鋸岳登頂 瀬川 滋
中央道を走っていると、甲斐駒ケ岳の隣に鋸の歯のような急峻な尾根が連なっているのが眺められる。その鋸の歯の鋭利さは、甲斐駒、仙丈、八ツに登頂して、頂上から見ても人をよせつけないものがある。でも、山をやる者には是非一度登ってみたいという誘惑にかられる何かを持っている。しかし、どんな山の本を読んでみても「難易度最高、ザイルが必要でガイドが無いと入れない山」と書かれている。そんなことで登頂は諦めていた。八ケ岳山麓に別荘を持つ山仲間の1人が、眼前に聳える鋸をガイドを雇ってでも登りたいと言い出した。この機を逃すと一生登れまいと、私も手を挙げた。それではこの夏休みに登ろうということになった。そうとなると、仲間が登山雑誌から色々情報を集めて、ザイルは要るがガイド無しでも登れるルートを見付けてきた。
集合地・茅野駅前に集まった仲間5人。食料を仕入れ、1日目のキャンプ地に向かう。そこは、桜の名所・高遠の奥の戸台という所まで車で入り、さらに約2時間程戸台川を遡った鋸岳直下の角兵衛沢出合(標高1400m)。南アルプス・スーパー林道が出来る前迄は甲斐駒、仙丈に登る人は必ず通ったメインルートで、私も昭和40年代に何回も通った。しかし今は、スーパー林道をバスが走り、北沢峠迄の高度差600mを文明の利器が引っ張り上げてくれるので、誰も使う人が無く殆ど廃道に近い。そこにテントを張ったので、聞こえるのは沢の音のみ。正に自然を独占したようなもの。夕食にすき焼を味わい、アルコール効果で19:30にはバッタン。
翌朝3:30に起き出し、簡単に朝食を済ませ4:30前には出発。角兵衛沢をカンテラを頼りに遡行する。暗くて道が良く解らず難渋。うろうろして、山道からガレ沢へ下りてしまう(帰途解ったことだが、本来標高2000m地点でガレに下りる所を間違って1700m地点で入った)。このガレ沢が大変。下の方では、浮き石を誤らないよう気を付けるのと、城壁のような垂直に切り立ったサイドの巨岩から落石が無いか気を付ければ良かった。しかし上に登れば登る程傾斜が急になり、歩く度にどんなに気を付けても、石毎身体がずり落ちてしまう。そんな所では、大きな石が比較的安定しているのでそれに足を乗せるようにするのが常識だが、ここでは通用しない。大きな石に乗ると、周囲の石を誘ってズルズルッと来るからたまらない。それに怖いのが落石。グラッときた石が斜面を転がるように落ちていく。もしこれが仲間の誰かに当たると大変。誰もヘルメットを持参しなかったので、当たれば大怪我は必至。足に目を付け、目を皿のようにして細心に登る。ほうほうの体でガレ場最頂部の尾根按部に辿り着く。ここが2600mだから、900mガレ場を登ったことになる。もううんざり。
そこから頂上までは岩場。普通岩場は難所なのだが、先程の緊張感からすれば何てこと無し。途中大きく黒光りして、とぐろを巻く糞を見付ける。熊の糞だ。こんな急峻な所に熊がいるなんて。一瞬別の緊張感が漂う。やがて第一のピーク頂上。2685m。夢にまで見た鋸岳の最頂だ。眼前に優雅な山容の仙丈が聳える。甲斐駒もすぐ先に威圧感を与えてくれる。日本第二の高峰北岳はすぐガスの中に消える。眼下にはスーパー林道、戸台川が細い線で見える。昨夜のテント場も標高差1300m下にちっちゃく見えている。これ程の高度差を一挙に直登する山は外に知らない。結局持参したザイルは使わずじまい。頂上で沸かして飲んだコーヒーが疲れを癒してくれる。正に至福の境と言えよう。第二のピークは眼前にあるが、その間に鹿窓という風穴のドームがあり、そこを越えるルートはベテランガイドが必要な難コースという。上から見る限り何てこと無く行けそうな気がするのだが、元々そこは避けて引き返す計画。
下山は元来たコースを辿るだけなのだが、これが又大変。普通山の道は誰かが歩くと踏み跡が残るものなのだが、ガレ場の無数の大石・小石は往路の痕跡を全く残してくれない。従って安全なルートが全く解らず、うろうろ試行錯誤。おまけに体重の乗り方が上りより激しいので、石のずり落ち、落石がひどい。先頭を行く者に当たりかけて、ヒヤッとする場面が何回も。そんな時、ガレ場の石の上をちょこちょこ動くものが。「おごじょ」だ。人を恐れることも無く、首をもたげて愛苦しい顔を見せてくれる。緊張の中に一服の清涼感。ガレの頂上から300m程が勝負。そこから下は傾斜が若干緩くなるので、ずり落ちの程度はまし。でも浮き石に乗ってしまうと転ぶので慎重に下る。やがてシラビソの山道に入れば、後は時間稼ぎ。やがてテント場に。その日の内に戸台まで下る予定が、仲間の一人がダウンしてそこでもう一泊。ウイスキーは用意してあったが、ビールが無くてブツクサ。皆精魂付き果たして、早めにテントに潜り込む。
翌日は戸台迄下りて車で高遠へ。高遠城址を散歩。「こひがん桜」が満開の時に来たことはあるが、その時は人、人、人。立錐の余地が無い程の人。しかし今回は広い城址に殆どいない。もちろん賑わった土産物屋も全く無し。信長に攻められ、武田が滅ぶきっかけになった往時が忍ばれた。正に「夏草やつわもの共が夢の後」。その後「桜の湯」という温泉につかる。肌がすべすべする名湯。そして今度はバスで、戸台からスーパー林道経由北沢峠へ登り、山小屋「長衛荘]に泊す。その翌朝は5時から歩き始めて仙丈岳頂上(3033m)へ。ここは高山植物の宝庫なのだが、今年は夏が厳しく若干花が早かったのと、時期が少し遅かったためか例年のように華やかで無く、秋の花がひっそりと咲いていた。昔登ったイメージと違いがっかり。でもこれも又良し。下山後バスで戸台へ。下りのバスの車窓より見た鋸は壮観。戸台川から一挙に競り上がり、頂上はギザギザ。正に鋸。歯の凹部分より下にガレた沢が何本が下りている。傾斜は非常に急。あの内の1本角兵衛沢を上り下ったのだ。圧巻。良くぞという感じ。満足感を持って山を後にした。