあり、そこに3泊した。翌朝甲板に立って寒暖計を見ると、未だ9月中旬だと言うのに零下5度だった。

 いろいろな所に分かれて訪問する予定だったが、私にだけ「NECの新田さん」という呼び出しが掛かって、いきなり車に乗せられて電子試験所のような所に連れて行かれた。何人かの人が待っていて所内を見学させてくれたが、殆どの部屋がガランとしていて仕事は無いようだった。通訳は付いて来なかったので、この時ばかりは英語で話をした。見学の後、会議室で前触れもなく5ページくらいの契約書らしいもの(ロシア語)を見せられ、その説明を受けてビックリした。「NECとヤクーツクの電気試験所で合弁会社を作り、電気試験所は場所と人と販売網を用意するから、NECから設備と資材と教育指導者を送り込んでパソコン、TV、VTRのいずれかを生産販売する」という内容らしい。そしていきなり、ここにサインをしてくれと二通の書類を目の前に置いた。「この度ヤクーツクを訪問したのはビジネスの話に来たのではなく、市場調査に来たのであって、この話は受けられない」といったら、「とにかく日本に持って返って検討してくれ」と押しつけられた。NECに持ち帰り翻訳して貰ったとき、海外担当の役員から「まさか引き受けてきたのではないでしょうね。」と疑わしい目を向けられたが、私もそんなにおっちょこちょいではない。この原因は中央からイルクーツクに調査団の目的が誤って伝えられていたかららしく、後の総括会議で市長から謝罪された。このほかにも、宿泊していた船に押し掛けてきたヤクーツク共和国国家計画委員会の人からの「地球物理研究所や沿岸州銀行を巻き込んでNECと合弁で私設衛星通信網を作りたい」という申し込みもあった。

 夜、市庁舎で歓迎パーティがあった。会場に着いたのがちょうど夕日が沈むときで、何気なく後ろを振り返って思わず息を飲んだ。澄み切った空はエメラルドグリーン(ブルーではない)で、ピンク色に輝くうろこ雲が一角に浮かんでいる。その美しさは例え様が無く、私がこれまでの生涯で見た一番印象に残る夕焼けだった。折しも時を告げる教会の鐘が、私の好きなロシア民謡「夕べの鐘」だったので、思わず涙が出そうになった。「パーティが始まりますよ」と誰かが呼びに来るまで、寒さを忘れて立ち尽くしていた。

 ヤクーツクのビルはみな、2メートル位の何本もの柱の上に4,5階の建物が乗っている奇妙な作りだった。これは直接地面の上に立てると地下1〜2メートル以下は氷だから、冬の暖房の熱が地面に伝わって、氷が溶けてビルが沈んでしまうからだそうだ。

 また、市内からちょっと離れた所には、素人が木の丸太棒を積み重ねて作ったような小屋がスラム街の如くひしめき合っていた。こんな家で厳冬をどうして凌げるのだろうかと不思議に思った。

 この地には昔マンモスが沢山住んでいて、今でも凍土の下に何十匹か、何百匹かのマンモスが凍ったまま眠っていると聞いた。

 ヤクーツクの人達の顔は、他の地区と違ってモンゴル系で日本人や中国人の顔色を赤黒くしたような顔で親しみが持てた。大人も子供も私達の泊まっている客船が珍しいのか、一日中側に立ったり坐ったりして見ていた。実に純朴で我々をニコニコしながら見ている人なつっこい人達だった。今までの3都市の人達とは人種が異なるようだった。

 夜のパーティで踊りのショウがあった。若い裸の男女が腰と胸に布切れのようなものをぶら下げた格好で、得体の知れない音楽と共に官能的な踊りを次々に披露してくれるのだが、しかしこれまた何の説明も無いので一体何の踊りなのかとうとう分からずじまいだった。

 3日目は、丸1日かけて、宿泊した客船デミヤンベドヌイ号でレナ河の観光視察に出かけた。(この河は夏期以外は殆ど凍っていて船が入れないらしい。)9:30〜18:00まで、ただひたすら船を走らせ続けただけだった。まわりの景色は何処に行っても荒涼とした大地で、夏の終わりのせいか所々に草とひくい木が生えていて、それを野生の馬が食べている(なぜか太っていて足が短い)のを見かけるのみ。時々甲板に出て、そんな風景をぼんやり眺め、寒くなると部屋に戻るという繰り返しの1日だった。

 ただ一つの楽しみは、ヤクーツク市の高級官僚が持ち込んだキャビアとウォッカを一緒に飲んだことだ。まず匙一杯のキャビアを口に放り込んで味わったら、すぐ小さなグラスに一杯に注いだウォッカをきゅっと一気に飲むのがコツだと教えられてやってみたら、ウオッカとキャビアの香りが口一杯に広がって、なるほどこれが本場の食べ方なのだと感心してしまった。「乾杯!乾杯!」とロシア語で(ロシア語は忘れてしまった)声を上げながらずいぶん飲んだと思うが、不思議に酔わなかったことを憶えている。

 ところでイルクーツクでも、ヤクーツクでも共通していた議論は「今まではソ連政府の言うことを聞いて来て、馬鹿を見た。もう政府は信用しない。これからは自分たちで、自分達のための法律を作るのだ。」と言っていたことだ。「それでは国と自分達の市や自治領の法律とどちらが優先するのか?」という質問に対して、「もちろん自分達のだ」と胸を張って言う。驚いたのはモスクワに行って政府の高官と話したときも、「そうした趨勢は避けられないだろう。」と認めていたことだ。(最近見た雑誌で、その後正にその通りになり、今は逆にロシアの法律にどう一本化するか苦労をしているという話が載っていた。)

(続く)

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