永遠の少年・大村さん安らかに :        高嶋 宏尚


 12月中旬に大村和子さんという方からお葉書を頂戴した。お名前は記憶にない方である。「はて、誰方だったろう」と訝しんだ。

 思いもかけない大村英尭さんの訃報であった。「何ということだ」と、言葉もなかった。このところ研究会ではお会いしていなかったが、17年の正月には「毎日プールで泳いでいます」との賀状を頂戴していたのにその後体調でも崩されていたのだろうか、いやそれなら何らかの連絡があった筈だ、一体何があったのか、などの思いと大村さんの笑顔が、瞬時に頭の中で交錯した。

 翌日辻さんに電話をして、水泳教室でプールから上がった後急にお具合が悪くなったのだと知った。昼食のための待ち合わせ場所に向かった奥様が、道を間違えたために図らずもスポーツクラブの前を通ることになり、救急車に胸騒ぎを覚えて「よもや大村では」と尋ねたところ、「あなた誰ですか」と救急隊の人に誰何されたとの話を、後日奥様から伺った。その時の奥様の驚きは察するに余りあるが、単なる偶然とはとても思えないのである。 

 12月23日に、辻さんご夫妻、石井さんと連れ立って大村家をお訪ねした。居間にはAVアンプを中心とし、モニター、DVDレコーダー、CDプレーヤー、レコード・プレーヤー、スピーカーなどが整然と配備され、特等席の位置に大村さんの写真が置かれてあった。

ご自分の書斎には、夥しい数のビデオテープやCDDVDなどがきちんと整理されてラックに格納されており、完璧な管理簿が作成されてあった。ため息の出るほどの、美しい光景だった。これほどまでの音楽ソースを思いのままに管理するために費やした大村さんの情熱とエネルギーは、いかばかりであったろうか。いくつかのテープに「残り30分」と記された付箋が付いていたのにも、大村さんの几帳面さ、完璧な管理の一端を見せられたような気がしたものである。

「ビデオテープやDVDなどのソースには管理番号をつけなさいよ」と大村さんに教わってはいたのだが、大村さんがなさっていたことを目の当たりにして、「整理とは、管理とは、このようにするものなのだよ」と改めて教えて頂いた思いがしたのだった。

 ビデオテープなどのソースにしても、演奏会の記録、オペラ、バッハの大全集などなど、どれを取ってもクラシック・ファンなら垂涎の的のものばかり。訪問の目的もつい忘れ、「これと、あれと、それも貸していただけませんか」と思わず言いそうになってしまった。奥様は「生前に来ていただけたら」と仰って下さったが、もしそうだったら、間違いなくその日のうちには帰れなかっただろうと思う。当方は大村さんのあの宝の山を前にしたら身動き出来なくなっただろうし、大村さんも喜んで様々なソースを見せ聴かせて下さり、尽きることなく薀蓄を傾けて下さったに違いないと思うからである。  

 大村さんに初めてお会いしたのは3年程前のことなのだが、この間に、ベルリンの壁を日本に持ち込んだことはもとより、さまざまな業種の会社に勤務しながらいずこにおいても赫々たる業績を上げて来られたこと、仕事への取組み姿勢や情熱、常に正義を貫く強い意思、クラシック音楽の持つ意味や味わい方、DVDやビデオの整理の方法などなど、感動して聞かせて頂いたことには限りがない。(大村さんがホームページに書かれた「クラシック音楽ア・ラ・カルト」は、全てプリントして愚息に読ませ、「お父さんの研究会にはこんな素晴らしい人がいるんだぞ」と自慢していた)

その時々の課題にひたむきに取り組む姿勢は後輩が手本とすべきことであり、真っ直ぐに自分の思う道を突き進む純真さは、まさに少年のそれであった。大先輩をこう称するのは不遜の極みかも知れないが、「永遠の少年」との思いがぬぐい切れない。しかも、この少年は深い哲学的教養と高い芸術的素養を備え、類まれな行動力を持ち、世の幾多の荒波を越え、厚い壁を突破し続けてきた人なのである。最期まで自分の生き様を貫いた人なのである。水泳の世界マスターズ競技会に参加するのが目標だったと伺ったが、ひたすらその目的に突き進みながら道半ばで天空まで駆け上っていってしまわれたのである。

 誰しもが大村さんのような生涯を送ることは出来ない。稀有の人である。こういった生き様をなし得た人、凡百の人の及ばぬ遥かな高みにある素晴らしい人を知っていること、これは自分の誇りであり、心の大きな拠り所でもある。  

 大村さんは、遠い空の彼方で大好きなベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いておられるのだろうか。びっしり書き込みのしてある音楽事典を小脇に抱え、雲の間を散歩されておられるのだろうか。今年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは、どのように聴いておられたのだろうか。「ヤンソンスの指揮はどうでしたか」と尋ねてみたい気がする。そうこうしているうちに、「DVDのラベリングはもう始められましたか」と大村さんから電話が架かって来そうな気もしている。 合掌    (2006.1.5


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