チャペルコンサートに心が震えた日        高嶋 宏尚

                             
 3歳牝馬のクラシック・レース第二弾オークスがあった。来週はサラブレッドの頂点を決めるダービーがある。人間の世界では、1年の区切りは大晦日であったり、3月末であったりするのだが、競走馬の世界ではダービーが年の区切りである。ダービーが終了すると、来年のオークス、ダービー目指して2歳馬達がデビューしてくる。オークス、ダービーはサラブレッドたちの年の区切りの大イベント、大祭典なのである。競馬ファンなら誰しもが、何を置いてもこのお祭りに参加し、あわよくば馬券も的中させたいと思うものであろう。江戸っ子は女房を質に入れても初鰹を食するのを粋としたようであるが、自分も女房・子供を質に入れても(誰も質草として受け取ってくれないと思うけど)、と思うほどオークス、ダービーには熱くなってしまうのである。

毎年8000頭ものサラブレッドが、オークス馬、ダービー馬になることを夢見て競馬場にデビューする。オークス、ダービーは、一生にたった一度だけのチャンスであるのだが、わずかに18頭だけが出走を許されるのみである。生れ落ちたときから厳しい勝ち抜き戦に勝利してこないと、オークス、ダービーには出走することすら叶わない。それに3歳の若駒はまだまだ競走馬としては成長途上である。心身とも不安定な青少年の時期にオークス、ダービーを迎えることになる。特に牝馬のレースには、若い女性がもつ華やかさと脆さが同居し、競走の過酷さとも相俟って、人にもの悲しさを感じさせるところがある。

 年が明けた頃からそろそろ今年のオークス馬やダービー馬を意識しだす。春を迎える頃になると、競走成績、血統、距離適性、ローテーション、成長度などを勘案し、勝つ見込みのありそうな馬を選別し始める。何年か後に今年を振り返った時、どういう馬が勝者であれば納得感があるだろうか、というようなことも漠然と考えてみたりするのである。勿論、この間、トライアル・レースなど重要なレースでは各馬の走り振りを見逃さないようにする。勝ち負けよりも、どんな見どころがあったかに注意を払う訳だ。

枠順が発表になると、さらに体調、人気、脚質、枠順の有利不利、騎手との相性、レース展開、コース適性、天候、馬場状態など、直接的にレース結果を左右すると思われる要素について何度も吟味してみる。レースは生き物であり、毎年趣が異なる。過去に今年と似た状況の年が無かったか、そのときの結果はどうだったかも思い起こしてみる。そうして、今年のレースを読み解くキーポイントは何かを考える。本命馬が敗れる可能性と、人気薄の馬が好走するケースも想定してみる。時には、人気馬に乗る騎手の心理状態まで推量してみることもある。

分析し組み立て、それを白紙に戻しまた組み立てることを繰り返す。いわば自分だけのオークスやダービーを構想するという孤独な作業を続ける訳だ。迷うことばかりであるのだが、実は競馬の楽しみの8割方は自分なりの結論を導き出すこの過程にある。一旦決断し馬券を買ってしまえば、あとは提出したテストの解答が何点もらえるかを待つのに似ている。採点はあなた任せなのである。

今年の3歳牝馬には真に頼りになる馬がいない。いわば混迷の世代と言えよう。トライアル・レースも全て勝馬が異なるし、桜花賞も事実大波乱となった。オークスの距離は、クラシック・ディスタンスと言われる2400米であり、スピードばかりではなくスタミナも要求される。いまだ成長途上の3歳牝馬にとっては、特に過酷な条件のレースである。出走する18頭はいずれもこの距離未経験であるため、走って見なければ判らない面が大きく、信頼の置ける中心馬不在とも相俟って相当な波乱含みとなっている。

距離面での不安を抱える馬が多いように思えるだけに、レースがハイペースで展開することは考えにくい。今年のオークスのキーポイントは、各馬の距離適性とペースであると考えた。極端なスローペースになれば逃げ・先行を武器とする馬に有利になるが、今年の場合は強力な先行力をもつユウキャラットが2番人気に支持されている。これを易々と逃がすようなことは、皆させまいとするだろう。そうすると、平均より少しスローな流れになるのではないかと考えた。それならば逃げ・先行、差しのどちらにも極端な有利不利はない。スローペースでスタミナを温存できれば短い距離でシャープな脚を使うタイプの馬にもチャンスはあると思うが、スタミナの裏付けもありジワジワとバテずに差してこれる馬の方に少しだけ勝ち目があるかな、と見たのである。

 桜花賞で1番人気となったものの3着と惜敗したシャイニンルビーは、今をときめくサンデーサイレンスを父に持ち、母の父はかって日本の競馬界を席捲したノーザンテーストである。2400米を走りきるスタミナ、切れ味ともに備わっていそうに思える。桜花賞では体重が22キロ減っていたため、これがどの程度回復しているかが鍵だが、まともな体調で走ればこの馬が一番強いのではないかと考えられる。大方の予想もこの馬の実力を認め、名誉挽回を期待したのだろう、桜花賞に続いて1番人気となっている。

 もう一頭、桜花賞ではチグハグなレースをしてしまい6着と敗れたが、フラワーカップの勝ち方に力強さのあったスマイルトゥモローにも魅力を感じる。 父がイタリア・ダービーを勝ち、凱旋門賞で2着したホワイトマズルであり、父から十分なスタミナと力強さを受け継いでいるように思える。実力の割には4番人気と評価が低く、人気の盲点になっている感もある。この2頭の組み合わせのオッズは30倍程で、十分に狙って妙味がある。1点勝負ならこれでいいと思うのだが、馬券を当てることはそれ程簡単ではない。他の上位人気馬にはそれぞれセールス・ポイントもありはするのだが、波乱ムードを受けてか、どうも実力以上に人気が先行しているように思えてならない。全て切り捨てることとし、人気薄の中からもしかしたら、の期待が持てそうな馬を探してみた。

 スタミナに懸念は感じられるものの、先行力があって瞬発力もありそうなキョウワノコイビトとチャペルコンサートの2頭を選び出した。ともに、女の子らしい可憐な名前でもある。人気は13番目と12番目である。キョウワノコイビトは桜花賞でも狙っていたので、もう一度追いかけてみることとした。チャペルコンサートは出走馬中2番目に体重の軽い小さな馬である。2400米を走り切るにはある程度の馬格が要求され、418キロの馬体ではかなり厳しいのだが、エルフィン・ステークスの勝ち方に鮮やかなものがあり、侮れないおチビちゃんの感があったのである。

馬券は、まずシャイニンルビーとスマイルトゥモロー。それにこの2頭とキョウワノコイビト、チャペルコンサートとの組み合わせ。さらに、15年ほど前に穴馬券をプレゼントしてくれたマイネレーベンの娘のマイネヴィータが出走していたので、実力的に無理とは思うが、母との思い出のためこの馬からの馬券も少々買ってみた。

 テレビでレースを観た。パドックではスマイルトゥモローが断然の出来に見えた。前を行く馬を追い越しそうになる程グイグイ厩務員を引っ張っていっており、気合十分である。シャイニンルビーも体重が12キロ戻っており、好い出来に見えた。もう一頭、チューリップ賞を勝ったヘルスウォールが絶好の仕上がりに見えた。思わず、馬券を買い足すべきではないかと考えたほどである。

 スターティング・ゲートが開かれた。チャペルコンサートの飛び出しが一番良かったが、大方の予想通りすぐさまサクセスビューティがこれを交わしてペースメーカーとなり、ユウキャラットは2番手に控えた。キョウワノコイビトが3番手に続き、もしかしたらの期待を抱かせ、シャイニンルビーは先頭集団の外側、申し分ない位置取りである。チャペルコンサートは5〜6番手で内ラチぴったりを回っており、距離ロスを抑え、スタミナを温存する作戦と見えた。スマイルトゥモローは後方から3〜4頭目の位置取りであり、このままでいいのかなと少し心配になったほどだ。マイネヴィータは馬群の中にチラッと見えただけだった。

思った通りサクセスビューティは平均をやや下回るラップを刻んで逃げた。淡々とした流れであり、どの馬にもレース中の不利はなかったようだ。18頭が虎視眈々と仕掛けるタイミングを計りながら最後の直線に向かった。東京競馬場の直線は長い。530米もある。しかも、ゴール前1ハロンのあたりまではだらだらと続く上り坂になっている。この坂でたいがいの馬はなし崩しにスタミナを失ってしまう。たとえ坂を乗り切ったとしてもゴールまではまだ200米の距離がある。この200米の間にレースは二転も三転もするのである。スタミナに不安を抱える馬ほど追い出しのタイミングが難かしい。府中の坂は勝負どころでもあり、騎手の我慢比べの場所でもある。

直線の坂を登り切ったあたりでまずユウキャラットが仕掛けた。サクセスビューティに並びかけ、一気にこれを交わしにかかった。最内には3番人気のマイネミモーゼが、あわやの勢いで突っ込んできた。なんと、その時ユウキャラットの外側にスルスルスルとチャペルコンサートが馬体を併せてきたのである。同時に、スマイルトゥモローも先行馬群を割って飛び出し、大外から抜群の脚色でグイグイ伸びてきた。もうゴールまではいくらもない。この勢いではスマイルトゥモローの勝利は確定的である。思わず「チャペル粘れ!」とテレビに向かって絶叫してしまった。

 チャペルコンサートは中々に鋭い脚を使うが、1600米程度までの距離に向く馬のように思う。2400米は彼女にとっては明らかに限界を超えた苦しい距離に見える。スローペースに折り合い、終始5〜6番手で内ラチぴったりを回ってスタミナを温存した。最後の直線に入ってもギリギリまで我慢に我慢を重ね、ユウキャラットが先頭に立ちかけたところを待って、乾坤一滴勝負に出たのである。これは熊沢騎手の好騎乗というべきである。スタミナに不安のある馬を巧みに制御し、ピンポイントを狙うようなタイミングでスパートさせたのだ。この戦法だけが、チャペルコンサートに勝利をもたらす可能性があるものだろう。騎手と馬は完璧にそれをやってのけた。しかし勝負は非情である。勝機を掴んだかに見えた瞬間、更に外からスマイルトゥモローが凄い勢いで襲いかかってきたのである。あきらかに脚色が違っていた。

 競走馬はマークした馬を交わしたところに他の馬が差して来ると、凡そ何の抵抗も出来ずに退いていってしまうものだ。マークした馬を交わすのに全精力を使い果たしてしまうからではないかと思う。しかし、一旦ユウキャラットを交わしにかかったチャペルコンサートは、今度は外から差してきたスマイルトゥモローに、自ら小柄な馬体を寄せていったのである。騎手の手綱捌きではなく、チャペルコンサート自らの意思でスマイルトゥモローに喰らいつこうとしたように見えた。「及ばずと雖も、せめて一太刀」、おチビちゃんが、あきらかに脚勢の違う相手と競り合おうとしたのだ。チャペルコンサートの健気な走りに心が震えるような思いがした。

 一合、二合、両者の間にわずかに火花が散ったようだったが、一呼吸の後、スマイルトゥモローは悠々とチャペルコンサートを突き放してしまったのである。振り返ってみればスマイルトゥモローの圧勝であった。1馬身半遅れてチャペルコンサートは2着。さらに4分の3馬身遅れでユウキャラットが入線、クビ差でマイネミモーゼが続いた。1番人気に押されたシャイニンルビーは好位置にいながら伸び切れず5着に終わった。やはり、懸念されたように体調が万全ではなかったのかも知れない。キョウワノコイビトは15着、マイネヴィータは9着と、ともに勝負どころであっけなく馬群に沈んでしまった。意外だったのは、パドックであれほど良く見えたヘルスウォールが大差のドン尻だったことである。レースの途中で機嫌を損ねるようなことでもあったのだろうか。本当に、馬を見分けることは難しいものだと思わざるを得ない。

 スマイルトゥモローの勝利は素直に称えよう。好い脚を長く使える能力を遺憾なく発揮した見事なレースだった。後世まで2002年の「樫の女王」として記録にとどめられることになる。しかし、もっと称えられてしかるべきはチャペルコンサートである。ファンを「あっ」と驚かせる鮮やかな走りをみせ、圧勝したスマイルトゥモローに食い下がったのはチャペルコンサートただ一頭だけであった。力及ばず敗れたりとはいえ、チャペルコンサートの完璧で健気なレース振りこそ今年のオークスの白眉であった。

また一つ、一頭の忘れ難い馬と、思い出のレースが刻まれたのである。  
 (2002.5.22)
 

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