NEC 瀬川 滋
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私はこの稿を平成9年8月24日の日曜日、神戸に帰る中央線特急電車の車中よりモバイル端末を使って書き起こしている。というのもたった今南北約150Kmにも及ぶ南アルプスの山々のど真ん中当りにある山・塩見岳を征して下山してきたばかりだからである。盆前の夏休みに同じ南アの最南部にある光岳・聖岳に登ったのに引き続いてである。これで99座すんだ。あと1座。家に着く迄にはとうてい書き終わらないであろうが、書き出すタイミングとしてはとてもいいのではないかと思う。
そう。私はここのところ深田久弥の日本百名山完登に挑戦している。私のように古い人間は平日仕事を休むことが無いから、使うのは土・日・祭日と夏休みぐらいである。訳あって冬山は2度とやらないことになっているので、ゴールデンウィークは未だシーズンオフ。従ってここ数年の6月から11月にかけての休日は天候の悪い日と特に用のある日以外の休みの日はこの百名山完登挑戦に使っているということができる。昨年123日で全山走破ということでマスコミを騒がせた重廣さんという人がいた。その記録は確かに偉大だが、会社の支援を得て、そのことだけに全ての時間を集中できるという条件有っての大記録だ。これに対して私の場合は、団塊の世代(入口)症候群特有の休暇も取らず、更には昨年から解除されたとはいえ単身赴任による頻繁な東阪移動をこなした上での挑戦であるという又種類の異なるものということがいえる。
私は神戸出身で、学んだ中学・高校が六甲山の中腹に有り、常に山に向かって登校していた(神戸は御承知の如く山と海に挟まれた町なので皆そうではあるが、特にその学校へ通うには地獄の急坂を登らねばならなかった)。又冬には六甲山を1周する60Km競歩大会という行事もあり、中学一年生から特訓を受けていた。このためか休みの日にはいつも六甲山周辺を歩き回っており、けっこう自然と登山向きの身体が出来ていったものと思われる。だからといって大学に入ってからも特に山を意識したことはない。ご多分に漏れず当時一世を風靡したカニ族の一員になったが、あちこち何でも見てやろう式に全国を徘徊している途中に、ついでに登ったことがある程度だ。
因みに百名山で学生時代に登ったのは北から十勝岳、八幡平、四阿山、霧ケ峰、美ケ原、富士山、阿蘇山、霧島山くらいなものだ。この内最も印象に残っているのは富士山。大学一年生の夏、下宿の仲間と夜行登山した。登山当日はあいにく雨、バスで新5合目迄登ると雲の上に出て夕陽がさんさん、これはついていると黙々と登る。懐中電灯の灯が頂上まで一列の線となっていたのが瞼に残っている。当時登山の服装なんて知らないからTシャツにセータにズック靴のスタイル。登っている時は何てことなかったが、頂上に着くと放射冷却で気温はマイナス、寒いのなんの。じっとしてると震えが来るので歩きいや走り回っていた。しかし景色は最高。茜色に輝く房総にかかる雲からの最高の御来光。殆ど遮るものの無い360度パノラマ。特に富士五湖辺りの樹海にかかる影富士。その更に北方の山々の向こうにぼやっとキラキラ光る何か。回りの人があれは北アで、あの光るのは日本海と教えてくれた。えっ本当、信じられない。これがその時の印象。思い返せば今まで何回と無く御来光を拝したが、そのどれよりも素晴らしく最高の感激だった。さらには下りの砂走りでズック靴の中に砂が入って往生したこと等いずれもが全て初めてで、とても強烈な登山だった。続いては八幡平。素朴な玉川温泉に泊まった翌日、焼山から蒸けの湯を越えて松尾鉱山迄歩いたが、低地では黄色中心の、高地ではななかまどの深紅中心の紅葉が、普段見慣れた関西の「もみじ」のそれとは又一味違う風情に心が踊ったのを思い出す。そして更には高千穂。初めて見る火口湖の水のエメラルドグリーンの碧さに驚嘆しながら新燃から韓国迄縦走していると、はるか南・薩摩湾の彼方に見える島から煙。あれはなんだと思いながら歩き続け、夜宿で沖永良部島で噴火を知る。噴煙だったのだ。等々思い出はきりが無い。
山に行くようになったのは会社に入ってからのことである。入社してすぐ当時では定例行事となっていた春闘で会社がストになり思いがけず連休が出来た。この日寮の友人は所用で実家に帰ってしまい、私独りになってしまった。そこで何となく東京探訪と今迄に乗ったことも無い青梅線にふらりと乗り、何と無く終点の当時の日之影(現奥多摩)に降り立った。自然に委せていたら湖にでも行くはずだが、アベックに当てられるのも何だから山にでも登ろうと、普段の装束のまま奥多摩に登った。丁度稜線に咲く桜が満開で、とても気分の良い山行だった。そこで行き着いたのが大岳の小屋。ベンチで休憩していると色々な人が話しかけてくる。後で知ったのだがそこは山屋のたまり場。小屋の親父が昔山をやってたことから自然発生的に集まっているらしい。そんな彼らの口から出るのは山の素晴らしさの話しばかり。夕方御嶽からケーブルで下る積もりだったが、まあ泊まっていけの強い誘い。どうせ寮に帰ってもすること無し。誘惑に負けて泊まることとした。当時の小屋はランプ(今はどこの山小屋に行っても自家発にBSテレビ。そういえば先日泊まった光小屋はランプに夕食はカレー、40年代の小屋と錯覚した程だ。一泊の価値有り)で、夕食は当然カレー。食後は常連が集まっての酒盛り。お前も入れとの強いお誘い。部屋には車のバッテリーが所狭しと並んでいる。何かなと思うと酒の肴にステレオコンサート。アンプ等への電源だったのだ。下戸の自分は音楽を聞く前にこっくりこっくり。途中気が付くと外は大雨、酒盛りは未だ継続中、又眠る。そして今度目覚めると辺りは真っ暗。宴会は終了。体に毛布がかけられており皆眠っている。先程の雨は上がっているようだ。外に出てみたら、空は満天の星。そして木の間越しに東京の夜景。距離がかなり有るので一つ一つはとても小さいが、エリアが広いのでとても美しく光っている。東京タワーもはっきり識別できる。神戸の一千万弗の夜景には慣れ親しんでいたが、その繊細さとは趣を異にした又違うスケールに大感激。そして翌朝。早くダウンしたのを冷やかされた後、尾根の反対側を覗いてくるように言われ、外へ飛び出すと大感激。目の前に昨日は春特有の靄で見えなかった大きな富士が雨上がりの雲一つ無い晴天の下、大きく輝いていた。当時は未だスモッグが真っ盛りで、ここが本当に東京かと目を疑ったものだ。これら自然の大きさ・美しさに対する感激、小屋そのものの雰囲気、山に行く人の情への憧れ等々初めての体験が強烈だった。
それ以来ぐんぐん山に魅せられていく。会社に帰って回りを見渡すと、今では考えられないが、山に行っている人が結構いた。最初は彼らとあるいは独りで奥多摩・丹沢中心の関東周辺の山々へ。ソフト開発に従事する者にとって、当時は古き良き時代。個人のオリジナリティを存分に発揮することは出来たとはいうものの、今では想像を絶する体力が要求された時代。結構ストレス解消の場になった。そしてあの時の感慨が欲しくなると大岳の小屋へ。当時府中に勤めていたので、就業後御嶽へ急ぐと最終のケーブルに間に合い、そこから夜道をカンテラ提げて歩くとその日の内に小屋同人となれたのだ。
その内にその辺りでは飽き足らなくなって、徐々に秩父・八ツ・南ア・北アそして上越・東北へと行動範囲が広がっていく。とはいっても高度成長真っ盛りの頃、基本ソフトの開発からSEへと仕事の内容は変わっていったが、相も変わらず残業・残業の連続。そんな状況下、本格的登山を習うには時間が無い。しかしストレス解消はしたい。結局素人登山のまま登る、登る。普段は金曜の夜行で発って小屋1泊で日曜深夜帰り、5月・8月の連休にはまとまった所に行くというのがお決まりのパターンになっていく。この独身の昭和40年代に登った百名山を時間順にあげてみる。手近なので何回も暇潰しさせてもらった丹沢山。帰省帰りに回り道し、太平洋から昇る御来光を拝んだ後大杉谷の豪快な滝を巡った大台ケ原山。下りてきたら紅葉の五色沼の水の色が五色以上に光っていたことに感激した磐梯山。鉄道等を利用して回遊中に立ち寄った吾妻山、草津白根山、乗鞍岳。頂上で話しかけられた見ず知らずの人が偶然にも中学・高校の大先輩であったという思い出のある雲取山。「高原のポニー」と呼ばれたSLが上り勾配急になると車輪をスリップさせ、あえぎあえぎ着いた清里より登り、初めて見たキバナシャクナゲ・黒百合の花に心打たれた八ケ岳。無謀にも11月初めに夏山スタイルで挑戦し、何とかなった白峰三山縦走の北岳・間ノ岳(若干自信となった)。それが百名山に属すとはつゆ知らず岩と紅葉の瑞牆山を横目で見ながら下った金峰山。スキーツアーの蔵王山。山とスキーの道具と合わせ持ち当時の体重以上の荷を担ぎ上げ春スキーを楽しんだ月山。上りに白馬・下りに針ノ木と両雪渓を使った山行の白馬の小屋前で夕食を作っていた時に初めて見たブロッケン現象に、自分が仏さんに成ったのではないかと錯覚した白馬岳・五竜岳・鹿島槍岳。今回塩見頂上から見た仙丈の西に長く伸びる地蔵尾根の長さも知らず、登りと同じ道を下るのはイヤとその尾根の下りに挑戦し、倒木等に悩まされへとへとになってやっと下りきった仙丈岳。雨のごとく降るというジャコビニ流星群を求めて行ったが、パラパラしか流れず目を見張る紅葉のみを満喫した燧ケ岳・会津駒ケ岳。池糖なるものを初めて経験し、その箱庭のような美しさに感激した苗場山。上高地から登った焼峠で降られたので一旦中尾温泉に下り、翌日再度登り直しジャンダルムを越えたら今度は穂高岳山荘で台風に見舞われ、更に1日停滞と散々だった焼岳・穂高岳・槍ケ岳の大縦走。北沢峠迄のバスが未だ無く戸台から歩いて登り、翌日視界の効かない中を歩いていたら1匹の犬が現われ、魔利支天の麓迄道案内をしてくれた甲斐駒ケ岳。当時遭難者を多数出した一ノ倉沢を登る力が無いのでその縁にある一ノ倉尾根を登り危険を満喫した気分に浸った谷川岳があげられる。
やがて結婚。同時に関西に戻る。東京の仲間と中央アルプスへ山行し、彼等は伊那側へ、神戸行きの私は木曽側へと山で別れたのが印象的な木曽駒ケ岳・空木岳。関西はいわゆる山行には不便このうえないが、低山ハイクに向いた山は沢山ある。特に比良山には関連会社の小屋があり、ランプに自炊。最悪大阪の事務所を就業後発ってリフト・ケーブルを乗り継げば、その日の内に小屋に入れる。気分は大岳の小屋の延長。只小屋番はいないし、同行者以外見知らぬ山屋が集まっているという雰囲気も全く無い。小屋の外には五衛門風呂の釜。冬なぞ暗黒の雪景色の中の風呂からビール手にオリオン座を眺めるという格別の風情がある。そこが新しい根城となりせっせと通う。所帯を持ったこともあり遠出はめっきり減る。時には近場の大峰山へ。又時には関西から便利な北陸へ。岩間温泉まで縦走したらそこにはとても立派な無人小屋とその前にそんじょそこらの温泉より大きな露天風呂があり、山の疲れも吹っ飛んだ思いのある白山。そして遠出の根城となっていく立山・剣岳。圧巻は大阪からとても不便で富士宮から一旦2000mの転付峠を越え登山口の椹島まで下ってから挑戦した高山植物が咲き誇る悪沢岳・赤石岳。
そこで冬の剣での遭難騒ぎの苦い経験。詳細は山渓社発刊の「ピッケルを持ったお巡りさん(富山県警著)」に。更には仕事が開発そのものより管理にシフトしていき、いつもあわただしい状態が続く。又家庭の行事も色々増える。結果として山に登るペースはぐっと落ちた。その後昭和50年代に登った百名山は、家族と一緒に頂上でテントを張って思い切り打ち上げ花火を楽しんだ伊吹山。憧れの空中庭園・雲の平に行ったのはいいものの、行きの夜行で買った駅弁があたり、登山中下痢が続き脱水症状、結局双六小屋の富山大学医学部生による臨時診療所で点滴をうってもらい、ほうほうのていで新穂高温泉にたどりついた鷲羽岳ぐらいなものである。
昭和60年代に入って都合3往復の東京単身赴任。転勤すると仕事の内容が変わり山に行く余裕もない。この頃から開発単位が数千人月のプロジェクトが起こってくるようになり、こんなのを担当すると年単位で山行きは無理。結果更にペースダウン。元々山行が私にとっての最大のストレス解消法だったのが、多分仕事のやり方を含め別の解消法を会得していったものと思う。そういえばこの頃アルコールのペースが上がっていったものだ。この間登った百名山は松山出張時に会社の若手に車を出してもらって登った石鎚山。その名前に魅せられ十年以上も憧れ続け、秩父側から登り甲斐に下った甲武信岳。札幌出張のついでに比較的低山ながら豊富な高山植物が咲き乱れる黒岳から旭岳までを楽しんだ大雪山。「千恵子抄」を思い浮かべながら麓に光る阿武隈川を見下ろして登った安達太良山。上りの静かな裏口の濁河温泉ルートとは対照的な行者で賑わう表参道を、前夜酒の強い同行者が私の持参したウイスキーボトル1本を独りで空けてしまい、珍しくヨタヨタとふらついていた御嶽ぐらい。
そんなある時確か平成3年5月だったと思うが、東京の同僚から屋久島の宮之浦岳に登らないかと誘われ、縄文時代からの杉を見てきた。その時初めて日本百名山なるものを、そして宮之浦がその最南端の山であることを知った。しかし自分には百名山完登なんぞ縁の無い夢の又夢ぐらいにしか思わず気に止めもしなかったものだ。この時一緒に登ったメンバーがその後百名山を共に目指す仲間にとなっていく。そして高松出張のついでに誘われて登ったのが剣山。これも偶々百名山。年改まって平成4年。第二金融事業部長として3度目の東京単身御奉公。新しい組織だったのでゼロからの出発。更には丁度その年はバブルがはじけた直後。一番メインマーケットの証券がさっぱり。仕事に追われ、身も心もてんやわんや。山に行くどころか、考える余裕も無い始末だった。しかし明日は良くなるだろうとあがいてみても一向に良くならず、翌5年になっても状況は全く不変。ストレスはたまっていくばかり。こうなると時間が無いとは言ってはおれない。例のストレス解消法がかま首をもたげる。そこで登場したのがあの百名山。今までどれだけ登っているのかなと数えてみると、丁度半分。残り50。ゴール時期は決め無かったが、完登に挑戦することとした。
さっそく2月に雪の大菩薩岳に挑戦。しかし時間がなかなかとれない。やっと5月に筑波(山といえる程では無いが、ノルマ)。夏休みに飯豊、この山は奥が深いだけに荒れておらず高山植物も豊富で素晴らしかった。ただ下山の途中岩場から足を踏み外して捻挫してしまい、足をひきずって帰った翌日、お客とのホテルで打合せで抜の悪い思いをしたのを思い出す。青森出張ついでに岩木と八甲田、10月末の八甲田では思いがけず頂上では立っていられない程の吹雪、這いつくばって三角点を踏んだが正に「死の行軍」。そして路上で売っていたまったけを衝動買いし、炭で焼いてたらふく味ってから登った奥白根とこの年は6座。とはいえこのペースだと約10年かかってしまう。もっとピッチを上げなければ。
翌平成6年は瑞牆山、祖母山・久住山、斜里岳・羅臼岳・阿寒岳、雨飾山、岩手山・早池峰山、高妻山、那須岳と11座。内祖母・久住は別府出張の、岩手・早池峰は盛岡出張の、那須は山形出張のついでと、出張をフルに活用して移動時間の節約を図った。このためリュックにもバッグにもなる3WAYバッグなる物を買いこみ、出張中はバッグにしてその中に山靴始め登山道具一式をぶちこみ、山に登る時背広等一式はコインロッカーに入れ、それを背負って山に登った。又宅急便の便利さもフルに活用した。出張のついでのつらさはスケジュール変更がきかないこと。確か祖母は大雨注意報が出ていたが、これを逃しては又来れないと強行。それをホテルの人が遭難したのではないかと早合点して私の自宅に電話、このため気楽な本人をよそに家で大騒ぎなんてことも。夏休みには普段行けない北海道に行ったが、最初挑戦した利尻岳はせっかく島まで渡りながら、晴れているのに台風並の突風が吹き荒れ途中から下山。費用のロスもさることながら、時間がとれない者にとっては泣くに泣けなかった。その分早く稚内に着き珍しい犬ぞり競争を楽しんだり、地元の水産会社より調達したタラバカニ・ホタテをたらふく食べることで穴埋め。その後のレンタカーを借りての斜里・羅臼・阿寒行は天候にも恵まれオホーツクから国後の山々までを堪能することができた。
続く平成7年はあのいまわしい地震のあった年。神戸に家族を残す自分にとってはその始末だけでも大変な年だった。暇を見つけては挑戦。天城、至仏、後方羊蹄、幌尻・トムラウシ・利尻、鳥海、荒島、巻機、火打・妙高、浅間、武尊、赤城、両神と15座登った。内12座が8月以降。前半は地震対応に追われとても百名山どころでは無かった。その後半も山をやってない時は神戸に帰っているという超ハードスケジュール。今から思い返しても良くやったものだ。夏は北海道でレンタカーと夜行列車を乗り継ぎ、日高の幌尻・大雪のトムラウシ・道北の利尻の各峰(距離にして約400Kmも離れている)を3日連続で登頂した。札幌からの両夜行までして前年果たせなかった夢をかなえた執念に我ながら感じ入る次第である。失敗談は火打・妙高行き。山仲間7人で出かけたが、相変わらずの時間節約で往きは夜行。列車は高原に行く人で満員のため席はバラバラ。いつもは夜行では眠れないのに、どうしたことかぐっすりと眠ってしまい、はっと気がつくと列車はガラガラ。仲間はだれもいない。あわてて荷物を抱えて飛び降りるとそこは越後高田。本来降りる予定の妙高高原はとっくに過ぎている。後で聞くと仲間の1人が起きそびれたので、彼をたたき起こして改札口へ。まさか私が眠っているとは夢にも思わず。1人足りない。大騒ぎしたが後の祭り。一方私はやむなく1番列車を待って折り返し。妙高高原から追いかけたのでは夜にならねば追いつけず、おやつの果物を運ぶ役が果たせない。それではと1つ手前の関山で降り、迎え撃つ形で駆けに駆けた。午後火打から下りてくる一行と出会った時には本当にほっとした。早速果物を広げたのは言うまでもない。今となっては笑い話である。
そして昨平成8年。6月の恵那、皇海・男体、開聞岳にはじまって、7月の常念、8月の黒部五郎・黒岳、9月の笠ケ岳、薬師岳、そして10月の朝日、平ケ岳・魚沼駒ケ岳、大山の13座で95座達成。7月に大阪転勤になったが、今回はブランクを作らず山行に励んだ。昨年の威力は東京の仲間が買ったパジェロ。これをふんだに活用させてもらった。彼も100名山を私とほぼ同じペースで登っている。完登のために車を買い変えたというつわものだ。双方が登って無い山は一緒に行っており、この車で夜麓の際まで入り、翌朝未明から登ってその日のうちに降りてくるという省エネ登山を随分敢行したものだ。例えば朝日岳、本来なら奥が深いので随分時間がかかる。我が省エネ行の場合は、東京を就業後の午後6時に出て、東北・山形道をぶっとばし、午前0時頃には麓の朝日鉱泉着。車中仮眠して朝6時にはスタート。10時半には頂上につき、有名なブナ林をこえて午後2時半には鉱泉に戻る。我々は鉱泉に泊まって自然を満喫したが、そのまま帰ればその日の内に神戸迄着いてしまうという次第だ。それにしても日本国政府のめりはりの無いばらまき行政のお陰で、消化に困った農林予算が付加価値の低い2000m級の林道工事にまで使われている。これが皮肉にも車登山者にとっては絶好のアクセスとなっており、存分に活用させて頂いた。
そして迎えた今年。最後迄残してあった蓼科を除いて鳳凰、光・聖、塩見と最後迄残ってしまったた南アルプスの山々。縦走するとすると10日以上バッチリかかる。まとめて休むのは無理。そこでも省エネ登山が活躍。光・聖には飯田より2時間車で山に入った易老渡を、塩見には高遠より更に1時間林道を入った大曲を基地とした。この結果、前者がテント・小屋泊り4泊、後者においてはは小屋泊まり1泊で済ますことが出来た。そして王手が蓼科。我々の山仲間の内の一人が八ケ岳の山麓に別荘を持っていて、そこが百名山征服の基地でもあり、仲間のたまり場にもなっていた。そこから手近かに登れる山であり、誰でも登れるということで大事に残してあった。もう1人の仲間の挑戦者共々100座目は同じ山同じ日としてある。その日が今年平成9年10月11日。仲間・家族を含めて皆で祝ってもらうことになっている。とにかく無事何事もなく達成できればと祈っている。
さて百名山達成後どうするか。本来の自分が山に行くのは都会・日常の喧騒からの脱却、ストレスの解消を求めてある。しかしここ最近の自分の山行きを振り返ると、百名山を一つでもハントすることが目的となってしまっていた。いつ行こうか、天気はどうか、少々の雨でも決行せねば等々極端な言い方をすると百名山がストレスの源になってしまっていたと言える。本来自然の大きさに浸り、御来光の感慨を味わい、高山植物の可憐さを愛で、又時にはブロッケン現象等の神秘に触れ、ゆったりと山を歩くのが自分の好きな山行だったはずだ。これからはそちらの方に回帰していきたいと思っている。年も年だ。これからのモットーを「ゆっくり登山」としたい。そんな中でとりあえず兵庫百名山とか近畿百名山とか近場の低山をゆっくり歩こうと思う。とは言ってもそれでは物足りないと思う時もあるだろうから、関西から便利な剣周辺をふらついたり、あるいは後に続く百名山信者を先達して思い残した幾つかの百名山をゆっくり再登頂してみたいものだと思う今日この頃である。
(平成9年9月脱稿)