[シリーズ投稿] 新聞の研究(その5)
ホリエモン報道の虚実A(毎日新聞の場合) 柳下 彊
ニッポン放送株式買収の目的を問われたライブドアの堀江社長は、「メディアはインターネット主体になると考えており、新聞社など大組織やこれまでのブランドではもう通用しない。」、「地上波はもう古く、テレビもネット型のビジネスモデルにしなければならないと考えている。」(2005.3.1週刊エコノミスト)など、新聞と放送に対する挑発のようにも聞こえる発言を行い、これらはテレビや新聞紙面などを介して広く報道されましたから新聞からの反発も強く、ジャーナリズムの存在意義を強調する立場からの堀江批判の記事・論説も一時期かなり頻繁に新聞紙面を賑わせました。そのような堀江批判の中から、毎日新聞の三つのコラム記事をとりあげ、新聞の考える「ジャーナリズムの公共性」について考えてみたいと思います。
[2005.3.29毎日「記者の目」やっぱりおかしい堀江流;位川一郎記者(経済部)]
@株主の利益は他の利害関係者(従業員、取引先、消費者、ひいては社会全体)の利益と常に一致するとは限らない。敵対的買収の場合は特にそうである。株主の判断が間違っていて企業の成長を阻害する場合もありうる。堀江氏はこうした点を無視して「どんな時でも株主が一番偉い」と主張しているように聞こえる。(中略)
A象徴的だったのが、ニッポン放送の社員がライブドアの経営参画に反対する声明を出したことについて、毎日新聞のインタビューで「言わされてるだけでしょ」と述べたことだ。(中略)
B旧秩序の破壊者という意味では、(中略)小泉純一郎首相と堀江氏はどこか似ている。しかし、破壊の動機として「お金」以外の要素を感じられないことと、法のすき間をついて登場した破壊者であることが、どうしても気になる。
上の記事は、ライブドア社が敵対的買収を開始した後の堀江氏の言動を第一線の記者が批判したものです。位川記者は「ニッポン放送買収にあたっての堀江氏の他者への配慮を欠く言動」を批判しているのですが、批判対象とされている堀江氏の言動は、新聞によるインタビューや、TVインタビューで報道されており、毎日新聞でもその一問一答内容を3月5日付で報道しています。同インタビューによれば、@の経営と株主の関係について堀江氏は「株主が喜ぶ、利益を出すためにはどうしたらいいのか考えていくのが経営者の使命だ。」と発言しています。この発言はごく当たり前の「株主資本主義」といわれる考え方に基づくものですが、これがどうして「どんな時でも株主が一番偉い」と主張していることになるのでしょうか。記者はTV番組での堀江氏の発言「企業の所有者は株主。株主が誰であろうが文句は言えないはず」と併せて上の結論(どんな時でも株主が一番偉いと堀江氏は主張している)を導いているのですが、堀江氏の言葉の真意は、「株主は投資先として株式会社を選べるが、株式会社(の経営者や社員)側は株主を選べない。」という点にあるのは明らかで、記者の読み方は曲解または拡大解釈ではないでしょうか。
AおよびBの「言わされているだけ」発言と、堀江氏の拝金主義とも言えそうなお金の力を強調する言動については、記者の道徳観や、ジャーナリズム観から承認できないということのようですが、堀江氏のような企業家の言動を普通の道徳観を基準として裁断するのは、公平さに欠けているように私には感じられます。競争社会の渦中にある企業家が収益の追求に努力を傾けるのは、ジャーナリストが真実を追求するのと同様に当然のことであって、それらは社会的には等価値の行為として扱われるべきではないでしょうか。利益追求が社会のルールに則って行われる限り企業家の言動は承認されるべきで、ルール違反の有無こそが厳しく問われるべきなのです。この意味から記者は、堀江氏が「法のすきまをついて登場した破壊者」であるというのであれば、その点を具体的に追求すべきではないかと思います。
位川記者の堀江批判は、記者自身の主観的価値観に偏り過ぎていて、説得力に欠けていると私は考えます。
[2005.3.17毎日「記者の目」ライブドア堀江貴文社長への反論;渡辺雅春記者(社会部)]
@(堀江氏の)「ジャーナリズムは必要ない」という発言には、声を大にして反論したい。いかにインターネットが発達しようとも、ジャーナリズムが存在意義を失うことはない。(中略)ジャーナリズムは、自由で公正な社会を実現するため、人々に必要な情報を提供することだと考える。その機能がはっきりと表れるのが調査報道である。
Aインターネットもジャーナリズム的機能を担う可能性はある。注目されるのはウェブログ(ブログ)だ。(中略)しかしながら、組織的、継続的に社会をウオッチし、報道を続けることがブログでは不可能だ。情報を集め、裏付けを取り、その事実が社会にどのような影響を与えるのかを考慮して報道するのは、訓練を積んだプロのジャーナリストでなければできない。
堀江氏の「ネット化社会では、(既存の)ジャーナリズムは必要なくなる。」との発言は、プロ・ジャーナリストにとっては特に刺激的だったようで、この発言は、頻繁に取り上げられ、批判を加えられました。渡辺記者の意見もそのような堀江批判の一つです。
記者は、自由で公正な社会を実現するために必要な情報を提供するジャーナリズムの機能を担うものとして、調査報道のいくつかの事例(「旧石器発掘ねつ造」事件報道、「防衛庁リスト」報道、米国におけるウォーターゲート事件報道など)を挙げて、これらの報道は、組織的、継続的に社会をウオッチし、情報を集め、裏付けを取り、その事実が社会にどのような影響を与えるのかを考慮して報道する訓練を積んだプロのジャーナリストでなければできないことだと述べます。
一方、堀江氏は毎日新聞のインタビューでジャーナリズムに関して次のようにも述べています。
何でも(メディアが)スクリーニング(取捨選択)しまうことはいいのか。(中略)途中でスクリーニングをかけたり、バイアスをかけたりすることは必要なのか。それは読者が判断することではないか。(中略)
僕はコントロールしたくない。(メディアは)純粋な媒介者であるべきだと思うんですけど。ありのままの事実をそのまま伝えるのがいいんじゃないですか。
渡辺記者は上記のコラムを「社会は倫理観と責任感を持ったジャーナリズムを必要としている。そう信じる。」という言葉で結んでいます。また堀江氏のインタビューで「新聞は必要ない」という答えを引き出した毎日新聞側の質問は、「ジャーナリズムは隠された事実を明らかにし、社会の不正を追求し、いろいろなオピニオンを提供する。堀江さんが考えるビジネスモデルとジャーナリズムはどう一致するのか。」というものでした。毎日新聞は「毎日綱領」として5項目を掲げており、その3番目に「毎日新聞は社会正義に立脚し、自由、人権、労働を尊重する。」とあります。
新聞と、新聞記者は「正義」や「倫理」が好きなようですが、現代社会において自分は正義の側に立っていると過信するのは反って危険なことではないでしょうか。また、プロ・ジャーナリストのプロフェショナルな力はニュース報道においてどのような側面に発揮すべきなのでしょうか。私自身が新聞やテレビの報道に対して期待するものは、先ず事実、次に事実の意味に関する必要最小限の解説です。そして余り見聞きしたくないものは、抽象的な社会正義観や、市民の代表を気取った記者の主観的、情緒的な意見です。その意味でプロの力は第一に事実を究明することに、次には突き止めた事実の意味を的確に把握することに、最後にその全体を余すところなく読者に伝えることに注いでほしいと思います。このような意味から、堀江氏の「メディアはニュースを途中でスクリーニング(篩いにかける)すべきではない」という意見に私は賛成します。
自ら「旧石器発掘ねつ造」事件の報道に携わったという渡辺記者をはじめ、毎日新聞が同事件報道の成果を誇る気持は良く判りますし、確かに考古学研究者F氏の捏造行為を暴いた報道は衝撃的であり、立派な成果を挙げたとは思いますが、それでも私は新聞等の報道機関の事実究明の努力がもっと徹底していたならF氏の捏造行為を20年以上も許すことはなかったのではないかという疑問を抱かざるを得ないのです。実際のところ、F氏の捏造行為が続けられていた長い期間中、毎日新聞も含め新聞はF氏の石器にかかわる「天才的眼力」を称える記事を繰り返し掲載していたのではなかったでしょうか。
隠された事実を究明するためには、プロによる組織的な追及はもちろん必要ですが、それと同様に普通の人が備えている健全な良識が果たす役割も大きいのではないでしょうか。その意味で堀江氏のいう「純粋な媒介者」としてのメディア論は一考に価するのではないかと思います。新聞が、堀江氏のメディア論を常識外れのように批判して振り向いて見ようとさえしないのは、既存メディアの能力を過大評価する傲慢な態度ではないでしょうか。
[2005.3.16毎日新聞電子版;サンデー時評「ホリエモン「情報の意味」がわかっていないな」(岩見隆夫毎日新聞特別顧問)]
(堀江氏の)この認識は間違っている。〈興味あるネタ〉とか、〈いろんな意見〉は情報の一種かもしれないが、〈有用な情報〉かどうかの値打ちで言えば、せいぜいCランクかDランクだ。(中略)社会に欠かせないAランクの情報らしい情報はネットのなかにない。なぜならば、Aランクは大概の場合、知らせたくない、あるいは知られたくない情報である。(中略)Aランクの情報とはどんなものか。たとえば、国家機密を探り出すことによって、国の不正をあばく情報、丹念な調査によって歴史を塗り替える情報、などである。入手のノウハウはいまのところ新聞、テレビの取材者と一部の精力的なフリージャーナリストしか持ちえていない。インターネットが将来独自のノウハウを開発できるかどうかは甚だ疑問である。(中略)肝心なことはレベルの高い社会を維持、発展させるための発掘情報である。それはネット操作では生まれない。ジャーナリズムの日夜にわたる愚直な努力だけが頼りである。どこかで、堀江さんは、「われわれは新聞、テレビを殺していく」と放言したそうだが、ネットだけに任せていたら、それこそ社会が崩壊する。
岩見氏による「サンデー時評」は週刊「サンデー毎日」の連載コラムですが、毎日新聞のインターネット版にも転載されています。前記渡辺記者のコラム内容の「調査報道」を「Aランクの情報」に置き換えれば、ほぼ同様の趣旨のように読み取れます。「この認識」とは、堀江氏の「ネット社会では、既存のジャーナリズムは必要ない。何故ならば興味あるネタはインターネット上にあって自分で探すことができる。いろいろな人の意見があるので、読み比べて自分の考え方の形成に役立てられる。」という趣旨の発言を指したもので、この点も渡辺記者の取り上げ方と共通しています。「Aランクの情報」について岩見氏は具体例を挙げていませんが、「丹念な調査によって歴史を塗り替える情報」と説明していますから、確かにその究明には厖大な時間や手間を必要とするでしょうし、プロ・ジャーナリストのノウ・ハウも必要でしょう。しかし、冷静に考えてみて、堀江氏の主張していることは「ネットか既存メディアか」という二者択一論なのでしょうか。そうではなくて、堀江氏は「既存メディアのほかに、別の選択肢としてネットというメディア(媒体)もありますよ。」と言っているだけではないでしょうか。ジャーナリストとして自信を持っている人ほど、堀江氏の挑発的に聞こえる言葉に過剰に反応して、堀江氏の実像や、彼の意見の実質を見失っているように見えるのは残念なことです。上に引用した毎日新聞の二つの記事(渡辺記者と岩見氏の記事)より後ですが、「メディアを殺す」という自らの発言に関して堀江氏は、産経新聞の質問に次のように答えています。
[2005.3.26産経新聞:ライブドア・堀江社長インタビュー 一問一答]
産経紙;雑誌の取材で「メディアを殺す」という発言があった。どれが重要かという判断をするところに新聞が存在する意味があると思うが、「そうじゃない見方がある」ということを言いたかったのか
堀江氏;「新聞に関しては、そうです。テレビとかに関しては、またちょっと意味合いが違ってくるんですけど」
産経紙;ニュース判断に新聞の価値を感じるが
堀江氏;「そうそう。だから価値を感じているんだけれども、一方でそれはわれわれ市民にとっては危険でもあるんですよ。メディアが聖域であったのはまさにそこで、だれも火の粉にふれたくなかったから、誰も手を出さなかったわけで、それは逆に言うと政治家ですらビビッてしまうような聖域と化していたわけじゃないですか。(中略)(堀江氏は)若い分あんまりよどんだところがないから、(メディアの)中に入っていって「メディアを殺す」とかいう発言ができた。そこなんですよ。新たな価値観を植えつけないと、(メディアは)変わっていかないでしょ」
堀江氏の言う「メディアの危険性」とは、新聞が自らニュースの価値を判断し、その判断に基づいて、スクリーニング(篩いにかける)したうえで、公衆に対して報道する点に「偏り」が生ずる可能性があることを指しています。新聞側は(ニュースの)何が重要かについて新聞が判断するところに価値や意味があるというのですが、その判断に恣意や偏りが入り込む余地は本当にないでしょうか。もしそれがあるとすれば、毎日数百万部から、最大一千万部を超える発行部数を持つ全国紙が社会にもたらす悪影響は計り知れないことになります。そういうことが仮にないとしても、既存の新聞・テレビの取材網にインターネットという柱を加えることは、新聞やテレビにとって大きなプラスになるのではないでしょうか。毎日新聞の記者達が堀江氏の言葉に耳を傾けようとせず、敵対的な参入者として排除することに躍起になっているのは何故なのでしょうか。やはり、堀江氏が言うように「(メディアの中で)今やっている人たちからすれば、(メディアを)変える必要がない」からなのでしょうか。この点に関連して、毎日新聞自身が社説によって次のように述べています。
[2005.3.26毎日社説;ライブドア 通信と放送の融合は不可避だ(論説委員・児玉平生)]
今回の騒動は日本中の関心を呼んでいるが、大方はライブドアに新鮮な魅力を感じている。テレビをめぐっては、NHKの不祥事などもあり、もともと厳しい目が注がれていた。そこにネットとの融合を唱えるライブドアが登場した。
テレビ局は放送法と電波法に守られ、新規参入が難しい。その中で、特に在京キー局は高収益を享受している。番組はインターネットで流せばいいというライブドアの主張は、テレビの収益構造の破壊につながる。
映像コンテンツ産業の頂点にテレビ局があるのは、番組が電波で送られ、その電波を独占的に利用できるからだ。通信が入ってくると、この図式が崩れてしまう。フジテレビが激しく抵抗するのも無理はない。
社説が取り上げているのは、ライブドアが主張する「通信と放送の融合構想」に対するテレビ側の抵抗です。「放送法と電波法に守られた」テレビは、外側から、「通信と放送の融合」を迫られても、現在のビジネスモデルを維持することで収益が挙げられる限り本気になれないのは無理もないのかもしれません。しかし社説は、後段でブロードバンド化の進展など通信環境の変化に触れ、そのような変化がテレビ局によって握られている映像コンテンツの配分権に影響を与える可能性を示唆しています。既得権のうえに安閑として、芸能人のスキャンダルや、安易な娯楽ネタを中心にした番組編成によって視聴率競争に明け暮れるテレビ局は、否応なしに転機に立たされようとしています。
社説は新聞メディアの問題には触れていませんが、インターネットと新聞の関係は今のままで良いのでしょうか。私見では、わが国の全国紙のインターネット版は、海外のそれ、例えばニューヨーク・タイムス紙、ワシントン・ポスト紙、フィナンシャル・タイムス紙等の電子版に比較すると、著しく魅力に欠けているように思います。海外の主要紙は既にインターネット版をプリント版と同等の扱いで読者サービスを展開しています。わが国の新聞のインターネット版は、殆どの記事がプリント版の要約に過ぎず、誤植も多いようです。過去記事の場合、海外紙ではアーカイブ(記事データベース)に蓄積された記事を比較的自由かつ広範囲に検索できますが、国内紙のサービス内容は貧弱(短期かつ記事の内容がお粗末)です。国内紙各社のインターネット対応の立ち遅れは明らかです。しかも各紙がそれに気付いていないように見える点に深刻さが表れています。
「通信と放送の融合」問題は、次には「通信とメディアの融合」問題につながって行くことになるのではないでしょうか。新聞は、固定的な価値観に縛られて新規参入の壁を高くするのでなく、若々しく、柔軟な発想を採りいれることに意を用いてほしいと思います。(2005.6.30)