中山道の宿場巡り         瀬川 滋

 
 

 /19    中山道「柏原ー赤坂間」膝栗毛

 昨年お江戸日本橋から京都三条まで東海道五十三次を歩き通した山仲間が、今年は中山道六十九次を逆に三条大橋から日本橋まで歩くという。昨年は一回で歩き通したが、今回はスケジュールの関係で2回に分けて歩くという。その第1行程が、8月16日三条を発って24日に木曽路の入口中津川の落合宿までの9日間。そう聞いて私は、今回も前年同様に壮行を兼ねて1日同行しよう、行程の中で最も関心のある関ヶ原辺りを一緒に歩こうと思った。行程表を見てみると、4日目の19日に、米原の番場(番場の忠太郎で有名)宿を出て関ヶ原を通って大垣近くの赤坂宿まで行く予定となっている。そこで、19日の早朝に家を出て、醒ヶ井宿で合流すると決めていた。ところが18日に電話を入れると、順調にすぎて番場宿の次の醒ヶ井宿まで来てしまったという。然らばと、その先の柏原の駅で落ち合うこととした。

 19日、早朝に起き出して柏原に向かう。友人は早朝に醒ヶ井をスタートしていて、約束の8:30に駅で出会う。もう1人いる。その1人は、最上川下りの時に被ったという編笠がとても良く似合っている。出会ってすぐ聞いたのが、「足の豆は?」。というのは、昨年東海道を同行した時にひどい豆に悩まされていた。今年は、そのリベンジということで鉄の下駄を履いて歩き回るという究極の豆対策訓練をやったと聞いていたので、その成果を聞いたのである。答は「駄目、もう出てしまったよ」。昨年は1週間歩いてから出てきたのが、今年は3日目で出てしまったという。どうも今年の酷暑で、アスファルトが考えられない位熱気を帯びており、足裏が異常に蒸れたのが原因らしいという。対策は宿での手当てで、昨年の経験もあって万全で、歩くのにはそう支障は無いという。

 駅は無人駅では無いが、駅前も何も無く寂しい。その駅を出れば、すぐそこが旧中山道・柏原の宿。近江の国の最後の宿というだけあって、雛びている。歴史を感じさせる佇まい。柏原の宿を出て暫く歩くと、近江・美濃の国境の表示。横に「正月も美濃と近江や閏月」という芭蕉の句碑もあった。峠がある訳でも無く、大きな川がある訳でも無い。従って、この境を挟んで家を建てれば近江と美濃の隣同士が寝物語することが出来るので、この辺りを「寝物語の里」って呼ぶそうだ。
 美濃の国に入って最初の宿は、今須の宿。切妻作りの平入り中二階建、二階は真壁作りで、白漆喰に荒格子がはまっている古い家並みが残っている。しかし、本陣・脇本陣は残っていない。宿のはずれにあるお宮に、家康が関ヶ原の戦い翌日、上洛途中に立ち寄って腰掛けて座ったといういわれのある石があった。「徳川家康御踏石」とあるが、本当に座ったかどうか。いささかまゆつばだが、縁起が良いということで旅行く人が腰を落としていくそうだ。その先が今須峠。中山道の難所と言われたというが、大したことは無い。

 峠を越えると不破の関。その名は義経と静御前が最後の別れをしたということと、不破といういかにも関所らしい名前で有名だが、お地蔵さんと古ぼけた記念館があるだけで、関所の赴きは何も無い。案内を読めば、その昔、大宝律令(701年)でここと東海道の鈴鹿、北国道の愛発(アラチ)に関所が置かれたが、平安時代には廃止されてしまったということで納得。もうすぐ地蔵盆とのことで、祭ってあるお地蔵さんの回りに子供たちがワイワイガヤガヤ集まって祭りの準備しているのが往時の賑わいを想起させてくれる。

 関ヶ原の宿に入ると、そこは天下分け目の戦のあった地。街道を抜けた盆地状の所が戦場。下から回りの山々が良く見渡される。ということは、家康や三成がいた山々からも戦場も良く見通せるはず。今は植林された背の高い針葉樹が多いが、往時はもっと背の低い広葉樹だったはずで、見通しが良く効いたと思われる。この辺りのあちこちから狼煙が立ち上がり、鐘太鼓や兵士の雄たけび、馬のいななきそして時には大筒の号音が轟き渡ったと思うと、今日の静かさが感無量。宿場の出口辺りには大きさから見て代変わりしたと思われる松並木がかなり残っており、その中に一里塚があった。ここで、うどん屋に入り昼食。出し汁は関西風と関東風が用意されていて、客が好みを指定する方式。食べ物の味も東西の分岐点ということか。

 暫く国道や旧道を行ったり来たりしていると垂井の一里塚があり、さらに進むと垂井宿。結構古い町並みが残っている。ここも、本陣は屋敷跡のみ。

 それにしても暑い。午前中は何とかなっても、午後になると耐えられない位だ。私たちは東に向かって歩いているから未だましだが、西向きだと太陽にまともに向かって歩くことになるので余計辛いだろう。仲間一行は、元々は宿で朝食を取ってから8時頃出発する計画を、早い内の6時過ぎには出発し午後3時には宿に着くように変えたというが、肯ける。途中余りに暑いので、目に止まった喫茶店に入って一休みと考えたが、店が閉まっていてお預け。そう言えば、歩き出してからコンビニ1軒も見ない。そんな街道に喫茶店を望むのが無理ということか。

 やがて赤坂の宿。結構古い大きな家が残っており、いにしえの経済の中心地だったことが伺える。この宿の街道沿いに、表から見れば2階建て、裏からは1階建ての家がある。これ、皇女和宮が江戸に降嫁した時にこの宿に泊ることが決まり、町がみすぼらしく見えないようにとあわてて普請された50数軒の内の一軒だという。地元ではこれを「お嫁入り普請」と言って、建物を大事に保存している。さらに、当時の行列を再現したイベントが今でも続いていると言う。これらのことから、当時のこの地の人々にとって皇女和宮の降嫁はとてつもない大事件だったこと、彼女への敬愛の情は並大抵で無かったことが伺い知れた。

 ここからバスで大垣に出て、本日の打上げ兼壮行会を行う。一行は、明朝また赤坂宿まで戻って歩きをスタートさせるのだ。私は、大垣から遅い電車に乗って神戸まで戻った。

 /31    木曽路奈良井薮原""栗毛

 我々の山仲間では既に4人が日本百名山を踏破しているが、今年は仲間の夫婦が「2人揃って百名山」というのを達成した。別々に登っていた山も改めて夫婦一緒に登り直すという徹底振り。本31日は、既に別々には登っているが、この日のためにと残しておいた奥秩父の瑞墻山に夫婦一緒に登って、夜に諏訪湖畔のホテルで記念のパーティが催される日だった。この節目のお祝いだけは、夫婦で参加というのが不文律になっている。この日、関東在住者には山にも同行してからパーティに参加という人も居たが、私は山は諦めて、家内だけで無くお祝いに出席したいという娘も同行して、パーティのみ参加することとした。

 家を出てそのまま高速を突っ走れば早いのだが、折角行くのだからと、木曽路は地道を走り中仙道の宿場を巡ることとした。それではどこに寄るか、馬籠、妻籠は余りにも観光化されているし、昔家族で行ったことがあるので、木曽福島・奈良井・薮原を選んだ。

 家を早朝スタートし、高速を中津川で降りる。一般道に入ってすぐの道の駅「賎母内」で休憩すると、駅内に東山魁夷の絵の飾ってある「心の旅路館」があるという。最も好きな画家なので、早速入ってみる。ところが飾ってあるのは肉筆は1枚で、あとはリトグラフばかり。「道」等の代表的な作品があるものの、がっかり。しかし解説によれば、魁夷が学生時代ここから木曽の山に入った時の感動が現在の絵の原点だとあった。それを読んだ後、外に出て改めて建物を眺めると、ガスに覆われた濃い緑の樹林を背に建っており、この建物自身が魁夷の世界にあると、改めてこの美術館の存在を見直した次第。

 昼食は、木曽川随一の景勝「寝覚の床」を見下ろすレストランで。さらに木曽川に沿って一路上っていくと、木曽義仲ゆかりの里、木曽福島。ここでは、福島の関に寄る。日本四大関所の1つで、往時は入り鉄砲や出女を厳しく取り締まったという。何も無かった不破の関と違って、関門、建物があり、当時の様子が伺い知れた。

 そのまま木曽路を下ると薮原。学生時代に、ここからボンネットバスにゆられて初めて上高地に入ったことがある。また別の機会に、奈良井まで鳥居峠を歩いて越えたこともある。その頃は駅前に古い家が立ち並んでいたのを思い出すが、今は結構新しい家が並んでいて、古い造りの家は軒先に杉玉がかけられている造り酒屋や旅篭の風情を残したままの家等ポツポツしか無く、宿場町のイメージに乏しい。見学している人もいない。折角の観光資源、もっと工夫すればいいものをと思う。その鳥居峠、当時は荒れた山道で、その昔本当に馬や籠が行き来したのかなと訝ったものだが、パンフレットによれば今はその昔あった石畳が復元されているという。一度歩いてみて以前と比較してみたいものだが、今日は車なので鳥居トンネルを潜る。

 トンネルを越えて木曽川を渡れば、そこは奈良井の宿。その昔、鳥居峠から下ってきたら古い旅篭風の建物が並んでいてとても感激したのを思い出す。今も千本格子の屋波が続き、家前には軒灯が飾られ、通りにはその昔旅人が喉を潤したであろう水場が冷たい水を迸らせており、昔の街道の面影を色濃く残している。いや、建物はそう古くないのが多いが、新しく建てた家でもうまく宿場の風情を保っていると言うことか。家々の玄関には、どの家にも表札とは別に、苗字の許されなかった昔、家々を区別するのに呼んだであろう屋号を書いた木札がかかっている。土産物屋も、外観は回りと調和した落ち着いた佇まいをしている。これは、古い街道筋の町並みを残そうという町全体のコンセプトがしっかりしていているからであろう。案の定、薮原と違ってこちらは観光客が多い。

 今は、峠は峠、奈良井は奈良井と別々の観光資源になっているように思えるが、薮原をもっと宿場町風に改造して、折角整備された中山道屈指の難所・鳥居峠を挟んだ、薮原宿・鳥居峠・奈良井宿を線として世に紹介すればもっともっと魅力が出てくるだろうに大変惜しいことだと思った。地域の衰退が叫ばれている折、少し工夫が足りないように感じた。尤も、薮原は木曽村、奈良井は 塩尻市 と行政府が違うことも大きいのかも知れない。ヤレヤレ。

 今回2回に分けて訪れた中仙道。近江路は訪ねたのが全く鄙びた所だったので「寂び」、美濃路は戦国武将が東西天下分け目を戦った所だったので「夢の跡」、そして木曽路は今にも江戸時代のちょんまげが飛び出してきそうな「ロマン」と、それぞれの顔を味合わせてくれて、とても楽しかった。




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