「ショートエッセイ」シリーズその9
「好きな短歌」を絞り込む 辻 淳二
上に「これと即答できる一首はない」と書いたが、対象はかなり絞れてはいた。先ず、「誰の歌か」ははっきりしていた。江戸時代の中期に孤高の生き方を貫き、自由で心に沁みる歌を多数詠んだ『良寛』である。良寛の歌には、歌集も持っているし、近年新潟へよく出掛けた機会を活かし、県内の各地に点在する歌が詠まれた地域や歌碑のある名所/公園などをこまめに訪ねているしと、特別な親しみを感じている。つまり、「好きな歌は結構沢山ある、しかし一首と言われると困ってしまう」という状況だったのである。
従って、ここで試みたのは「一首に絞る思考」ということになる。今回採ったのは、楽しみながらゆっくりと絞って行くアプローチだった。「好きな歌は三十くらいはある」ところから、先ず、手元にある『良寛の名歌百選』(谷川敏朗選、考古堂書店刊)に載っている歌をあらためて通読した。次に、その中から、好きな歌でかつ、自分が“良寛巡り”をする中で強く共感的なイメージを持った歌を抜き出した。こうして選んだ四首とその理由は、以下の通りだった。
1 霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ
JR
2 草の庵に足さしのべて小山田のかはづの声を聞きかくよしも
この歌の季節と見られる初夏に2回、私は五合庵(良寛が40歳台の後半から60歳くらいまでを過ごした、弥彦近く国上山中腹にある庵)を訪ねているが、日中だったこともあって、そこでかわづの声を聞くことはなかった。それでも、この季節は「一年の中でも、特にのどかに屈託なく過ごせる時期」という雰囲気は随所に感じられた。庵の居住スペースは4畳半に満たないくらいの狭いものだが、この時期、ここには歌が髣髴させる「伸びやか感」はあっただろうと納得させられる思いがあった。
3 やまたづの向かひの岡に小牡鹿立てり神無月時雨の雨に濡れつつ立てり
私が五合庵を訪ねた季節は専ら春か初夏で、秋に訪ねたのは一回だけ。冬が近くうら寂しい風情の雨の中を、傘をさしながら山道を登っていった。その時にフトこの歌を思い浮べて、この歌のシーンはどこだったのだろうかと所々で足を止めて、視線を巡らせた。それらしい近さで向いの岡が見える所はなかったが、牡鹿と自分を重ねて迫り来る冬の寂寥を詠んだのだろうと、共感する思いはあった。
4 いついつと待ちにし人は来たりけり今は相見て何か思はむ
これは、四十歳余りも歳の違いがありながら心が深く通じ合っていた貞心尼が遠く(今の
私にとって、これらはいずれをとっても、自分の足で歩き目で確かめたイメージ感と、素直に自由に詠ったシンプルさとがしっくりと重なって、大好きな歌に他ならない。
かくして四首までは絞れたが、歌会誌の方からの要請は「私が出会った一首」となっている。思考の流れとしては、この四首から一首に絞る積りだったのだが、ここはスンナリとは行かなかった。この四首は、「四つがセット」だと一番で納得なのだが、この中から一首となると、どれを採ってもシックリ来ないのだ。
そこで、別の切り口から「一首」を探すことにした。もう一度、上の『名歌百選』を読み直して、一首でシックリ来るものを探した。選んだのは、次の歌だった。
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我は勝れる
この歌は、良寛が蝋燭の灯りの近くで書を読んでいる『燈下読書図』に自ら画賛として書き添えていることで、よく知られているもの。ここで「ひとり遊び」とは、「独居して、詩歌・書や読書を楽しむ暮らし」のことである。この歌を選んだ理由は、この歌と画のセットが、まさしく「良寛の良寛たる由縁」を簡明にイメージしているとあらためて感服したからである。長岡藩主・牧野忠精が、1819年に国上寺を訪ねた帰路に、60歳を過ぎて体力が落ちた良寛が山中の五号庵から移り住んでいた乙子神社草庵に立ち寄り、城下への移住を勧めようとした時に、『焚くほどは風がもて来る落ち葉かな』の句を返し、やんわりと断ったエピソードとも、ピッタリと重なっている。
かくして、「私が好きな一首」と「私の好きな四首」に到達することができた。「この一連の思索は、思わぬ収穫だった」との充実感を伴って。[04.7.31]