[良寛の研究]入門作(その2)
誌や歌に学ぶ「良寛の本質」 辻 淳二
良寛は、日本の歴史上の人物の中でも有数の「自分の生き方を貫いた人」だと思うが、我々が真似をしようとしても生半可な覚悟ではできない。その一つが「独居」で、心細い/耐えられない/恥ずかしいと思う自分に勝てない。良寛は、我々が持つ弱さをどう克服したのだろうか。
今回は、この核心に近付く狙いで「・・・の点はどうだっだか」との個人的な関心にアンテナを立てておいて、良寛の生き方に関する文献や作品などからその答えを探すという方法で、前回(99年9月号)以降の勉強の一端をまとめる。
関心事1: 良寛はいつ「草庵で独居して生きる」腹を決めたのか
良寛が禅僧としての修行をした円通寺(現・岡山県倉敷市)を出てから郷里の越後に帰るまでの遍歴中(約6〜7年間)の記録は、土佐の破れ庵で独居する良寛に泊めて貰った近藤万丈という俳人の紀行文「寝ざめの友」以外に何も残されていないとのことである。従って、その時期に関して良寛が書いた漢詩等から思い切って推察するしかないが、「円通寺で修行し大忍国仙師から僧としての印可を受けた辺りで、既にかなりはっきりした“かく生きようとのイメージ”を掴んでいて、師が亡くなったあと確信を持ってその道を突き進んだ」という見方で大筋は間違いないと思う。
その根拠は、以下のような客観情報に拠っている。
1 円通寺の時、自ら意識的に「孤高の生き方」を選んでいる
それを裏付けているのは、よく知られている以下の詩である。
[詩]
自来円通寺(円通寺に来りてより)
幾度経冬春(幾度か冬春を経たる)
衣垢聊自濯(衣垢ずけば聊か自ら濯い)
食尽出城イン(食尽くれば城いんに出ず)
門前千家邑(門前 千家の邑)
更不知一人(更に一人も知らず)
曾読高僧伝(かって高僧の伝を読むに)
僧伽可清貧(僧伽は清貧を可とすと)
注:上のインは、門構えの中に西と土が入る字
[解釈=上記のカッコ内=中野孝次著「良寛の呼ぶ声」より]
意訳すれば、「仲間の僧と群れる安易な道でなく、道元など優れた先達のとった生き方が本物とわかったので、自分はその道を行く」という意味と捉えられよう。
2 他の修行僧の生き方をはっきり批判し、自らその方向への退路を断っている
寺を出る直前の良寛は、壮年の勢いが迸っていたようだ。当時の詩として以下のものがあり、当時の大多数の僧修行者が取ろうとしていた生き方を批判して、自分のお尻を叩いて前に押し出している。これはちょうど、上記1項の詩と対になって、「自分は、自分が信じる本来の僧の生き方を生きる」との宣言と見ることができよう。
[詩]
我見出家児(われ出家の児を見るに)
昼夜浪喚呼(昼夜浪りに喚呼す)
祗為口腹故(ただ口腹の為の故に)
一生外辺鶩(一生外辺の鶩=アヒルとなる)
白衣無道心(白衣の道心なきは)
猶尚是可恕(猶尚是れ恕すべし)
出家無道心(出家の道心なきは)
如之何其汚(之れその汚を如何にせん)
[解釈=中野孝次著「良寛の呼ぶ声」より]
今の僧侶を見るに、ただ読経したり説教したりするのみで真の道心なぞなく、生活の資を得ることばかり念頭にあって、一生人に飼われるアヒルのような存在になり下がっている。
3 国仙師は彼の資質を見抜き、それを伝えて印可状を渡している
師は、直後に亡くなっていることから推察し、寺の修行僧の年功序列ではまだ下の方の良寛に本物の禅僧となる筋を認め、自分の目の黒い内に印可状を与え、エールを送る道を選んだと見ていいのではないか。印可の際に師が良寛に与えた、彼の本質を見抜いた「親愛に満ちた詩」(下記)がその証明に他ならない。
[附良寛庵主(良寛庵主へ。カッコ内は意訳)]
良也如愚道転寛(良や、君は一見愚かに見えるが、掴んだ禅の道は広々している)
謄々任運得誰看(あくせくせず運を天に任せているその心を見抜ける人はいない)
為附山形爛藤杖(この杖をあげるから、大切にしなさい)
到処壁間午睡閑(どんな状況でもそういう自分を見失わないようにしなさい)
この印可状は、良寛にとって、何よりの心の支えと自信になったことだろう。
良寛には「円通寺時代に迷った時に師から道元の正法眼蔵を借りて読んで、抜け出せた」という漢詩があるが、この師は国仙師以外にあり得ない。また、国仙との問答で彼が師の家風(生き方の極意という意味か)を尋ねたのに対し、「一に石を引き、二に土を運ぶ」と応えたという。師はここで、良寛が当時を詠った漢詩に書いている中国の禅の達人、老廬(ろ)やホウ(まだれの中に龍が入る字)公の生き方を暗喩していたと考えられる。これらから見て、師とはかなり深く語り合える関係にあったと見られる。
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国仙師が良寛に与えた印可状を真ん中に、上側は師の像と書、下側は良寛の自画像&讃と「自来円通寺・・」(上記の漢詩)を添えた。出典:NHKラジオ放送「良寛の漢詩を読む」 |
4 近藤万丈が会った時、既に五合庵での生活に近い過ごし方をしている
この時期はまだ遍歴を始めて割に早期と見られるが(万丈の紀行文は後年に書いているので、会った年次は不祥のようだが)、紀行文によればその時の良寛の生き方は既に後の五合庵での生活を彷彿させるものだった。
関心事2: 良寛は気の達人だったのでは?
(「良寛の居る所はいつも良い気に満ちていた」のでは?)
この答えは「YES」だと思うが、良寛に関する文献を十数点たぐった中で、この気という視点に焦点を合わせた記述に殆ど行き当たらなかったのはちょっと意外だった。
「YES」と判断したのは、次の3点の詩作/記録からである。
1 第一は、円通寺での修行を思い出しての良寛自身の漢詩である
[漢詩(口語訳)=水上勉著 「良寛を歩く」より引用]
我、昔、静慮を学び
微々として気息を調う
此の如くして星霜を経
殆ど寝食を忘るるに至る
よし、安閑の処を得るも
蓋し修行の力に縁る
いかでか如かむ 無作に達し
一得、即ち永得ならんとは
[解釈=同上]
わたしは、昔、座禅をやるのに、ゆるゆると気息をととのえて、静かな境地をつくることに専念したものだ。数年もそればかり続け、寝食を忘れるぐらいだった。もし、今日、自分の中にゆったりとしたところがあるとすれば、それはここでの修行のたまものだろう。といっても、いっそう無我の境地に達して、一ど体得したら永久の体得となる底の境地にはまだほど遠いものだがー。
2 第二は、托鉢をしていると子供達が集まってくると書いた自身の詩である
これは、相馬御風著「良寛百考」有峰書店)の中に見つけた以下のものである。破れ衣に身を包んだ乞食僧に子等が群れて来るというのは、良寛から「いい気」が発散されていたことの証明に他なるまい。
[詩=上記の御風著より]
裙子短く褊衫長し
謄々兀々只麼に過ぐ
陌上の児童忽ち我を見て
手を拍ち斉しく唱う毬を放つの歌
×
十字街頭食を乞ひ了る
八幡宮邊方に徘徊す
児童相見て共に相語る
去年の痴僧今又来ると
×
今日食を乞うて驟雨に逢う
暫時回避す古祠の中
笑ふべし一嚢と一鉢と
生涯蕭灑たり破家の風
[解釈=同上]
良寛という坊さんは随分ときたならしい乞食坊主であったという風に、一部の俗間には語り伝えられている。けれども最も信ずるに足る二三の記録によれば、彼はむしろ清浄と高貴とを以て人をして一見尊敬せしむに足る風貌の持主であった。そして彼の日常生活の如きも文字通りに無一物に近い簡素なものであったけれども、しかも不潔の気などの全然ないいかにも小綺麗な上品なものであったらしい。
3 第三は、解良(けら)栄重がその人柄について書き残した「良寛禅師奇話」である
この人は良寛の援護者で極めて親しかった解良叔問の子で、良寛に接する機会も多かった。上記の書に、以下の記述があるという。
「師、余ガ家ニ信宿日ヲ重ヌ。上下自ラ和睦シ、和気家に充チ、帰去ルト言ドモ、数日の内、人自ラ和ス。師ト語ルコト一夕スレバ、胸襟清キ事ヲ覚ユ。師更ニ内外ノ経文ヲ説キ善ヲ勧ムルニモアラズ。或ハ厨下ニツキテ火ヲ焼キ、或ハ正堂ニ座禅ス。其話、詩文ニワタラズ、道義ニ不及、優游トシテ名状スベキ事ナシ。只道徳ノ人ヲ化スルノミ。」
これによれば、良寛が来た後は、「帰って数日は和気あいあいの空気が満ちていた」ことになる。このあり方は「人として生きる理想」で、良寛はその域に達していたことがいみじくも記されている訳で、見逃せない一文である。
関心事3: 「捨てる達人」だった良寛が捨てられなかったものは?
自分の生き方を通すために、良寛は家(出雲崎の名家)も生活の基盤(名主の跡継ぎ、曹洞宗の僧としての栄達)も捨てた。それで、「(道元がイメージした)理想の禅僧のような、自由で澄み切った心」を持ち得たのだが、その彼と言えども捨て切れなかったというか、ずっと心を離れなかったと思われるものが一つある。それは、肉親に対する情だった。玉島(現・倉敷市)の円通寺を33歳の時に出て諸国を遍歴し、40歳直前に故郷・越後に戻っているが、父母兄弟姉妹への思いは、諸々の屈託を超えて「深い情の通う、切っても切れない繋がり」だったようだ。
中でも、自分が出家したために、自分もあまり名主には向かないのに後を継いだ弟・由之(結果として、住民の信を得られず、後年免許取り消し/出雲崎から所払いの身となる)との、お互いの人生の節目に交わされた交流は、心理学で言う「相互受容の関係」を感じさせる。そしてそれが、自棄型ながら文人の資質が高かった父親から引き継いだ「血筋」で繋がる短歌でなされているのが心憎い所である。
由之が所払いを受けた時と、良寛が終の住み処となった和島村・木村家で病いの床に臥せるようになった時に交わされた短歌は、次のようだった。
1 所払いの時
由之が所払いの処分を受けて去った出雲崎を直後に良寛が訪ねて、亡き母の生地である佐渡ケ島を遠望しながら、由之のために詠んだ歌三つ
[このごろ出雲崎にて]
・たらちねの母がみ国と朝夕に 佐渡がしまべをうち見つるかも
・古にかはらぬものはありそみと むかひに見ゆる佐渡の島なり
・草の庵に脚さしのべてをやまだの 蛙の声を聞かくしよしも
二十二日 由之老 良寛
2 木村家で病臥していた時
[天保2年=良寛73歳、睦月=この時は酒を飲み交わしている]
・ 手を折てかきかぞふればあずさ弓はるはなかばになりにけらしも(良寛)
・ あずさゆみ春はなかばになりぬれどこしのふぶきに梅もにほはず(由之)
・ 兄弟相逢処 共是白眉垂 且喜太平世 日々酔如痴(良寛)
[同年弥生7日=由之はこの頃蒲団を送った]
・ 君まさば摘てたぶべき道のべの若菜かひなき春にも有哉(由之)
・ つきよめばすでにやよひになりぬれどぬべのわかなもつまずありけり(良寛)
・ 極楽の蓮の花のはなびらによそひて見ませあさで小ぶすま(由之)
・ 極楽の蓮のうてなを手にとりて我におくるは君が神通(良寛)
・ いざさらばはちすのうへにうちのらむよしや蛙と人ハいふとも(良寛)
[同年8月]
・ あまのくむしほのりざかをうちこえてけふのあつさをきますきみはも(良寛)
・ しほのりの坂のあつさも思ほへず 君をこひつつあさたちてきし(由之)
[同年11月=手紙で交流]
・ 雪ふれば道さへ消る塩ねりのみ坂造りし神しうらめし(由之)
・ しほのりの坂もうらめし此度は近きわたりをへだつとおもへば(良寛)
[同年12月25日過ぎ]
・ さす竹の君を思ふと海人のくむ汐ねり坂の雪ふみてきつ(由之)
・ 心なき物にもあるか白雪は君が来る日にふるべき物か(良寛)
(翌年正月初旬、由之が大雪をついてやってきた直後、良寛は亡くなった。そして今、二人は木村家のすぐ近くの浄土真宗・隆泉寺に墓を並べている)