[シリーズ投稿・(その
)]
 

 私の趣味:クラシック音楽ビデオ・ライブラリー     大村 英堯


 <序奏>
 

 私の「趣味」はクラシック音楽である。  

 「趣味」というより、「無意識かつ無目的に関心をもち、かつ最も多くの時間を投入したいと思う分野」と表現するほうがより適切かもしれない。大げさであるが、これまでの私の「生きがい」もしくは「生きている証し」といってもよいであろう。  

 私は昭和9年(1934)生まれの68歳。2年前に現役引退、今は「最も多くの時間を無意識かつ無目的かつ自由にクラシック音楽に投入できる」幸せを実感している。  

 「クラシック音楽」に私はどうかかわるのか? 

     音楽会にいき、

 2    CDDVDLDを鑑賞し、

     関連図書や雑誌をよみ、

    国内外の音楽情報をネットサーフィンし、

     気分がむけば好きなフレーズだけをピアノで弾き、

     NHKのすべてのBSクラシック番組を視聴し、

     これらをS-VHSテープ(アナログ放送、主としてEPモードで)やD-VHSテープ(ハイビジョン放送の場合、HSモードで)に収録・永久保存し、

     その検索・アクセスのための管理データをデータベース(エクセル)に保存する

 これら一連の動作すべてを含むのである。

 本稿の目的は、このうち7〜9について紹介させていただくことにある。ちなみに現時点での収録量は、テープ総数560巻、延べ3,400時間、延べ8,500曲である。今後いつまで続けるのか? 多分死ぬまでと思っている。何のために? 無目的である。強いてあげれば、自ら楽しむためである。  

 本題に入る前に今回は<序奏>として、なぜこのようなことにハマッテしまったのか、その経緯について述べさせていただく。5W1HのWhyである。

 私とクラシック音楽との出合いは、母がソネットタイプのピアノを弾いていた遠い昔にさかのぼる。国民学校1年生(1941)の時に音楽の先生につき、バイエルを習いはじめた。当時、男の子では珍しかったが、戦争が激しくなりピアノどころではなくなり、習うのはやめざるをえなかった。しかし、音楽への関心はやまず、戦後、中学・高校時代を通して我流でベートーベンやショパンに夢中になり、受験勉強をおろそかにした。一浪後の大学2年の夏、国立音楽大学の夏期講習に参加、そのまま担当の井上初子教授(当時は専任講師)に強引に弟子入りを申し出、先生が辟易とするのもかまわず五反田のご自宅に押しかけ、門下生になった。若気の至りというか、辻淳二氏の稿にある「直感、即行動」の青年期における実践である。社会人になってからも、引き続き井上先生の門下生としてその発表会(多くは音大生)に出させてもらい、ベートーベンやショパンを強心臓だけで演奏披露したものである。  

 しかし、アマとはいえ社会人がピアノ演奏を趣味として深めていくには大きな問題があった。その一つは練習時間の制約である。企業への絶対忠誠が要求され、遅くまで会社内にいることが能力・業績評価条件であり、マージャンや飲み付き合いが企業にとって最も大切な“和”を構築する上で不可欠とされた“モーレツ時代”にあって、「私の趣味はピアノ。仕事も無いのに遅くまで居残り、連日マージャンに付き合うのはいやだ」と主張し実行するには厚いカベがあった。結果は必然的に練習時間の不足をもたらし、発表会の精神状態に現れた。
 
社会人になって3年目(1959)、YMCAホールでの井上門下生発表会でのことである。私の曲は、ベートーベンのピアノソナタ「月光」の第3楽章。練習不足のため暗譜が心配、「途中でわからなくなったらどうしよう」との不安につきまとわれ、とにかく早く終わらなければとの思いから実力より速めのテンポで始めてしまった。この「テンポで進んだら先行き弾けなくなる、どうしよう、聴衆がみんな私の方を向いて笑っている」などの雑念が次から次へと沸き起こり、テンポは心臓の鼓動のように一層早まり、自宅練習時の3割程度の惨めな演奏になってしまった。

 そもそも、暗譜というのは弾く方にとっては大変な負担で、巨匠でも演奏直前は極度の緊張に悩まされるとの率直な告白もある。「おさらい会」の場で小さな子供が立ち往生し泣いている姿を見かけることがあるが、胸が締め付けられる思いがする。誰かがすぐソデから飛び出してきて譜面台をとりつけ、音譜をひろげてあげるべきだ。なにもせずに1〜2分間も放っておくのは言語道断、幼児虐待そのものだ。その人柄を疑いたくなる。直前に本人が希望するなら、いや希望しなくても教師の判断で、始めから音譜を置いておくべきではないのか。閑話休題。  

 かくして、私の場合は、このときの苦い経験から、ピアノ発表会に出るのも、井上先生に師事するのもやめた。先生からは「誰でも、発表会のときは普段の実力の半分くらいしか発揮できず、後味が悪いものですよ」と慰められたが、やめる意思に変わりはなかった。というのは、そもそも問題の本質は練習時間ではないのではないか。むしろ自分自身の技能レベルを無視し、より難度の高い曲を弾きたいという果てしない願望の高まりと、練習さえすれば果たしてだれでも弾けるようになるのかという疑問の間のギャップ、つまり意欲と能力の乖離・矛盾の広がりに気づいたのである。

 例えば、ショパンのバラード第1番ト短調作品23。どうしても弾けるようになりたかった。全部で263小節。かりに毎週5小節づつマスターすれば53週、1年ちょっとでなんとかモノになる。3小節づつにすれば2年でこなせる。いわんや、ピアノを全く弾いたことのないフランスのある貴族が、ショパンを1週間自分の屋敷内にカンヅメにして集中指導をうけ、遂にモノしてしまったといういわく伝説つきの曲だ。ナンとかなるハズ・・・・と取り組んだが、この考えは甘かった。すぐに挫折した。さらに決定打となったのは、バッハのインヴェンション。2声まではなんとかやれそうでも、3声・4声となると手も足も出ない。同時に3つや4つもの異なるアナログ曲線を両手で描くなど、精神分裂症でもなければできないことだと思った。  

 実力不相応の高望みは、多忙な仕事による時間制約と能力の限界を思い知らされたことで、次第に沈静化していった。青年期のあえないギブ・アップである。その後は、“気楽”な鑑賞に重点を移行せざるを得なかった。なけなしの給料やボーナスをはたいて、ギーゼキング、バックハウス、サンソン・フランソワ、リリー・クラウス、リヒテルなどのLPを片端から買いあさり始めた。すると不思議なものである。それまで、「ベートーベンとショパンのピアノが全てだ。純粋にピアノだけがよい。ピアノ協奏曲はオーケストラの“雑音”が入るから魅力を感じない」などと豪語して周囲からヒンシュクをかっていた自分の狭量が恥ずかしくなってきた。まして、自分の出すピアノの音などバカらしくてきけるシロモノではなくなった。好きな作曲家や作品も、バロック(バッハ、ヘンデル)から、古典派(ハイドン、モツアルト、テレマン)、ロマン派(ベートーベン中期以降、ロッシーニ、シューベルト、ベルリオーズ、ワーグナー、ブルックナー、シューマン、ブラームス、マーラー、ベルディ、プッチーニ、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、グリーグ、シベリウス)、20世紀(R・シュトラウス、ビゼー、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、シェーンベルク、ウェーベルン、ヒンデミット)などなど無限に拡散し、クラシック音楽であればすべて良くなってきた。  

 挫折体験が自分をより高い次元に引き上げてくれたと、心底から思うようになったのである。クラシック音楽はすべて聴きたかった。何時でも好きなときに望みの曲を聴けるように手許に置きたかった。単に音を聴くだけではなく、指揮者や演奏家の表情、手・身体の動きもつぶさに観察したかった。しかし、音楽会やLDだけでは時間・カネ・アベラビリティの制約が大きかった。  

 時おりしも1986年2月、放送衛星BS-2b(ゆり2号b)の打ち上げで衛星放送時代が幕をあけた。1992年には、本格的な衛星テレビ(アナログ)時代に入った。1996年、デジタル衛星放送元年。2000年、ハイビジョンデジタル放送の本格化。クラシック音楽放送も、BS2のアナログ(=デジタル)、ハイビジョン(デジタル)ともに充実してきた。私の「クラシック音楽をすべて聴きたい、見たい」という欲望を満たす環境は整った。このような時代に生をうけたことを神に感謝する。  

 私がなぜクラシック音楽放送番組の録画収集にハマッタかの事情は以上のとおりである。  

 ふりかえれば、私は30歳(1964)で井上先生の門下生のひとりと見合い結婚。妻の前でのデタラメ弾きもはばかられたので、ピアノからはさらに遠のいた。娘2人誕生、その教育、ピアノの支払い(買い替えも含めグランドピアノ3台、アプライトピアノ3台)、住まいや防音室工事の費用(マンションを買い替えたので防音工事2度)などに追われているうちに、娘たちもそれぞれ結婚、孫の誕生・・・と、アットいう間に38年が過ぎ去った。  

 私の職歴は、銀行員10年、電子メーカー6年、外資系12年、建設関連7年、外資系8年・・・の異業種転々のジプシー・タイプである。最初の2つは、自らを不適合と判断し自分自身をリストラした。次ぎの2つは、経営方針を巡ってトップに妥協せず解雇された。最後の外資系8年は、相互に尊敬するスウエーデン人経営者から望まれて設立発起に加わり、CGIなる夢の鋳造技術の実用化に7年間精魂を傾けた。大不況のさ中で、時を得ず断念、やむなく精算した。株主には損害をかけたが、従業員に関しては全員転職を支援、一人の解雇者もださず、また無借金・無買掛金を貫徹したことを誇りに思っている。  

 世間一般の常識からすれば波瀾の多い職歴と見られがちであるが、43年間ただガムシャラに管理部門に携わってきたので、私自身は転社はしたが転職したとは思っていない。思えば、父親の転勤で小学校2つ、中学3つ、高校3つの転校を経験した。当時、サラリーマンの単身赴任は許されなかったからである。「変わらなかったのは大学の4年だけ」という転々の生活の中で、自然と一箇所にとどまることがむしろ不安になるような習性が身についていたのかもしれない。  

 外国人も含めて異業種の優れた先輩・同僚・後輩や多くの専門家たちと知り合いになれたこと、それも文字通り「君子の交わり、淡きこと水の如し」を地でいく交友関係を現在も続ける多くの真の友人に囲まれていることを誇りに思っている。自分の信条(らしきもの)を貫き通したことにも、ささやかながら自己満足している。
 辻淳二氏との出合いもその一つで、最初の外資系でのシステム構築以来、大変にお世話になっている。そのご縁でこの投稿のお誘いをいただいたことを本当に嬉しく思っている。
 

 <序奏>はこれくらいにして、次回からは、本題の「私の趣味:クラシック音楽ビデオ・ライブラリー」を、関連するエピソードやささやかな私の哲学論・芸術論を交えて紹介させていただく。 03.1.24

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