「スタンダード」

      安藤 博   

 冷戦に勝ち残った米国のダントツぶりは、かっての覇者ローマや英国をはるかにしのぐ。ことに、地球規模の情報化が進んでいくのに伴い、軍事、経済を超えた包括的な米国覇権が確立しつつあるように見える。この流れを助長しているのは、英語、というより米語の「スタンダード化」である。アングロサクソン原産のこの言語は、いまやアラビア数字に似た世界共通記号に成り上がろうとしている。これまでは「金と腕力だけの成り上がり者」と陰口されがちだった米国だが、情報に関わるハード、ソフト両面を牛耳って、文化の面でも支配力を発揮していきかねない。

 製造物の規格や、通信システム、さらには企業システム全体について、「スタンダード」が問題にされるようになったのは、バブル崩壊後の不況が続くなかで、日本が誇ってきた「日本流」に強い疑念が持たれるようになったためである。とりわけ、首切り勝手放題の米国流競争万能に対して、「人を大切にする」ことの優位を強調していた「日本的経営」は、今や貧すれば鈍す。いったん通告した採用内定の取り消しやら工場閉鎖にともなう生首の切り捨てやらで、なりふり構わぬ米国流敢行となっている。むしろ、好況が続き人不足が目立つ米国では、自動車産業が「終身雇用契約」を打ち出すような「人重視」に向けての日米逆転さえ見える。

 「スタンダード」は、戦後日本の工業化過程で「JIS」が工業製品に関して適用されていた段階では、さほど重荷でも厄介ものでもなかった。企業の「教育ママ」のように振る舞っていた通産省の指導もあって、製造業経営者はこれを「一人前の企業」となるための資格規準として前向きに受け止めていた。

 そうでなくなったのが、今日激流となって進んでいる情報化・ソフト化の中での「スタンダード」である。つまりは情報・通信分野で米国にますます水を空けられつつあるのと軌を一にして、この分野での「スタンダード」が、日本にとっての厄介な課題として立ちはだかりつつあるわけだ。ことに「いまいましい」と感じさせられるのは、マイクロソフトやインテルのような米国企業が、自社製品の規格としてつくり出したものが、侵しがたい「グローバル・スタンダード」として闊歩し、日本などにも押しつけられていることである。

 加えて、英語が世界語としてのさばっている。情報・通信に関わる記号は 専らアルファベットであり、英語である。インターネットを介して情報・通信分野で急速な技術革新が進んでいくのと並行して、英(米)語覇権が進んでいる。「英語を、日本語と並ぶ公用語としよう」といったことが、大まじめに提案されるに至っている。

 その英語で、日本人がひどく劣っているとしきりに言われている。なんだか世界の中の劣等生扱いをされるみたいで、これまた業腹なことである。米国やカナダの大学に留 学しようとする際に必要な英語力検定試験「TOEFL」の最新結果(1997ー1998年分)で、日本はアジア二十五国・地域の最下位(498点)に転落したという。 トップ三国が、シンガポール(603点)、インド(581点)、フィリピン(567点)であるのはうなずける。いずれもかっては英、米の植民地だった。

 しかし、そうではない中国(6位、560点)や韓国(11位、522点)からも大きく離されている。モンゴル、北朝鮮よりもさらに下というのだから、これはちょっとしたことである。小学校での英語教育に教師が反対するといった外国語教育に対する柔軟性の欠如が、「TOEFL最下位」の一因になっている。もちろん「英語が下手なのは劣等国」とまで思いつめることはない。「英(米)語覇権」に頭から服従することはむしろ避けるべきだろう。とはいえ、攘夷思想から、国際社会に生きる手だての一つに 遅れをとることもあるまい。

 「スタンダード」の典型は、法律や規則である。さらにはその根底にある理念、原則 である。しかし、これらは実際には各国ごとにかなり隔たりがあり、交通ルールの「右側通行」「左側通行」ぐらいの差は大したことではない。それよりも、たとえば「歩行者優先!」。原則としてはおそらく万国共通である。しかしこれは、その国の近代化の度合、もっといえば民度によって大いに異なる。米国や西欧先進国では、歩行者、つまり人間の優先が極めてはっきりしている。逆に、メキシコや中国だと、車、即ち車に乗った人間が、道を歩いている人間に対して、はなはだしく優位に立っている。青信号で歩道を渡るときでも、信号無視の車や、右折、左折して突っ込んでくる車にはねられないよう、命がけだ。日本はほぼ、欧米と中国などとの中間にある。

 ことほど左様に、共通であるはずの原理、原則が、実際には地域や環境、状況によって大いに異なる。同じはずの「人権」をめぐって、米国と中国は執拗に言い争いを続けている。「人命尊重」も、地球の隅々まで同じとはいえない。人種や宗教の違いに国家威信が絡むと、コソボや東ティモールのような殺戮が行われることになる。

 近くに目をやれば、日本の警察権力内部での恐るべき無法、無軌道である。神奈川県内の警察では、後ろ手錠のリンチや人の頭部に実弾入りのピストルを押しつけて死の恐怖を与える行為が、刑事事件には当たらないとされていた。加えて、この不祥事が発覚した後の警察トップの対外発表はウソの固まりだった。「ウソはドロボウの始まり」とされるのに、ドロボウを捕まえるのが仕事のこの連中は、「ウソも方便」「見つからなけりゃ、何をしてもいい」という法の「スタンダード」破りに明け暮れていると言わざるを得ない。

 より身近かには、脅迫まがいの新聞売り込みがある。つい先ごろ、筆者の留守中、家にいた老母がベルの音でうっかり玄関を開けたため「読売新聞」を名乗る男に押し入られ、恐ろしさの余り購読契約のハンコをつかされた。九月末の朝、頼んだつもりのないこの新聞が入っているので「恐喝」に気付いたのだが、この種の話しはいくらもある。

 同僚の一人は、「朝日新聞」の男に、「これだけ頼んでいるのに断るのか。夜道に気をつけろ」とすごまれたという。社説などで「公正」を説きながら、その裏で女、子ども、年寄りを脅して商売をしている点、警察内部の「無法、無軌道」と同断である。

 であればこその「スタンダード」というべきなのだろう。つまり、共通であるはずの法の正義や人道が、実のところそうではない。特に、警察やマスコミのように強権を持ち、外部からの批判、牽制を許さない組織が、恐るべきダブルスタンダードを内包している。

 国際化と情報化によって、いやが上にものしてきた米国原産物のスタンダード化を、「アメリカ帝国主義ハンターイ!」と排することにかまけているより、むしろ手前勝手な「日本の独自性」や「わが社の伝統」に潜む不合理、無法を打破するきっかけとして利用するのが、国際社会を生き抜く知恵というべきではなかろうか。

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