[シリーズ投稿] 新聞の研究(その

  誤報の原因と責任について       柳下 彊
 

 新聞記事は人間が作るものですから、当然、誤りを生ずることもあります。最近の12年間に、私が目にした新聞記事に発生した誤り、誤報を取り上げて、その原因と新聞の責任のとり方について考えて見たいと思います。  

 誤報と言っても、新聞がそれをはっきりと誤りと認めることは稀なケースで、通常は誤報と認識されることもなく見過ごされてしまうことが多いのですが、本稿では、新聞が誤報と認めた二つの事例と、一般には誤報とはされていないけれど微妙な誤りを含んでいると私が感じる一つの事例を議論の対象にしたいと考えています。  

1 ハンセン病国家賠償訴訟の控訴に関する報道について

  「らい予防法」に基づき国が続けてきたハンセン病患者の強制隔離政策の違法性を認め、国に対して賠償金支払いを命じた2001511日の熊本地裁判決に対して、小泉内閣がどのように対応するかが大きな問題となった時の報道です。同年523日付夕刊で在京各紙(朝日、日経、毎日、産経、読売)はいずれも小泉内閣は控訴するものと断定し、その主旨の記事を掲載しました。以下に、朝日紙および毎日紙の記事の一部を引用します。  

 2001.5.23 朝日東京版夕刊
 『国が全面敗訴したハンセン病訴訟の熊本地裁判決を受けて政府は
23日午前、判決内容を不服として福岡高裁に控訴する方針を確認し、同日中に正式発表する。以下略』  

 同日 毎日東京版夕刊
 『政府は、
(中略)判決が「立法上の不作為」責任を指摘した点などを不服として控訴する方針を確認した。同日午後、小泉首相が厚労相、法相と会って正式に決定し、福田長官が記者会見して発表する。』  

  ところが、同日夕刻に小泉首相が発表した決定の内容は、夕刊各紙の報道とは正反対の「控訴断念」でした。何故このようなことになったのか、夕刊記事に取材源や判断の根拠などの明示がないため当該記事からは明確にできませんが、その後の新聞紙面からヒントを得ることはできます。先ず、525日付の毎日新聞は、「控訴断念」の背景に「従来の積み上げ型ではない小泉首相の政治手法」があったことを伝え、「直前まで『控訴の方針』と報じてきたメディアの側も取材や判断の点検を迫られている。」と率直に反省しています。また527日付の日経新聞の『中外時評』には、「直前まで、控訴した上で和解することが、あたかも政府の既定方針であるかのように報じられていた。これまでの行政の常識からすれば、この『誤報』は責められない。官僚機構の下から積み上げ、各省間で合意がほぼでき上がった方針が首相の一声で覆るなど、考えられなかったからだ。」と、どこか呑気な他人事のようなトーンで、同紙論説委員氏が記しています。この二つの記事の内容から推し量って、誤報の原因は、各紙が小泉内閣周辺の官僚から提供される情報を基礎として『控訴の方針』との判断を下し、その判断が小泉内閣のトップ・ダウン型の意志決定の本質を見誤っていたことにあることが明白です。日頃、政治家の官僚機構への依存体質を批判しているメディアが、いつの間にか自らも官僚機構に依存する判断に慣らされ、実際に官僚機構から独立した判断や決定が行われた時にそれに適切に対応できなかったという事は、滑稽でもあり、また危険な事ではないかと思います。構造改革が必要なのは、政治や経済の世界だけではなく、メディアの世界でこそ必要なのかも知れません。なお、朝日新聞はこの誤報を誤報とは認識していないようで、524日付の記事で、「政府は地裁判決を不服としていったんは控訴する方針を固めていたが、問題の深刻さや控訴した場合の世論の反応などを考慮し方針転換した。」と記しています。自らの誤りを誤りと認めず、反って政府の方針転換と強弁する姿勢には、報道機関としての良心を疑いたくなります。  

2   中田英寿選手の日本代表引退報道について

 200265日付の朝日新聞は、サッカーW杯大会における日本代表チームの初戦の対ベルギー戦が引き分けに終った報道とともに、まるで熱戦の結果の興奮に冷水を浴びせようと意図したかのように、「日本代表の一人としてプレイする中田選手が日本代表としてプレイするのは今大会が最後になる」との予測記事を掲載しました。  

 2002.6.5 朝日
 「日本代表でプレーするのはこのW杯が最後だと、中田英寿
(イタリア・パルマ)が周囲に伝えた。決意は固い。」
 「W杯の間は、監督の望む通りのリーダーを演じようと決めている。」
 「W杯を最後に日本代表のユニホームを脱ごうと胸に秘め、中田英はチームの先頭に立った。」
 

 この署名記事は、中田選手がW杯大会を最後に代表戦から引退するという判断の根拠として、「中田選手が周囲に伝えた」という伝聞情報と、W杯大会における中田選手の「最後にかける覚悟がにじむ振る舞い」を挙げています。その振る舞いとは、例えば、ベルギー戦で1点を先行された後の苦しい場面について「みんなが下を向いてしまうところだったので、自分が積極的に動いてチームの士気を保った」との中田選手の発言や、同じゲームの同点ゴールと逆転ゴールの際に「真っ先に喜びの輪に加わった。」ことなどを挙げています。記事は、この他にもいくつか同様の行為を挙げていますが、主旨は、「国の名誉という鎧を着せられた国対抗の代表戦は、チームのために働くことが優先される。そんなサッカーを終りにし、自分を表現する場を探したい。」という本心を封印して、中田選手はチーム・プレイに徹し、トルシエ監督の望む通りのリーダー役を演じているのだと言う事にあるようです。奇妙な論理もあるものだと感心しますが、その点の吟味は後にして、事実の経過を辿ると、W杯大会は中田選手他の代表選手の活躍もあって予選通過という戦績を残して終わり、代表チームは107日にジーコ監督の下で再編成され、中田選手も当然参加して、既にジャマイカ、アルゼンチンとの2試合を消化しています。65日付の上記記事は誤報であったことが実証されたわけですが、新代表メンバー発表の翌日、朝日新聞は、東京本社スポーツ部長名で以下の内容の釈明記事を掲載しました。  

 2002.10.8 朝日
 ○読者のみなさまへ
中田英選手代表入り
  中田英寿選手がジャマイカ戦のメンバーに加わりました。中田選手については日韓ワールドカップ(W杯)期間中の6月5日付朝刊1面で、日本代表としてプレーするのはこのW杯が最後になる決意を周囲に伝えた、という記事を掲載しました。数カ月間の取材に基づく報道で、中田選手の決意がチームリーダーとしての活発なプレーにつながっていることを描こうとしたものでした。しかし、今回、再び代表のユニホームを着ることになりました。記事内容と異なる結果になったことをおわびします。引き続き中田選手の活動を伝えていきたいと考えています。                    (東京本社スポーツ部長・山田雄一)

 この記事と上記誤報とを併せて読み、誤報の原因を推し量れば、不確かな伝聞情報(ゴシップ)と競技シーンでのいくつかの事実の解釈に記者の不適切で過剰な思い込みが作用した結果、まったく見当違いの「代表引退」という結論が作り出されたと言わざるを得ません。このような思い込みが何に由来するのか、ファン心理なのか、価値観なのかはよく判りませんが、中田選手のプレイヤーとしての成長を素直に理解すれば良いものを何と奇妙に捻じ曲げて解釈したものかと、呆れるばかりです。スポーツやスポーツ選手の行動を論ずる場合に、スポーツとは関係のないゴシップやゴシップ的な興味を中心に作文するのは、フェアプレイの精神に欠ける行為ではないでしょうか。また、釈明記事について一言すれば、こちらも潔くないものです。「数カ月間の取材に基づく報道で、中田選手の決意がチームリーダーとしての活発なプレーにつながっていることを描こうとしたものでした。しかし、今回、(中田選手は)再び代表のユニホームを着ることになりました。記事内容と異なる結果になったことをおわびします。」という表現は、失言、放言をした政治家などが「(私の発言は)〜を意図したものだった。結果として国民の皆様に誤解を与えたことをおわびする。」という、よくあるパターンの釈明と何とよく似ているではありませんか。朝日新聞東京本社スポーツ部は、スポーツに関する報道という職務にありながらフェアプレイの精神の本質を理解していないのではないかという疑問を抑えることができません。  

3  大阪教育大学付属池田小学校の児童殺傷事件報道について

 200168日に発生した池田小学校の痛ましい事件についての報道は、一般には誤報を含んでいるとは認識されていませんが、事件直後の混乱時における報道内容には誤報に近い重大な問題を含んでいるように私には見えます。  

 以下に、事件直後の朝日、毎日両紙の容疑者像に関する記事内容を抜粋します。  

 2001.6.8 朝日東京夕刊
 「男
(匿名扱い)は精神科に通院中だったという。男は精神安定剤10日分を1度に服用したといっているという。」  

 2001.6.8 毎日大阪夕刊
 「調べに対し、男
(匿名扱い)は「きょう、精神安定剤を10回分まとめて飲んだ」などと供述しているという。男は993月、校務員として勤めていた小学校で自分が服用していた精神安定剤をお茶に混入、教諭4人に飲ませた傷害容疑で逮捕された。しかし、刑事責任能力が問えないとして起訴されず、処分保留、措置入院となった。」
 「大阪府警によると、逮捕された男は薬物による幻覚状態で、けがもしており、大阪警察病院で手当てを受けている。」

 2001.6.9 朝日朝刊 精神安定剤の大量服用に関する専門家談話として
 専門家は、「今回飲んだとされる
10回分、すなわち23日分なら、一度に飲んでも錯乱するほどの副作用は考えにくい」と話す。
 一方で、同じ専門家によると、大量服用患者は、最初はうとうとした状態でも、薬がさめかけてくると急に興奮し、暴れ出すことがある。
 「体内の薬の量が中途半端になったときに、抑制がはずれ、わけがわからない状態になってしまいやすい」という。

  2001.6.9 朝日社説
 「容疑者の男は精神安定剤を大量に服用していた。
2年前に傷害事件を起したが、刑事責任は問えないとして起訴されず、入退院を繰り返していたという。」  

 この凄惨な事件の発生時から最近にいたる報道の流れは、大きく三つに分類して捉えることができるように思います。一つは、主として事件発生直後に流された被害状況、容疑者像などの事件に関する報道、二つ目は、610日の小泉首相の「こういう問題(重大犯罪を犯した精神障害者が、(一般社会に)戻って事件を起すという問題)に対して法的な不備がある」という発言を契機として始められた法改正の動きに関する論評・報道、三つ目は200112月に開始された公判に関する報道です。  

 これらの報道の流れのうち、事件発生直後の事件報道は、事件の全容が把握されていない状況の中で警察(大阪府警など)の捜査情報を中心とする事実をつなぎ合わせて作られており、全体としては多くの被害者の受けた深刻な衝撃、悲しみを強調する反面、当初は精神障害者として匿名により報道された犯人の凶悪さ、犯罪行為の理不尽さを強調するものでした。これらの報道には細かな誤り(例えば、逮捕された容疑者は薬物による幻覚状態を示していた、また精神安定剤を大量に服用していたなどの情報は、後の捜査情報では否定された。)は含んでいますが、大筋としては事実に基づく報道と言えるものでした。ただし、事実に基づく報道であっても、これらの記事は、上述したように、精神に障害を持つ者が理不尽で凶悪な犯罪を引き起したという決定的なイメージ(虚像)を世間に与えるものであったこともまた、争えない事実です。この印象は、勿論新聞だけが作り出したものではなく、事件当時、繰り返し放映された事件現場や被害者家族のテレビ映像の力も大きかったと考えられるのですが、私は、新聞もそのようなイメージを作り出した責任を担っていることを自覚して欲しいと思います。このようなメディアの生み出したイメージの力に押されるようにして、小泉首相は、「法改正の必要」を唱え、その動きは、「心神喪失者医療観察法案」として形を備え国会で審議される段階まで進んでいます。私自身は法改正の進展を必ずしも悪い事とは思っていませんし、同種犯罪の再発防止の観点からは一定の効果を期待できるのではないかと考えますが、上記のような事件報道により法改正の動きに力を貸した新聞が、その点に無自覚なまま同じ紙面で、「人権擁護」の観点や「形を変えた保安処分」だとの論を言いつのり、法案推進の動きに牽制を加えようとしている偽善性を素直には受け入れられないのです。  

 池田小学校で昨年6月に起きたこの無惨な事件の本質は何だったのでしょうか。昨年12月には初公判が開かれ、検察側の冒頭陳述が公表されました。検察側は容疑者に責任能力ありと判断して、精神鑑定を経て起訴、公判に持ち込みましたが、弁護側は犯行事実については争わず、責任能力に疑問ありとして再度の精神鑑定を申請する方針と報道されています。検察側の冒頭陳述には犯行に至る経緯が詳細に記述されていますが、犯行の動機については未だ十分に解明されたとは言えないようです。この事件に関連して、次のような興味深いインタビュー記事が同じ新聞に昨年7月に掲載されました。  

 2001.7.24 朝日夕刊
 パリ高等司法研究所所長 アントワーヌ・ガラポン氏談
(抜粋)
 
(テレビ報道について)「葬儀の様子を報じる番組もあり、視聴者の感情に訴える報道が多いとの印象を受けました。」
 「世界中の民主主義国では、被害者の無垢性を強調する報道が手伝って、加害者を悪玉にし、被害者側へ心理的に同一化
(同情)する傾向が強まる現象が共通してみられる」

 大阪の事件を見て、(ガラポン氏は)カミュの小説を思い出したという。殺人の動機について主人公が「太陽のせい」と答える『異邦人』だ。
 「理解不可能な犯罪は、人類のナゾとして存在し続けます。」
 

 私も、この事件の本質は不可解な点にあると考えます。1年近い公判経過をたどって見ても、何故このような犯罪が起きたのかは、解明されたようには見えません。不可解な犯罪の再発を防止することは不可能に近い難事だとは思いますが、不可解な事柄を解明できるかのように錯覚した性急な報道姿勢が誤報やその結果としての虚像を生み出し、事件の解明や再発防止のためには何の役にも立たないことも明白です。不可解な事件が次々と起こる今日こそ、不可解を不可解として受け止め、丹念に事実を追って、解明のための地道な努力を重ねる謙虚さが必要なのではないでしょうか。  

 三件の誤報ないし誤報に限りなく近い報道事例について考えてみて、あらためて持つ感想は次の三つです。一つ目は、報道の自由という理念と、新聞の責任との調和ということです。報道の自由という大義に保護される記者は、記事の作者としての責任を疎かにしていないでしょうか。大新聞の記事の取材源が記事中に明示されることは滅多になく、あっても例えば、「関係者」、「外務省幹部」、「政府首脳」のように抽象化して記述されたり、取材源がまったく示されずに「・・・という事が判った。」のように記述される記事もしばしば目にするところです。このような記述形式は記事というよりも殆ど物語に近いもので、記事に誤りがあった場合の責任を曖昧にする効果を持ちます。この問題は別の機会に考えたいと思いますが、取材源はできる限り具体的に記述することによって、記事の責任の所在を明確にすべきであると思います。二つ目は、日本の大新聞は大量発行(マス・プロ)されますが、記事はマス・プロ方式をとるべきではないということです。記者が自らの目で観察し、自らの頭で考えた内容を記事にすべきであり、伝聞情報をコピーして記事にするような方法をとるべきではありません。三つ目は、新聞の大量発行に問題がないかということです。大新聞の一千万部を超える発行量は、必然的に大量販売のための巨大な組織の維持という要請を生み出します。巨大組織の維持の必要が、記事の内容、品質に影響を及ぼすことになっていないでしょうか。前述した新聞業界の構造改革の必要性は、これらの事柄を真面目に考えれば明白であると私は考えます。

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