剣岳追悼登山
瀬川 滋
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昭和60年に富山県警山岳警備隊が書いた「ピッケルを持ったお巡りさん」という本がある。「山靴を履いたお巡りさん」等々、その後の所謂山岳警備隊シリーズの草分けと言える本で、どこの山小屋にも置いてあるし、今でも書店の山コーナーで売られており、隠れたベストセラーとも言うべき本である。その第3章「山にこだまする鎮魂曲」のトップに、「鎮魂の剣岳」という文が載っている。その文は、何を隠そう私が書いたもので、文末にはちゃんと私の名前が記されている。著作権は求めに応じて富山県警に寄贈したので、勝手に使えないのは分っているが、自分の文章の中に引用するのは許されると思うので、この文末に転載しておく。
その文にもある通り、私は剣岳で遭難事故を経験している。それから、何年かの間隔で剣頂上に追悼登山を行っている。前回は約10年前、遭難者の奥さんと息子2人を連れて登った。それは、私がいつ山に登れなくなるか分らないので、元気な内にご遺族に遭難した場所と慰霊のプレートを打った場所を教えておきたかったからである。幸い、未だ山を続けられている。そして、そろそろまた慰霊に登りたいものだと思っていた所へ、百名山登頂達成を目指している仲間から「剣は危険なので是非同行して欲しい」との依頼があり、これに乗って登頂した。
7/27 剣岳 (富山県、2998m) 日本百名山
例によって、夜行バス利用。最近は、室堂まで直接入ってくれる。昔は、富山まで夜行列車、それから富山地鉄で立山に出、ケーブルで美女平まで登り、そして高原バスで室堂へ。乗り換えの度に少しでも早くと走らねばならず、随分大変だった。それが、大阪から直行してくれるというのだからたまらない。室堂から、若い頃ゴールデンウィークにスキーに来て泊まったみくりが池温泉のロッジへ。そこで東京から来て前泊していた仲間と落ち合い、7:35出発。昨日まで降っていたというが、今朝は快晴。一旦雷鳥沢に下って、尾根を登る。未だそんなに大きく育っていないコバイケソウの群落の向こうに、雪の多く残っている立山の雄姿が重なる。
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一の越の剣御前小屋まで一登りして休憩。あまりにも天気がいい。私が夜行なので今日はこの先の剣山荘泊まりで、明日早朝に剣に登る予定。ここで大思案。回りの登山者に聞くと、今年の北陸は梅雨明けが遅れていてずっと雨で、昨日も小屋に停滞したという。明日晴れるかどうかも怪しい。出かける前の富山の天気予報は、今日は晴れだが、明日は曇りで明後日は雨だった。下りに向かうことだけは間違い無い。ならば、晴れている今日中に登ってしまうのがベスト。夜行明けだが何とかなりそうなので、今日登ることを決意。 |
ここから剣山荘まで、随分雪渓が残っている。今まで何回か登ってきているが、5月連休にスキーで来た時を除いて最高の積雪。慎重に歩を進める。その分、高山植物は少ない。雪が溶けてこれからという所なのだろう。剣山荘に到着。ここは、一昨年の大雪で小屋が押し潰され、昨年1年間閉鎖されて再建、今年再開したばかりのピッカピカ。実は、この山行は昨年の予定が小屋の閉鎖で1年延期されたものだっただけに、屋根が見えた時は感無量。宿泊手続きして、そのまま出発。一服剣から前剣へ。早速、鎖場が現れる。ここはまだ大したことは無い。三点確保さへすれば安全と、仲間にそればかり注意。
何回か鎖場をやり過ごして、長次郎のコルに。昔あった避難小屋がきれいさっぱり無くなっている。小屋跡の石積みの所まで雪渓が迫っている。長次郎沢は秋まで雪渓があるので有名だが、こんなに上まで雪があるのは初めて。おかげで、蟹の縦這いの鎖場の入口が分からない。良く見ると雪渓の切れ目に旗が立っていて、人の足跡がある。雪と岩の間の細い道を進むと、いよいよ鎖場。垂直に見える岩場に鎖がしてある。先ほどの鎖にせよ、ここにせよ、鎖が真新しい。昨今の登山ブームで、安全のために一斉に掛け変えたものだろう。その鎖に彼は両手でしがみついて登っている。私は、どんな所でも岩の出っ張りをつかみ、どうしてもとっかかりの無い場合だけ片手で鎖を、それも鎖を止めてある鋲を持つようにしているが、そこまでは言えないので、ただ鎖が抜けないことを祈るのみ。とにかく三点確保、三点確保と念仏のように注意する。
やっと登り切ると後は楽。ただ登るのみ。早月尾根の分岐の標識が上に見える辺りまで登ってくると、どうしたことか左足のふくらはぎが痙攣。歩を進める度にふくらはぎを揉みながら進むと収まる。と、今度は右足が痙攣。だましだまし登る。やがて両足共収まる。今まで歩行中に痙攣なんて経験無く、歳かなと思うとぞっとする。
何とか頂上まで辿り着いたのが13:50。彼の百名山87山達成に祝福の握手。早速、彼が持っていたバンテリンを借りて足に塗る。東に白馬三山、五竜、鹿島槍の後立山連峰、南に薬師、笠、鷲羽、水晶と北アの主峰。しかし槍・穂は見えない。そして西には白山。正に360度の展望。皆、昔登ったことがある山々だけに感無量。
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続いて、頂上すぐ近くの遭難慰霊のプレートのある所に移動。今は登山道になっている岩のすぐ下の窪地に打ってある。そこで、持参した線香を供える。このプレート、登山道の目に留まる所に打ちたかったが、当時仲間から国立公園だから目立つ所は駄目と諌められて、窪地に打った。私が山に登れなくなると誰も分からなくなってしまう。そんなことで、前回は奥さんと子供さんをどうしてもお連れしたいと誘った。私一人では手に追えないと、仲間に応援を求めた。日程も全て決めてあったのだが、直前に子供さんの仕事の都合で急遽日程変更。ところが、その日は仲間の都合が折り合わず、私一人で案内。3人共、山はズブの素人。もしあの縦這いででも「怖いっ」とバランスでも崩していたらと思うと、改めて背筋がゾっとする。無茶をしたものだ。そして今回は、こちらも歳を取っており、誘う自信は無かった。後日写真共々仏壇に参って、報告してこようと思っている(お盆にお参りしてきた)。
あとは下るのみ。剣は、梅雨が明けていない今は人が少ないが、シーズン中は登山者が多いので上り下り別々のルートになっている。下りの難所は、大きな岩を鎖を伝ってトラバースする通称蟹の横這い。ここも三点確保で無事通過。
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そこで、そのルートを登ってくる人と行き違う。あの長次郎のコルの雪渓でルートを間違えて登ってきたらしい。今日は人が少ないから何とかすれ違えるが、シーズンだったらとても無理。一般に上りより下りの方が危険なので、慎重に慎重に下る。小屋の近くまで来た所で、雷鳥一家に出合う。生まれたばかりであろう、雛を連れて、ハイマツの切れ目から顔を出してこちらを伺っている姿が何とも愛らしい。17:10小屋着。 |
夜行だったにも関わらず、また痙攣というアクシデントもあったものの、大したことも無く慰霊登山出来て、ホっとしたものだ。
翌28日は、案の定曇り。それでも小屋は、午前4時前からヘッドランプ頼りに頂上に登っていく人でごった返す。こちらは昨日登ってしまっているので楽勝。天気さへ何とかなるなら立山に登って下山しようと思っていたが、危しいので止め。朝食を食べながら、地図を広げて今日の行程を相談。下界は曇りというから、普段は高原バスで通過してしまう昔の行者道を少しでも歩き、途中から天下の名曝・称名の滝を下ろうということになった。しかし、室堂まで下ってくると雨模様。これじゃあ行者道歩きは無理と、滝への下り分岐にある弘法というバス停まで直行。
この下り道は、剣立山辺りの山を支配している佐伯一族の佐伯八郎という人の名を取って、八郎坂という。標高差500米の一気の下り。少し下っていくと滝の濠音が聞こえて来、やがて滝が姿を現す。前に下から仰ぎ見たことはあるが、落ち口からそれもすぐ近くから見ると迫力が違う。この滝、標高差350米あり、4段に分けて落下している。特に雪解けが遅れてフルに落下しており、最大流量毎秒百トンというから驚き。その横に並行して、か細く落ちるハンノキ滝。そして更にその横に、普段は姿を見せないそうめん滝がそのか細い姿を見せてくれている。今年は水量が多いので見られるのだという。この3つの滝の対比が面白い。急降下で下っていくに従って、滝が姿を変える。滝壷近くの展望台まで下って来ると、大勢の人がしぶきを浴びながら、滝の豪快さを前にワイワイガヤガヤ。もうここは下界。先程の静かさの中の豪音が懐かしい。
その日は、魚津の近くの温泉にもう1泊した。ホテルで、早朝前剣で1人滑落死したというニュースを聞いた。多分、雨の中ランプを頼りに登っている最中での事故だと思う。前日登っておいて良かったと、しみじみ語り合った。と同時に、亡くなった方のご冥福をただただ祈るのみである。翌日、東西に分かれ、私は帰神。今回の山行、仲間の百名山87山目の無事達成、私の追悼登山、そして称名の滝に沿っての滝見下りと、また私の剣登山史に新しい記憶を残してくれた。しかし、次に剣に追悼登山出来るのはいつのことであろうか? あるいは、今回が最後か? 神のみが知るとしか言いようが無い。
ーーー(山と渓谷社、富山県警山岳警備隊著、「ピッケルを持ったお巡りさん」よりーーー
3.山にこだまする鎮魂曲
鎮魂の剣岳
私の一生にとって忘れることができない、昭和五十三年十月二十一日の朝は、吹雪で明けた。剣岳に登る途中の室堂平。秋晴れの抜けるような青さに、黒々とした剣岳の岩肌。
「せっかく、アイゼンを持って来たのに」と残念がっていた彼の顔が妙に瞼に残っている。
雪に押されて狭くなるテント
私と福永明彦君(三〇歳)は、同じ会社の山仲間で、三年前から一緒に山行している。一般山岳会にも入り、冬山の経験もある彼は、沈着冷静、判断も的確で、安全登山に徹した山男である。私は彼を頼りにし、リードしてもらうことが多かった。
二人で、夏にはどこか三〇〇〇メートル級の山を縦走しようと計画したものの、仕事の都合がつかず、十月に入ってようやく彼の提案した剱岳へ、Ξ泊四日の予定で登ることになった。
夜行で大阪を発ち、美女平、室堂、剣御前を経て、剱沢に入る。例年なら十五日で閉鎖する小屋が二十二日まで開いていた。
「山の状態はよいが、時期が時期だけに、慎重に行動したほうがいい」
剣山荘の主人が親切に助言する。それでも、単独で登頂して戻って来た女性に上の様子を聞くと、まったく不安がないので、そのまま頂上をめざす。
平蔵避難小屋に着いたのが午後四時。夜行の疲れが出た私が、バテて話しかける。
「避難小屋でビバークしようか」
「あとひと息だから、頂上で幕営しよう」
二人の意見が一致し、さらに前進する。
剣岳頂上で雄大なパノラマを楽しみながら、夕食をとったころは、満天星空で、富山平野の灯がとくに美しかった。明日の御来光を信じて眠りにつく。
夜半、パラパラという音も「雨かな」くらいに夢うつつで聞いていた(実際は、雪か霰)。最初広かったテントが、外から押されて狭く窮屈になっても、冬山経験のない私には雪とは想像もつかなかった。彼もよく眠っている。三〇〇〇メートルの頂上は、やけに寒いと感心しながら、うとうとと迎えた朝だった。
突然、信じられないことが……
明るくなり、吹雪いていることが分かりびっくりする。一気に山は冬になっていたのだ。″降っているときは動かない″は山の鉄則である。しかし、彼は、二十三日夕方から九州へ出張しなければならない。そのためにも、今日は少しでも前進したいと言う。会社勤めのつらさである。
下山するなら早月尾根と考えたが、文通の便を考えると間に合わない。相談のうえ、昨夏登ったときの記憶を頼りに、長次郎谷を下降することに決めた。
腰までのラッセルをしながら下降する。雪で地形が変わり、どこを下りているのか分からない。しばらく行って、切り立った崖で前進できず、手前の谷に間違って入ったことが分かって、頂上へ引き返す。
昼食をとり、今度は、早月尾根分岐点に向かう。福永君がトップで、頂上稜線を三〇メートルくらい進んだとき、突然″ビシッ″という音とともに、ガツンと頭に衝撃を受け、ふっ飛ばされてしまった。しばらくして気がつくと、近くで彼が、顔を斜面の下にし、リュックを背負ったまま、うつ伏せに倒れていた。
何が起ったのか、わけが分からないまま急いで駆け寄り、声をかける。返事がない。体を揺すり、頬をたたいてみた。まったく反応がない。
「フクナガー、フクナガー」
必死に呼びかける。ようやく、事の次第が分かってきた。私の身体から血の気が引いて行く。頼りにしていた彼が、死んだのだ。ひざがガタガク震える。
揺するたぴに、体が稜線を滑り落ちそうになる。左右とも千尋の谷底だ。急いでリュックをはずしてやり、すぐ下の凹地に移す。
頬をたたき、体を揺すって呼びかけるが、反応はない。底知れない不安と、例えようのない恐怖心が襲う。どうすればよいのか。考える余裕もない。ただ、がむしゃらに彼に取りすがって、呼びかけるだけである。
そのときになって、初めて周囲がビシッ、ヒシッと音をたてているのに気づく。深夜、新幹線のパンタダラフがスパークするような光が頭上を走る。しばらくしてゴロゴロと音がする。
「雷だ」
やっと理解できた。
あわてて、アイゼン、ピッケルなどの金具をはずし、岩陰に身を隠す。雪は、周期的に山を駆けめぐる。ますます恐ろしさと寒さが身にしみてきた。周期の長くなった雷の合間を縫って、昨日の幕営地へ戻り、テントにくるまって寒さをしのぎ、雷の止むのを待つ。何か幻覚を見ているのかもしれない。
雷は、午後の四時ごろまで断続的に鳴る。事故前は、まったく気づいていなかったから、第一発目に被雷したことになる。まだ信じられない。彼が、ひょっこりテントに潜り込んで来るような気がする。
一か八か、下山を決行
寒く、不安な、長い長い眠れぬ夜が過ぎ、二十二日は、きれいな御来光で明けた。経験豊かな彼がいないと、どうしてよいか分からない。頭の中は空なのに、恐怖とショックで体が動かないのだ。
剣御前小屋に向かって、懸命にポンチョを振って合図する。むだと分かっても、ほかに方法が思いつかない。登山者が来るのを待っても、冬山に様相を一変した剣へ登る者はいなかった。
この日は、彼が流されていないか確かめに動いただけで、終日テントの中で無為に過ごした。凍りついた彼が話しかけてくるようで、死んだことなど信じられなかった。信じたくなかったのかもしれない。今の自分には何をする自信もなければ、方法も見当たらないのだ。
再び、長い夜が始まった。今日も眠れないだろう。考えまいと努めても、次から次と走馬灯のように思い出される。
〇仕事の都合がつけば、夏の間に違った山を登っていたのに
○夏の計画が流れたあとの、九月の計画が実行されていたら
〇十月の縦走で、当初の計画どおり木曽駒を選んでいたら
○二十日に入山したとき、もう少し天気が悪かったら。最初から剣に積雪があったら
○もし、平蔵避難小屋でビバークしていたら
考えても考えても、取り返しのつかない、「もし……したら」の悔恨ばかりである。
また、眠れぬ夜が明けた。後立山の雲が厚くなり、天気は下り坂である。いったんくずれたら、いつ回復するか分からない。食料も燃料もない。彼を早く家へ帰してやらねばならない。焦りにも似た気持ちで考える。
このまま、凍死、餓死するより、一か八か下山しなければならぬと決断する。誤って滑落しても元元と覚悟を決めた。いちばん近い平蔵谷を下りて、剣御前小屋へ救助を求めよう。自分の装備をまとめ、彼のリュックと必要なメモを書き残した。
「きっと迎えに来るから、待っていてくれ」
悲壮な思いで、別れを告げる。身を切られるようだ。一歩進んでは振り返り、二歩進んでは振り返る。後ろ髪を引かれる思いとはこのことか。彼は、早く行けと言っているようでもあり、一諸に連れて行ってくれと呼んでいるような気もする。この厳寒の山頂に置き去りにする苦しさは、筆舌に尽くし雖い,改めて後悔と恐怖心が体を貫く。
平常でないのか、平蔵の鎖場で下降路が分からず迷っているうちに、装備の一部を流してしまい、やむなく、下降路のはっきりしている早月尾根を下山することにする。
「落ち着け、落ち着け」
意識して自分に言い聞かせる。
高曇りの空は視界がよく、眼下に見える伝蔵小屋を目標にする。腰まで、ところによっては胸までのラッセルが続く。急斜面では雪がズズーッと滑る。もうだめか、これで終わりかとあきらめかけながら、気を取り直して、いくつかのピークを越すと、屋根しか見えなかった小屋が眼前に迫ってきた。
戸が開いていて、中から物音が聞こえる。閉鎖していると思った小屋に人がいると分かったとたん、身体から力が抜けて、雪の上にへたり込んでしまった。
小屋の主人に警備隊への連絡を頼んだ。約一時間くらいで、家族、会社への連絡がついたらしく、その日、馬場島へ着いたときには、遭難対策本部の設置から、救援隊、家族の出発手配まで、すべての手配がついていた。
その後のことは、山岳警備隊はじめ、会社の三田山岳部、彼の所属していた大阪岳友クラブなど、たくさんの方々のご好意で迅速な収容作業が行われ、二十五日には、室堂で彼と再会することができた。今にも話しかけてきそうな顔をしていたのが忘れられない。
収容作業には、幾多の困難と危険が伴ったことと思う。何事もなかったように、黙々と活動する救助隊員の姿には、感動させられた。
あれから、もう六年あまり過ぎた。昨年秋に七回忌法要をすませ、悲しみを新たにしたところである。
家族、会社への連絡から、雪の中、遺体の収容、寺への安置、検死と、何から何までお世話になった富山県警察山岳警備隊のみなさんには、お礼の申し上げようもない。本当に御苦労なことと思うが、我々登山者の心の支えとして、今後ともご活躍くださるようお願いしたい。
日本電気株式会社 瀬川 滋
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