「株」        安藤 博

 

 株は、経済活動に関わる虚実の両面を典型的に表すものである。トヨタ自動車三七六〇円、ソニー一九二四〇円というように、各企業はそれぞれの株価で値打ちを決められる。ソフトバンクは六九五〇〇円。「ソニーの約三・六倍」といったように、業種をまたがる比較が可能かどうかはわからない。しかし、たとえば銀行業で成り立っている東京三菱一四八四円に対してさくら七三七円、大和三五九円といった株価の相対関係は、それぞれの業界内の優劣が端的に示されているといえよう。これは企業の実力差に見合う株価の「実」の側面である。

 他方で株取引は、ギャンブルと同じような虚の側面を色濃く備えている。持分に応じた企業経営に対する参画など、全く慮外。業績などともほとんど無関係に、売り買いの利ザヤのみを投機的に求めるのが、俗にいう「株」である。その揚げ句に巨額のモウケをまたたく間に稼ぎ出す成り金や、思惑が外れて夜逃げ、自殺に追い込まれる者も出る。

 犬がシッポを振るのでなく、シッポが犬を振り回すように、株価が経済全体を左右することにもなる。米国の「ハネムーン景気」(サミュエルソンMIT教授)は、米国証券市場の好況を背景とする個人消費の増勢に支えられている。だからこそ、日本のような株式市場のバブル暴走が、しきりに警戒されるのである。

 さらに、株価が上がることに照準を合わせて経営戦略が立てられることもある。「株式資本主義」の様相を強めつつある米国の企業には、そして日本でもソフトバンクのような新興企業には、こうした行き方が強く前面に出ている。株に関わる虚実を、経営そのものが写し出すことになる。

 公開時の一攫千金が、経営者の夢をかき立てる。米宅配最大手の「ユナイテッド・パーセル・サービス」(UPS)は、一九九九年一一月一〇日のニューヨーク証券取引所上場で、五四億七千万?(約五七〇〇億円)という史上最高の資金を調達した。同社はこの資金を電子商取引や配達部門強化などに投ずるという。日本の情報産業界にも、これほどの巨額ではないにせよ、公開利益で一段と飛躍していった先例はある。

 株を取り引きする市場どおしにも、競争が始まろうとしている。ソフトバンクがその火付け役で、、米国の新興企業が上場する店頭株式市場「ナスダック」の日本版を創設しようとしている。これに対抗して東京証券取引所がベンチャー企業向けに「マザーズ」という市場を開設した。この新設市場と従来からある新興企業向けの「店頭」とはどういう関係に立つのか、いささかまぎらわしい。競争のなせる業である。

 勤務先の「総合エンジニアリング」会社の株式も、この春公開される。いわゆる「店頭市場」である。野球でいえば、ファーム・リーグだが、企業としての勢いは店頭登録銘柄の多くが東証一部上場の大手、老舗を上回っている。いまなお減収・減益基調を続ける一部上場企業の大方と、対照的とさえいえる。日本経済の鳥瞰図を株式市場に求めようとするとき、ご本家の「東証一部」だけでは、時代の流れから遅れてしまうだろう。

 思えば我が勤務先企業の株式公開は、遅きに失した感もある。創業以来30有余年の歴史をたどれば、「新興ベンチャー」というには貫禄があり過ぎる。初めに手掛けた構造設計などの建設関連業務は別として、ソフトウェアの開発や販売の部門だけとっても、業界のパイオニアである。重ねた星霜を数えると、同業の“若手”の中では“おじさん”に見えるだろう。店頭市場に並ぶと、大学の教室にまじった社会人ぐらいのような姿となるかも知れない。そもそも、「株」の世界には遠いところで生きてきた。企業活動を広げてきた方向も手段も、「株」とは縁がなかったから、当然の「遅れ」ともいえよう。

 公開は、たとえば自宅の台所から寝室までを他人目に曝すことである。もちろん個人と同様に私企業にも「プライバシー」はある。往々にして企業幹部個人のプライバシーと企業組織としてのプライバシーが混同される。企業が個人の隠れ蓑にされることがある。逆に、「企業の透明性」をふりかざして個人やその家族の秘密が不当に暴かれることもある。

 正しい意味での「企業秘密」に限っていえば、個人と違って「自分の勝手」に閉じこもることには強い制約がある。たとえば航空会社なら、一度に数百人の生命の損失につながる事故と背中合わせのサービスを供給していることで。あるいは製薬会社であれば、人の命、健康に関する商品を世に出していることで。そもそも「プライバシー」がやたらに多い企業など、経営体質を市場に疑われかねまい。

 米国ファルマシア・アップジョン社開発の毛生え薬「リアップ」で大いに稼いだ大正製薬は、副作用に対する苦情が出て「説明」に苦労している。「動悸や胸の痛みなどを訴える利用者が相次いでいる」(『日本経済新聞』、一二月一四日)のに対して、疑われている成分の一つミノキジルは、開発元の臨床試験などからいって「循環器系の症状との関連性はない」といったことの説明に、上原社長以下大汗をかいているのである。この件など、株式を公開する以前の、「企業の社会的責任」一般に帰することだが、株の方は既に敏感に動いている。「リアップ」のおかげで八月末にはこの企業としての上場以来最高値三二〇〇円前後までアップしていた株価が、苦情やこれに対応した厚生省による「使用上の注意」喚起などで、三割方ダウンしたままリアップしない。

 公開によって求められるのは、受け身の透明性ではない。経営のすべてを社会に向けて説明する「説明責任」(アカウンタビリティ)が求めれられる。その説明はまた、外部からの印象からいって「渋々」「いやいや」であってはならない。自らの責任として積極的に、そして「少しでもわかり易く」の努力が目に見えるようなものでなければならない。ダンスパーティの「壁の花」のように遠慮して立っているだけなら、そもそも公開をする意味がない。

 たかが株、されど株。公開は「総会屋」の類もふくめて、好ましからざる様々な雑件を伴う。コストも大きい。それだけに、経営基盤を内輪のものから、赤の他人も含めて誰でも、いつでも参加してくる資本の市場に広げていくことの利点を十分に活かさねば割にあわない。内に恃むところが大きければ、外に向けて架けるブリッジも、より大きなものにしていくべきなのだろう。それが真の経済的価値の創造につながるかどうか、まだ定かではないが。 以上

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