カ・マ・スの頃              山本勣

 

 サラリーマンになる決心をしたのは、三十歳の時、約十二年前。それ迄の勝手気儘な生活では食えないと見切りをつけて東京に帰って来た。しかし、三十歳の男に就職の機会を与えてくれる程、世の中は「ベルーフ」化されていなっかった。なかなか職探しは大変だったことを覚えている。友人の下宿に転がり込み、一ヶ月、それでも漸く就職先を決めて田舎に報告したら、兄は「その会社に就職すべきかどうか」聞くために友人を訪れるように勧めてくれ、結果的には訪問先のそのソフトウェアハウスに就職することになった。辻さんや前田君やこの研究会の幾人かが属している、あるいはかつて属した会社である。

 勉強することが職業だった(もっとも今の学者は勉強しないとのことだが)から、新しい世界の勉強は苦痛ではなかった。割合、真面目に勉強したのではなかったかと思う。先輩や友人もよかった。ともかく、この世界で飯を食い始めているのだからありがたいと思う。

 就職する前の話である。京都の河原町通りを入ると、五人も入れば満席のスタンドがあった。少しばかり過激な東大出の女性歌手あたりも出入りしていたので週間誌に紹介されたことがあったかもしれない。リラ亭という。五人以上入る時は、後から来た人は椅子に座る人の背後に一列に立つ。それでも、まだ人が入る時は、先に入った人からカウンターの内側に並ぶ。三列になる。ウィスキーは何故かオーシャンだった。

 当時、銀閣寺の傍に居た私は、薄給が入れば、歩いてリラ亭まで出掛けた。

 或る日のこと、私より半回り程若いNという男が大声でドアを開けて入ってきた。インターハイのレスリングで準優勝の男だったから、棒切れを持って走らせたら頼もしいとの噂があった。もう、既に出来上がっていて赤い目をしていた。

 「おい、あんたら、貧乏人やから、本当に美味い洋酒を呑んだことないやろう」

 誰もが呆気にとられた。金のないことは、これは証明の要らない公理であり、金の無さに酒を呑んだ後は、リラ亭の周囲を走り回って酔いが回る工夫さえしていたのだから。

 「なあ、知っとるやろう。**先輩、婿養子に行っていい生活しとる。ワシ、**先輩の家で美味い洋酒、呑ませてもろうたんや」

 「バロー、なんで俺よばへんのや」バッハを弾いたら天下一品、河原町をストリーキングしたのは自分の物を誇示するためだと言われたKが叫んだ。それから「阿呆か、お前は」「いてもたろか」「ボケ」「カス」一斉に非難と羨望と嫉妬の五目焼飯の声が飛んだ。それでも、Nは貧乏人を嘲るような顔で、

 「美味ったなァ.。あれが本当の洋酒や」

 「くそ」とK。

 私が聞いた「なんちゅう洋酒や」

 Nは答えた「カ・マ・スや。知らんやろう」

 「聞いたことない酒やな・・・・」隣の男は遠くフランスでも夢見るような調子で言う。

 「カ・マ・スか、美味いんか」

 「そうや、美味い。ワシも初めて呑んだんや。美味かった。ものすごう美味かったわ。先ず、香りやな。味が柔らかいんゃ、蕩けるような円やかな味や。美味かった・・・・」

 「どこの酒や」

 「よう知らん。洋酒や、ヨーロッパやろう。緑色の瓶に入っておって、前に金色の字でカ・マ・スと書いてあんのや」

 マスターが小さい声で言った。

 「Nさん、それカミューと違いますのん」

 一瞬のしかし長い沈黙。そしてゆっくりと次第に強く、全員爆笑。余り笑って椅子からこけた奴まで出た。

 以来、その男の名を「カ・マ・ス」という。

 それにしても、絶望的に貧乏な生活をしていた時代であった。雑巾を石の上でこすってボロボロにしたような生活だった。しかし、誰もが身の丈に合わないような壮大な気宇に溢れており、皆が若かった。私もヘーゲルを越えるのは自分しかないと半分位は信じていた。皆が若く目はギラギラしており、体一杯に怒りが充ちていた。自分を含めた一切のものに憎念を持っているようだった。狂喜であった。

 一九八六年、夏、あれから十二年経った。カ・マ・スのNもKも二人の子供の親となった。私も二人の子供を持った。確かにこの時代は、物に満ち溢れ、全てが小綺麗でスマートに、スピーディになった。しかし喪したものも少なくはない。いづれ問われる時がくるのかもしれない。

(本稿は当研究会年報第二号[1986年12月刊]に投稿されたものを筆者の了解を得て再掲載したものです。編集部)

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