辻と国友の面白い繋がり
辻 淳二
表題を見て「何の話か」が分かる方は少ないだろう。他愛ない話だが、辻は私の父方の姓、国友は母方の姓でかつ母が生まれ育った町名、この繋がりを巡る縁が今年いろいろあって面白かったので、そのことを書こうということである。
両親が育った町
先ず両親の出生地に触れると、父方は現・滋賀県神崎郡五個荘町で、江戸時代の後期に活躍した近江商人が大量輩出した三大地域として日野・近江八幡と並んで知られる所である。母方は、現・同県長浜市国友町で、日本史の「織田vs浅井」の決戦で知られる姉川が町の北側を流れ、この時期から江戸時代前半にかけて「鉄砲鍛冶の地」として知られた所である。どちらも、実家近くでは家々の囲いの外側を掘割のような小川が流れ、これがきれいな水で、五個荘の方では掘幅が広くてその中を大きな鯉がゆうゆうと泳ぐシーンもあって、忙しい都会人には「時代を100年近くもタイムスリップしたような癒しの世界」を感じさせてくれる土地柄である。これらと、全国にもユニークな「鉄砲鍛冶」や「近江商人屋敷」等の記念館/博物館とが呼び水になって、近年は観光客の訪問が多くなっていると聞いている。
これらの町と実家に、私は、たまたま両親が東京で暮らしていたため、東京生まれの東京育ちとなって、冠婚葬祭以外のお付き合いは殆どしていなかった。唯一、密着して過ごしたのは第2次大戦の終り頃、母方の実家に疎開して小学校の一年から三年の一学期までの3年近くを母の兄妹の数家族と暮らしたことで、この時の思い出が今はお互いを繋ぐ貴重な絆になっている。
眠りから覚めた郷里への関心
さて本題に入るが、この話の起点は、昨年亡くなった母がその年の1月下旬にリハビリ入院中の病院で再骨折し、「もう自分で歩ける所までの回復は難しい」感が強くなった後に、時に意識が生まれ育った国友や伊吹山に飛ぶことがあって、「いずれ、代りに自分が行って来よう」と心に決めていたことにある。結局、母はジリジリと気力・体力を減らして、7月に亡くなって、「代りの里帰り」も宙に浮いたままで今年に入った。それでも、何かいいキッカケをと気持ちは持ち続けた所で、2月にフト目に付いたのが朝日新聞紙上に出た「びわこ長浜ツーデーマーチ」の開催案内だった。見ると当日は5月の連休明けで、諸々の頃合いがいい。そこですぐに、「これに結び付けて行こう」と決めて、参加を申し込んだのだった。
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長浜市内の田園風景 |
当日が来て、新幹線&JRで彦根・長浜・五個荘を訪ねた話は別稿(6月号コンテンツ)に書いたのでここでは簡潔に通過しよう。母方の国友家への訪問は、昔上級生に引率されて通った小学校までが遠かった記憶なのが意外に近く、また姉川まで結構歩いた記憶なのがほんの50メートルくらいだったりで、まさに「小学校低学年のスケールで距離感を憶えているんだな」という新鮮な気付きをもたらしてくれて、面白かった。そして、久々の訪問をしたことで、この地に対する親しさや関心がグッと高まった。次の五個荘の辻家訪問では、同家の庭の造庭師「勝元宗益」とこれから偶発的に連想した全国区の造園師「小堀遠州(戦国から江戸に跨って生きた人)」との繋がりを追うキッカケとなる従兄との会話に恵まれた。かくして、辻と国友の繋がりで世に生を得た自分が「ただ当前の事実としか考えなかった家や土地との縁を興味を持って再認識した」この訪問が、この話の第一幕となった。 |
第二幕は、「遊び心がもたらしてくれた発見に、辻と国友が幾重にも関わっていた」という話である。上に書いた宗益と遠州の関係を追い始めてすぐわかったのが、一つは「遠州が、かっては今の国友町もその区画内にあった坂田郡の小堀村の出身」ということ。そしてもう一つは、従兄が調べてくれて分かった「宗益も長浜出身の人」ということ。かくして、「(生きた時代が200年も違う)両者の間に繋がりあるのでは?」とヒラメキで立てた私の仮説に、“ひょっとしたら”との光が見えて来た。これに励まされて資料探しに励もうとするが、東京からでは宗益の方の資料は何も出てこない。ところが世の中はうまくできていて、まさに「見捨てる神あれば、拾う神あり」、思わぬ所から一挙解決ということになったのだった。
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「長浜み〜な」遠州特集号 |
溯って99年の正月に、母の女学校の同級生でいまもお元気なHさんから年賀状を頂いて、松が明けてから「亡くなった」ことをお知らせする手紙を書いてから、数回の手紙の交流があった。その中で、郷里のタウン誌『長浜み〜な』を紹介して頂いて、年間購読者になっていた。そして、ちょうど宗益の情報に困っていた頃に送られて来た号で同誌のバックナンバーとして数年前に「遠州特集号」が出ていることを知って、早速取り寄せた。そして、届いたその晩、何編かの掲載文を読み漁る中であっけなく「両者の繋がり」が見えたのだった。 |
その繋がりとは、小堀流の茶道が江戸時代の半ばになってすたれ始めた時に中興した人が「国友出身の辻宗範」で、「宗益は本名は源吾で、宗範の茶道の弟子」ということだった。辻と国友の繋がりで言えば、「遠州に始まる小堀流茶道の中興者、国友出の辻(宗範)さんの茶道の弟子だった同じく国友出の宗益さんが、40キロくらいは離れている五個荘の辻家の庭を造った」ということである。今の小堀流の茶道の家元は12代か13代目の人だがやはり「宗」の字がついた名前だし、宗範にも宗益にも「宗」がついている所を見ると、宗益はお茶の方でも高弟で、その背景にある禅宗のこころでお庭を造っていたその一つが父方の庭と見られ、実家の庭に何かすごい箔がついたような感がしている。また、辻と国友の間にはこうしたいろんな縁があって、その一つとして父母の縁組みもあったんだと両家/両地への親しさを新たにしている。
国友と辻の縁ふたたび!
そして、秋になって第三幕が来た。上記の従兄から娘さんの結婚式の知らせが届いたのだ。招待状を見て、結婚へのお祝いの気持ちに続いて、「何て、世の中って面白いんだ」と感じて思わずニヤッとしてしまった。それが、良くも繋がったり!、「国友さんと辻さんの結婚」の知らせだったからである。勿論、新郎の国友さんと母の実家との繋がりはない。しかし、かっての両家の婚姻で生まれた私が還暦、つまり一回りした直後にもう一つの両家の縁組みが生まれるとは・・と、身近かさへの特別の感慨を持って式に参列することになった。
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新しい縁がスタート |
会場のホテルへ向かう直前に、時間が一時間ほどあったので南禅寺に行こうとしたら、直前の左側に小堀遠州作の庭がある「金地院」の門が見えた(ここにあるとは知らなかった!)のでスッとそこに入った。さらに運がいいことに、前もって申し込みをしておかないと入れない遠州好みの茶室を予約者に紛れ込ませて貰って、見ることができた。そこには、お茶室に加え、客人と面談する書院もあって、各部屋の水墨画の襖絵が見事なものだった。長谷川等伯の「老松・猿猴捉月図」が特に有名なのだが、この日の私にとっては海北友松の「大きな烏が群になって敵を襲撃している、勇壮な絵」の方が価値があった。これが、中国では「縁起のいい」ことを表していると聞いたからである。この縁起を従兄家の結婚式に持ち込めば、幸せに弾みがつくと思ったからである。 |
生まれる前から決まっていて受容するしかない「父母の実家の姓にまつわる繋がり」にも、思いがけぬドラマがあることを感じ、かつ楽しんだ1999年だった。実家やその土地との繋がりとなると、親に任せてついおろそかにしがちだった。ところが私が今度学んだことは、この縁からも「自分が好奇心さえ持っていれば、感動する出会いはいくらもある」ということのようなのだ。還暦になって学んだのでは遅すぎるのか、あるいは還暦になったから(少し肩の力が抜けて)学べたのかはわからないが、「どうせ繋がっているなら、その縁を受容してプラスに活かすようにしよう」と素直に思っている昨今である。[99.12.19]