崩壊直前のソ連見聞記(そのW:最終回) 新田 謙治郎
5. モスクワにて
ヤクーツクに三泊後、モスクワに向った。何と七時間のフライトだった。ソ連の広さを改めて感じた。
モスクワは予想以上の大都会だった。特にクレムリンや赤の広場の美しさはシベリア地区の都会との格差が大きすぎて、圧倒される想いだった。宿舎にあてられたオクチャブリスカヤ・ホテルの豪華なこと。ここは国賓待遇の人を泊めるホテルで、入口の両脇には銃を持った番兵が立っていた。丁度モスクワを訪問中のアメリカのレーガン前大統領も、同じホテルに宿泊していた。
3日間の滞在で政府の重要な高官と会って話し合いをもった。代表的な人を挙げると、
・ シラーエフ ロシア共和国首相。(この人は今日に至るまで、何度も大統領候補になった。ロシア共和国の国会の大広間で会ったが、ここはまるでヨーロッパの宮殿の様だった。)
・ ヤナーエフ ソ連共産党政治局員。(この人は我々の帰国後まもなく、ゴルバチョフに対してクーデターを起こした。3日で鎮圧されたが、これがゴルバチョフからエリツィンへの政権交代のきっかけになったと聞いている。)
・ ボリスキー ソ連科学工業同盟議長(日本の通産大臣相当か?)
・ ベリホフ ソ連科学アカデミー副総裁(ゴルバチョフの片腕。日本の科学技術庁長官か?)
ここで出た話の中で印象に残っているものを揚げると、
1. ペレストロイカが始まって気がかりなのは、地方の民族共和国が次第に中央から離れ、独立の気配を示してきたこと。どの共和国も、自国の法律がソ連邦全体の法律に優先すると宣言し、地下資源も工場も自分達のものだと主張しだした。(その中でも圧倒的に大きな共和国はロシアで、ソ連邦の70%の広さをしめる。)ソ連邦政府として、打つ手が狭められて来ている。
2. 市場経済への移行に関して、一番参考にしたいのが日本だ。日本は戦時中の国家経済から、戦後の闇市経済を経て、市場経済への移行を見事に仕上げた国だ。これ以上の良いお手本は世界中を探してもどこにもない。
3. 日本は二言目には「北方四島の返還が解決しなければ、ソ連への進出は無い」と言っているが、それは間違いだ。アメリカ、ヨーロッパは勿論、アジアの若い四匹の虎(即ち韓国、台湾、香港、シンガポール)もどんどんソ連に進出して来ている。日本は船に乗り遅れる危険性がある。
4. 日本との交流を深め、日本の経済、技術援助が欲しいので、来年四月にゴルバチョフの日本訪問の折に、北方四島の返還を持ち出す可能性もある。(「多分持ち出すだろう、但しこれは、ここだけのオフレコの話だが」と言った人もいた。)
実際ゴルバチョフの失脚がもう半年遅れていたら、日ソ関係はずいぶん変わっていたろうと思うと残念な気がする。
その日の夕方は、ショウを見ながらの夕食のために近くのホテルに出かけた。何を食べて、どんなショウだったかは忘れたが(ヨーロッパのナイトクラブのようなショウだったような気がする。)、ショウが終わった途端に、その場がダンスホールに早変わり。ホテルの入口に待機していた若い男女が一斉に入ってきて、踊り出した。そのうち30才くらいの女性が「一緒に踊ってくれませんか。」と英語で話しかけてきたので、調子に乗って踊り始めた。娯楽が少なくて若い人達はこんな所に娯楽を求めに来ているのかなと思いながら。「どこからきたの?」とか「仕事で来たの?」とか聞かれている内に、「何処に泊まっているの?」と聞くので、「オクチャブルスカヤだ。」と答えると、「ああ。あそこには私は行けないわ」と変なことを言う。そこへ、佐藤副団長が「新田さん。ホテルに帰るよ。」と呼びに来た。そして、「あれは売春婦ですよ。」と言われてビックリした。売春婦はケバケバしいお化粧に派手な服装という私の概念とは裏腹の、平凡な家庭の主婦に見える人だったから。後で皆に「新田さんが一番ハンサムで、金持ちだと思われたんですよ。」とからかわれて、バツの悪い思いをした。
モスクワ滞在中に通訳の人が「最近モスクワでパソコン・ショーが開催されたらしい」とパンフレットを持って来てくれた。それによると18カ国から134企業が参加しているが、日本からの出展は1社も無かった。アメリカからの出展が多いのは当然として、国交のない韓国のHyndai や台湾の Acer なども大きなブースを設けていた。驚いたのは、当時まだ COCOM ( 対共産圏輸出統制)の禁輸品だった32ビット・パソコンが名を連ねていたことだ。しかも、IBM PC-AT で 18万 ルーブル(闇レートでも450 万円)と秋葉原の5倍以上の値段が付いている。日本は東芝機械事件以来、ココム圏への輸出には通産省の審査のために膨大な申請資料を出さねばならず、しかも例外は認められなかった。
ここ1年で米ソ関係は激変したが、ココムと言う国際協定を勝手に自分の都合で無視するアメリカに無性に腹が立った。しかも他のアジアの国もアメリカの動きをよく見ていて、馬鹿正直なのは日本だけだったと解った。
このことを午後、クリチャートフ原子エネルギー研究所(特に核融合や超伝導の研究で世界的に有名な所)を案内してくれたベリコフソ連科学アカデミー副総裁にぶっつけて見た。ベリコフさんは2時の約束を5分位遅れて、汗をかきかき駆けつけてきてくれた。レーガン前大統領とゴルバチョフ大統領の昼食会に出席したので遅れたと、申し訳なさそうに言った。研究所を丁寧に案内してくれた後、「6時の飛行機でベルリンの国際会議に出席するから、皆さんとの質疑応答に充分時間がとれなくて申し訳ない。」と言いながら、それでもバスで研究所の出口まで送ってくれた。その時、ベリコフさんのすぐ近くの席に座っていたので、思い切って英語で話しかけて見た。「日本のハイテク産業がソ連に進出しにくいことの大きな理由はココム問題にある。東芝事件以来、日本はココムに慎重になっていて、アメリカの手前、日本自らこれを破るわけには行かない。むしろ、これだけ米ソ関係が変わって来ているのだから、“ココムはもう意味がない。廃止すべきだ。”とソ連側から国際会議で提案してくれないと、日本は動きようが無い。」 私の話を熱心に聞いていたベリコフさんが「貴方は電子産業の方ですか?」と言ったので、「そうだ」と答えると、「私は明後日帰ってくるから、それまで残ってくれないか。もっと話し合いたい。」という。「残念ながら、明日モスクワを発たねばならない」と答えるといかにも残念そうだったベリコフさんの顔が忘れられない。もし、この時残っていたら何が起こったのかと考えることがある。ソ連側の希望を聞いたところで、私が日本政府を動かせるわけがないし、NECだけでやれることもたかが知れている。結局何も出来なかったろうが、ベリコフさんの反応は私には大変心地よかった。
夕方、モスクワの銀座道りと言われるアルバート通りに観光に出かけた。アルバート道りには店はあっても、殆どの店に何も置いていなかった。時々パン屋の前に10人くらいの行列があったが、それよりも道端で拡げている個人個人の手作りらしい衣類や食べ物が目に付いた。少し引っ込んだ薄暗い店を何の気気なく覗いて見て驚いた。土間の上に15,6世紀のものと思われるイコン(聖画)や青銅のレリーフ(浮彫)が5,6個並んでいる。イコンは120ルーブール(3,000円)、レリーフは30ルーブル(750円)だという。多分、教会に入ることが許され出してから、盗んで来たものだろう。どうせソ連で買うものは無いだろうと思って、残念ながら50ルーブルくらいしか持っていなかった。円もドルも見せたけど首を横に振るばかり。皆を追いかけて言って金をかき集めてこようかとも思ったが、一方では「重要文化財を国外に持ち出すのが見つかると、10倍の罰金の上に罪に問われる」という話を想い出し、ぐっと我慢してレリーフだけを買った。(結果的には、出国時にもノーチェックだったので持ち出せたのだが。)2ヶ月後に住友グループの人を連れてヨーロッパ研修旅行に出かけたとき、たまたまロンドンの骨董店で全く同じキリストのレリーフを見つけた。何と日本円に換算して8万円だった。(100倍!)この話も、後にロシア通の人に話したら「新田さん。それは大変なことですよ。今ならレリーフは25〜30万円、イコンは少なくとも400〜500万円はしますよ。それにもうそんな出物は無くなっているでしょう。」といわれた。今でも薄暗い土間に置かれたマリア像のイコンを想い出す。
2日目の夜のロシア料理店、最後の夜の中華料理店での食事は、共に美味で贅沢なものだった。ここでも、東西の地域ギャップを感ぜざるを得なかった。(ソ連内には南北問題があると聞いていたが、本当だった。)このような状況をシベリアの人達が知ったらさぞかし腹立たしいだろうと思った。最後の晩餐は、笹川団長がゴルバチョフに呼ばれてクレムリンに出かけたので、団員の興奮もピークに達していた。
帰国の日の午前中は自由時間だったので、行ってみたいと思っていたプーシキン美術館に一人で出かけた。それもホテルで聞いて、地下鉄を使って行ってみた。モスクワの地下鉄はずいぶん地下の深いところを走っていたが、実に綺麗で、乗っている人の行動も整然としていたのが印象的だった。美術館の入口近くには、ミロのヴィーナスやミケランジェロのダビデ像などの彫刻があった。案内によると、このミロのヴィーナスはパリのルーブル美術館にある物とどちらが本物か言い争っているとのこと。ルネッサンス時代からドラクロア、ルーベンス、そして多くの印象派の絵やピカソ、マチスを初めとする近代画家の絵が沢山あるのに驚いた。サンクト・ペテルスブルグにある世界3大美術館の一つエルミタージュには膨大なコレクションがあるに違いない、ぜひ行ってみたいと思い始めた。
空港に向かう途中、新しく出来たマクドナルド・ハンバーガー店の回りに3重くらいのドクロをまいたような行列が出来ていたのを見た。長さにすると2〜300メートルはあったろうか。この店の出店時の面白い話を後から聞いた。マクドナルドには世界共通のマニュアルがあり、それには「笑顔で“いらっしゃい”の挨拶をし、“ありがとう”と言って注文品を手渡す」とあることが、ソ連の人達にはショックだったらしい。“笑顔で対応するなんて”「客に気が狂ったと思われる」とか「ばかにされる」とか「不真面目におもわれる」と抵抗されて、教育に手こずったらしい。(そう言えば20年前、両親、家内と一緒にヨーロッパに行く途中モスクワ空港に立ち寄ったとき、売店の人が苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。あれは「真面目に仕事していますよ」という意思表示だったのかと想い出す。)
モスクワ空港を20:00にエールフランスで発ち、翌日11:00に成田に着いた。これで14日にわたるソ連邦への旅は終わった。
あれから11年たった今、旧ソ連がどんなに変わったかを私は知らない。いずれにしろ、ゴルバチョフの来日前にソ連邦は崩壊し、ロシア共和国を始めモンゴル、ウクライナ、ベラルーシュ、カザフ、ウズベクなど多数の民族独立の共和国が生まれた。モスクワには大きな百貨店やブランド店が並んでいるという。確かに市場経済化に向かって、一部の金持ちは生まれたが、計画経済下ではある程度の労働と収入を保証されていた人達が仕事を失い、益々貧乏になっているとも聞く。寺島実郎さんに言わせれば「周到な準備無しに市場経済化に突っ走ったロシアに何が残ったか。それはマフィアとファーストフードと売春婦だけだ。」という事になるらしい。もう一度ロシアを訪ねて11年間の変化をこの目で確かめたい気はするが、あの時の様にいろいろな工場を訊ね、地方の名士や国のトップの人に会える筈は無いから、単なる旅行者として訪ねても比較のしようがないのは残念だ。
私がNECの会長以下役員向けに書いた当時の出張レポートは、次の言葉で結ばれている。
「ゴルバチョフ大統領の来日をきっかけに、急激に日本企業のソ連進出が始まる予感がします。当社としてスタート・ダッシュに遅れをとらぬよう、今から調査分析活動に本腰を入れる時と考えます。」
(私のこの提案がきっかけになったかどうかは知る由もないが、3ヶ月後にNECのモスクワ支店が開設された。以後今日に至るまでロシアの都市間高速通信インフラづくりに日系企業として圧倒的なシェアを獲得している。)
(終わり)