ペンリレー
顔 安藤 博
「自分の顔に責任を持て」―毎年この時期になると、全国の学校、会社のどこかで、学長、社長が年度初めに行う訓示の中にこの言葉が出てきているはずである。筆者もむかし言われたことがある。そして「そんなこといわれても、、、」と素直には聞かなかった憶えがある。人格は顔に表れる、だから人格を磨けというお説教である。しかし、人は本来「人間の衣を被った獣」である。顔は、人格もさることながら、生まれた境遇、育った環境、それよりもっと単純に、暑さ寒さなどの自然環境に大きく左右される。名家の生まれ故に貴公子然とした顔つきをしていながら、けちで品性下劣ということもあれば、その正反対もあることは、誰もが身近に知ることだろう。
短い間ではあったが、米国在勤中に「三種類の顔」を知ったことで、人の顔を作る基本要因は、奮闘努力や修練以上に風土であることを確認した。「三種類」とは、日本人ないし日系人の顔のことで、@外交官、商社員など、3−5年程度で在外勤務を交代していく腰掛け駐在員、A国を出て既に10年余、土着化しかかっている永年駐在員、B二世、三世の日系米国人、はそれぞれに異差を示している。@はいつも本国を向いて暮らしていて、霞ヶ関、大手町を歩いている人種と同じ顔。Bはいわゆるバタ臭い顔相で、口腔・喉の構造も英語向きに変じていることを思わせる。Aは両者の中間、というように、動物学的異差が認められるのである。
東京とその周辺の狭い地域でありながら、違う顔の別人種が住んでいるかのように思えることもある。JRや私鉄の乗客を、路線の方位ごとに見比べてみる。東方、わが在所を行く総武線は、白昼座っていた乗客が脳天に金槌を叩き込まれて殺されるような事件の起きる風土を映して、良く言えば素朴、悪く言えば荒っぽい表情の乗客を見かける事が多い。他方、南西方向、例えば東横線。乗っている子供らは、いかにもこまっちゃくれた坊ちゃん、嬢ちゃんである。
先月末、偶然日を接いで出かけた演劇や音楽の会でも、東京に住む“異人種”の顔の差を現認した。嵐圭史が「赤ひげ」を好演した吉祥寺の前進座、ここでは、官憲に「アカ」と目星をつけられ虐げられた風雪をしのばせるような、引き締まった風貌を多く見かけた。その翌日出かけたのは、若手音楽家を支援する財団主催のチャリティコンサートが行われた東京オペラシティ・コンサートホール。ロビーなどで見かける顔には、けばけばしさが目立った(絢爛たる衣装のデビ夫人が財団会長としてご挨拶にお出ましになったりしたための、僻目もあるかもしれない)。
ひとさまのお顔をあげつらう失礼を承知で、もう一箇所。東京・浅草で行われたアニメ映画製作の資金募集の集まり。ここでは、極めつけともいうべき「良いお顔」に出会うことができた。第2次大戦末期(1945・3・10)の米軍空襲で、一人の兄を除き両親兄弟6人の全てを一度に失った当時11歳の作家、海老名香葉子さん(69)が著した自伝作品のアニメ映画化である。会合の挨拶で、海老名さんは「生きる希望と平和の尊さを世界のこどもたちに伝える映画にして欲しい」と語った。2003年春に完成したら、映画を持って自らアフガニスタンに行き、自分と同じ空襲の惨禍を受けた子供たちに見せてやりたいという。悲惨な生い立ちを語りながら、そのお顔はいかにもいきいきとして楽しげである。
そして、四つ上の兄の「喜兄(きいにい)ちゃん」。長い伝統を持つ釣り竿作りの家業を継いだ「竿師」である。集まりの後の食事会で、しばらくご一緒することができた。言葉は少ないが、穏やかでゆたかな表情は、そこにいてくれるだけで頼りになりそうな思いにしてくれる。こんなお顔に接すると、「顔の責任」と説く恒例の訓示もあながち疎かにしてはいけないかなと感じさせられるのである。