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スポーツの試合などでヒーローになった選手が、「イメージ通り打てました/走れました」とインタビューで話すシーンをテレビでよく見る。人は、「いま、カンが当たる」との手応えがある時に輝いているものだと思う。本稿は、この週末に私自身が味わったそれらしい体感の報告である。 2月頃の朝日新聞で、同社等が主催する「びわ湖・長浜ツーデーマーチ」というウオーキングのイベントが5月8、9日(土、日)に開かれることを知った。長浜は、昨夏に亡くなった母の、もう身体が動かないとわかってからも「一度帰りたい」との思いを残していて結局叶わなかった郷里である。この記事が、「落ち着いたら、母に代わって里帰りしよう」と思っていた私の背中を押すことになり、すぐに参加の申し込みをした。日取りが近くなったある日、自分の参加日とした9日が「母の日」なのに気づいて、「孝行をしたい時には・・」の典型だなとの苦笑いさせられた。 こういう直観に頼って決めた時は、その場その場のヒラメキのままに動こう。そう思って、あまり準備もせずに7日を迎えた。その日、滋賀県の中で親戚筋をいくつか回る便宜から車で行く積もりだったのを新幹線で行くことに変えた。家人たちが数日前に、「ウオーク後の帰途の高速道路で眠くなる」と心配していたのを思い慮ってのことだった。8日、東京駅から11時半ころの列車に乗り、連休後でユッタリした席で新聞などを読みながら過ごして米原に着いた。訪ねたい親戚は3ケ所(長浜、彦根、五個荘)あったが、多分在宅されるだろうと前もっての連絡はしなかった。幸いに、米原駅からの電話で、この日に彦根、翌9日の朝に長浜、ウオークを終えてから五個荘と順序が決まった。それから、行く先々で「気持ちがハイになる出会い」があり、車で行かなかったことも正解(田舎の狭い道で家を探し当てるのにてこずらないで済んだ)で、内心ガッツポーズしたい気分で19時19分米原発の新幹線で帰途につくことができた。 |
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「長浜がこんなに元気」とは知らなかった 先ず最初は、長浜市の「駅前の商店街の活況」を実感できたこと。それは、観光人気では先行していた筈の彦根の沈滞ぶりと照らして、クッキリと見えた。駅まで足を運んで迎えてくれた従姉と一時間半ほどご一緒した彦根の駅前は、土曜日の午後3時前後だったのにどこか生彩がなく、入った店のお客の出入りも僅かなものだった。ところが、その後で移動し、ホテルにチエックインしてから夕食を摂るべく出かけた長浜の駅前はガラッと雰囲気が違った。7時過ぎだったので多くの店は既に閉まっていたが、駅前通りを50メートル程歩いた角を曲がった昔風の名前の「北国街道」でウインドショッピングを始めてすぐ、いま輝いている街であることに気づいた。黒壁の昔ながらの家並みを活かしながら、立ち並ぶお店はガラスの工芸品店あり、工芸品創りの体験工房あり、これらを飾ったレストラン/喫茶室ありと、通る人を楽しませるコンテンツはまさに今の時代のもので、見事な新旧の融和を実現していたのだった。翌日の3時頃、JRに乗る待ち時間に同街道をまた歩いて見たが、さつま芋を素材とした和風のお菓子を店頭で焼いて即売している店の前に10数人に及ぶ行列ができ(「待ち時間約25分」と表示されていて、買うのをあきらめた)ている等、老若こもごもの観光客で賑わっていた。後で五個荘の従兄に聞いた所、5年ほど前に「東は米原までだったJR新快速の、直流/交流の違い等もあって困難とされていた北陸線乗り入れを(たぶん費用負担もして)働きかける」など、長浜市の行政や商店会の果断な動きがあって、寂れ始めていた商店街の復興を引き起こしたとのことだった。何と、日本中で求められている自主再生のモデルがここにあったのだ。 |
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次は、9日の朝早くに訪ねた母の実家周辺との「50年ぶりの再対面」だった。長浜駅前からはほぼ真北に位置し、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の決戦の場に近く、その後は鉄砲鍛冶の村として知られた国友町の、姉川を挟んで南側の地である。日曜の朝早くだったせいか、駅前からその方面に向かう一番バスは、始発から降りるまで乗客は私一人だけだった。ところが、最寄りの停留所で降りて、実家に向かい始めた時から、幼年期の約2年間疎開をしていた時のおぼろげなイメージと目に見える実物を重ねあわせる「ワクワク感に浸る1.5時間」となった。歩き始めてすぐ、細い道の両側に「元・鉄砲鍛冶の家」を知らせる石柱のある家が続いた。少し進んだ右側に、江戸後期に鉄砲鍛冶の技術を天体望遠鏡や花火などの設計・製造に活かして名前を知られる「国友一寛斎の家」が見えた。そこで門の中を覗き込むと、庭先に奥さんらしい女性がおられたので、我が実家の国友宅への道筋を尋ねた。すぐ先の角を2つ曲がる直近の位置だった。「何だ。(大きくなってから書物で知ることになった)一寛斎さんの家と実家とはこんなに近いのか」と驚かされた。しかし、かって遊び歩いた筈のこの道や家々も含めて、国友と鉄砲鍛冶とを繋ぐ何らの記憶も子供だった私にはなく、実家の真ん前にあった神社の前まで来てようやく、「これは覚えているシーン」ということになった。実家の門の前にも、「元・鉄砲鍛冶の家」の石柱と由緒を紹介する市教育委員会の掲示板があって、町の観光に一役買っていることが証されていた。そして、そこに立った瞬間から、夜カブト虫を獲るのに従兄弟について行った神社の奥の樫の木や、門前を流れる掘割り状の小川、時に蛇がその真ん中を泳いでいた中庭の池、当時疎開組で大家族となっていた一族の口を満たすためにいろんな野菜を作っていた裏の畑など、次々と思い出が浮かんで来て、止まらなくなってしまった。 その中で、イメージにあるものと実物が違っていたのが、次の2つだった。一つは、ここで入学した小学校へ集団登校、つまり上級生が近所の下級生をまとめて連れてってくれた道のりが随分遠かった(30分くらいはかかったような)記憶なのが、バス停で3つ位の意外な近さだったこと。二つは、裏側のよく川遊びに行った姉川の堤防がそこそこ離れていたとの記憶が、家の前の道を角まで進んでその方向を見た時、50メートル余りの近さだったこと。案内をしてくれた従兄に話したら、「小さな子どもの足の距離感での記憶なのでしょうね」と笑っておられた。さらに、「思い出すのは夏の記憶ばかりで、冬の記憶が出て来ない」と話して、「当時は冬は雪が多く、外では遊べなかったからでしょう。家で将棋をしていたのを覚えています」と教えて貰った。 |
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新緑の田圃道「気ままなウオーク」 ウオーキング会場への帰路は従兄の車で送って貰って、10時前にスタート地点のお城近くの公園に戻った。ウオークのメニューは距離では10、20、25、40キロと幅のある5コース、日頃歩く訓練をしていない私は迷うことなく10キロを選んでいた。既に長距離組はスタートしていて、最後の10キロ組は10時半のスタートだった。この組のエントリー者は800人くらい、長い列が商店街を東に曲がって住宅街を抜け、田植えが終わったばかりの田圃道へと進んでいった。最初の内、私には何もかもが珍しく、立派な門構えの中庭を覗いたり、お寺や神社の前では気を感じようとしたり、近景の新緑や庭の花の写真を撮ったりしながらのノンビリ歩きで、同コースの人たちからドンドン遅れるペースだった。みんなゼッケンを背に背負っていて、在住県、初日/この日に歩くコースがそれで分かる。その情報を手掛かりに、並行する人と話しながら歩く道のりが続いた。主に滋賀県以外からの参加者に声を掛けたが、遠方からの人では、定年後の楽しみで2日続きで参加した人や、この種の各地のラリーに夫婦で参加している人が少なくないようだった。 当初の見積では、10キロだから2.5時間と踏んでいた。ところが、6キロ地点に用意されていた昼食の場(びわ湖岸にある道の駅で「母の郷」という一画)に着いた時、時間は12時半を過ぎていて、予定を大きく下回るスローペースだった。「このままでは、五個荘に行く約束が大幅に遅れる」と気づいて、昼食後はピッチを上げることにした。1時にスタート、これからは「抜く人はあっても、抜かれることはない」積もりだった。ところが「事実は小説よりも奇なり」、何とまだ次々と抜かれることになってしまった。こちらはちゃんと真っ当に歩いていてのことである。謎は、すぐに解けた。ちょうど、各コースの参加者がゴールでは同じ時間に着くようにスタートしていて、昼食場以降では先行した20、40キロの健脚組と交じって歩くことになっていたのだ。抜いて行く人は、全部20キロ以上、2日続きで40キロの人も少なくなかった。そして、私が抜く人は殆どが10キロ組だった。一度、2日続きの同年輩の人と並んで歩いてみようと試みてみた。「足、痛くないですか」と聞くと「痛いです」との返事、反対側に渡る信号待ちでは足をさすっている。だけど、歩き出すと私が走るように足を運ばないと付いていけない。「これやってたら、相手のペースを乱してしまう」と、ほどなく並行を止めた。ゴール直前になっても、まだ抜いていく人は居た。それは、全部40キロ組だった。さすが豪の歩き手達、基本のスピードも気構えも違っていた。「なるほど、えらい違いだな」と気づいたのが、さわやかな発見だった。ゴールしたのは1時50分、ゴールテープを持つ係員の「ご苦労さん」の声に手を挙げて応えて、FINISH門をくぐった。 |
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「ゆったりした時空」に出会う 急がなければいけなかったが、満足感もあって動作は緩慢、着替えて、預けた荷物を受け取って駅に出たら次の新快速は15時過ぎだった。最寄り駅の能登川で下りて、タクシーで「近江商人の屋敷」や「家々を巡る幅広の掘り割りを泳ぐ鯉」が都会人の心を癒やすことで観光客を集めている父方の実家へと向かう。待ち受けた従兄とビールで乾杯、近所ではウオークに参加しているという従兄に感想を話すことから会話に入った。話は弾んで、近所に急に増えた年輩の観光客のことや、近江商人の後を継いだ筈の郷土出身の経済人のことにまで及んだ。そしてフト見ると、縁先に見えた庭がきれいになっていた。一方で、樹齢数百年の見事な松が松食い虫にたった1週間でやられてダメになったと聞いて、庭の写真を撮らせて貰った。従兄が1年余り前にリタイアし実家に戻ってから庭も裏の畑も手を入れ始められた由で、都会のガサツさを離れた「ゆったりとした時間と空間」がそこにはあった。従兄の話では、勝元そうえきと言う著名な庭作り師がこの地に逗留してこの近所の庭を随分造った、これもその一つだと言うことだった。確かに、個人の家の庭としては見事な品格を備えていることが感じられた。そろそろ、自分も従兄の醸し出す雰囲気を身に付けるように心がけないとダメだなあと、あらためて感じさせられたひとときだった。 [99.5.10] |