「日本人に必要なもの」 黒木 靖生
8月12日(月)、私は大学の先輩のお通夜に参列するため、夕方6時前の京浜東北線の電車に乗りました。私の乗った車両は、夕方のラッシュで多少混んでいましたが、野球のユニフォーム姿の十数名の少年たちが乗っていました。
私がビックリした(そして少し悲しく思った)のは、それらの少年たちは全員座席に座っていたのに、その野球チームの指導者と思われる(同じ野球帽を被っていました)大人5〜6人が「立っていた」ことです。
この少年野球チームのユニフォームには、「YOUNG WOLF」とチーム名が表示してありましたが、このままでは、野球の技術のみを追求する「WILD WOLF」になってしまうのではないかと、些か心配になりました。これらの少年たちは、野球道具の入った大きなバッグを幾つも電車の通路に置き、その周辺に飲み干した清涼飲料のカンを並べて、座席ではオオカミの子供のようにジャレ合って、残念ながらもう既に「WILD WOLF」になり切っているようでした。
私の観察では、最近の若者は電車に乗ると、まるで「椅子取りゲーム」のように空いた座席に突進する人が多いように思います。ここ20〜30年の義務教育のスローガンは「生徒の好きなことをやらせる」であり、これは子供の個性を伸ばすのが目的のようですが、子供のほうは、これを「他人に(意図的な)迷惑をかけなければ、何をやっても良い」と理解しているようです。確かに、電車の座席は自由競争で先に掛けた人に優先権があるわけですが、いい若者が争うように座席を探して座る姿はあまり心地よいものではありません。
どうも最近の若者には、「矜持を持つ」とか「やせ我慢」という感覚に乏しいように思います。これは我々大人にも、責任の一端があるのでしょう。最近の新聞に「お婆さんと小学校高学年と思われる子供1人を連れた母親が電車に乗って来たので、お婆さんに席を譲ったら、子供を座らせようとしたので異をとなえたら睨み返された」という記事が掲載されていましたが、子供を「赤ん坊」のように甘やかす親に先ず一番の問題があると思います。
幼い頃から「わがまま」に育てられ、小学校に入ったら先生に「好きなようにやりなさい」と教えられたら、どのような子供になるか推して知るべしでしょう。私が小さな頃から、私の家族は母親の両親と一緒に住んでおり、その生活の中で私は「老人(年長者)を大切にする(敬う)」ことを自然に学んだような気がします。しかし、今は核家族で、老人(年長者)に日常的に触れる機会もなく、「長幼の序」という言葉も死語に等しいように思います。
日本は戦後、「道徳教育」を「軍国主義の温床」として排除して来たわけですが、われわれは今、この「角を矯めて牛を殺す」政策の「ツケ」を払わされているとも言えるでしょう。
世界の国々の国民は「キリスト教」・「仏教」・「イスラム教」などの宗教を日常の行動規範にしていますが、日本人は規範となるような「宗教意識」を持っていません。この希薄な「宗教意識」が、今の日本の世相の乱れの根本的な原因ではないかと思います。
日本人の宗教意識は、私の場合は「祖先(神)崇拝」ではないかと思っています。私の育った家には「仏壇」があり、物心ついた時には毎朝、その仏壇に手を合わせて拝んでいました。その仏壇には私の先祖の霊が宿っており、その霊が私の日常の行動を見ているので、先祖に申し開きのできないような行動はしてはならないというのが規範ではなかったかと思います。先祖と言っても、私の場合、母親の両親と同居しており、また、父親の母親とも時折会っていましたが、その先の「先祖」となると具体的にイメージできないのですが、とにかくそのような人たちが自分を見守ってくれているという意識だけはありました。
今の日本人は、余りにもバラバラになっており、もう一度、このように祖先とのつながりを見つめ直すことが必要ではないかと思います。
(以上)