「我が家の建て直しプロジェクト」進行中 辻 淳二
昨年、我が家では今の家を建て直すのを年初からのテーマとして来た。あまり力はないが所帯主ではある小生の思いとしては、「翌年の正月は新らしい家で」という目論見だった。ところが、我が家にとって一生に数回あるかという程の重たいテーマ、とてもそうスンナリとは行かず、今ようやく設計案が固まって「この正月から近くで一時仮住まい」ということになった。ただ、その間に遅々とした進行にイライラしていた訳でもなく、どう流れができ、どう節目を抜いて行くかを結構楽しみながら進めて来たという感じで、「ここまでは良しとしよう」との心境である。そこで、まだプロジェクトとしては中途ではあるが、ここまでの節々をレポートしよう。
年初に建て替えを宣言
建ててから15年を過ぎた辺りから、やれ外壁だ、屋根だ、窓の開き扉だ、電気温水器だと次々に老化の症状が出始め、「問題発生の度の部分修復で行く」か、「思い切って転居あるいは建て直す」かの決断が必要になっていた。早い時期になら「今の家を活かして、不具合や家族構成の変化に対応した中規模のリフォーム」という選択肢もあり得たが、方針が定まらない中でメンテナンスにお金を掛けることもと後送りに動いている内に、「部分修復」あるいは「中規模のリフォーム」では抜本解決にならないとの感が強くなって来た。
そこで一昨年から、今の住環境を気に入っていながら最寄駅との間には急坂の往復が必要で歳を取った時に心配ということもあって、「やや都心寄りへの転居」も選択肢に入れてこれはと思う物件があれば抽選に参加する等のトライをしてきた。ところが、その過程で売る場合に備えて見積もって貰うと、十年くらい前には買値の二倍くらいで売れると言われた時期もあったのに、今のご時勢ではせいぜい買値程度にしか売れないことが分かってきて、「やや都心寄りに希望に叶う物件を」という可能性が極めて薄いことが見えて来た。そこで、昨年の初めには「結局、今の家を建て直すのがベスト。これしかないな」という所に私の気持ちは定まっていた。
そこで、年初に「今年はやるぞ」と宣言し、「必要な資金の調達の方策」も明言して、一家の“船頭”としてはっきりと舵を切ったのだった。ところが、我が家でのこのプロジェクトの実質キーパーソンは、言うまでもなく我が家人である。今の家を作る時も、家の仕様の細部に渡って工務店と詰めたのは家人だったし、一方の私は家というものに「こういう家を」との格別の願望は持っていない人間ということで、その私が舵を切っただけでは何も動き出さない。実際、家人は、前の時に結構思いを実現したのだから「それをもう一回楽しめばいいのに」との私の思いにスンナリ乗る気持ちはなく、「今度は、あなたがやりなさい」とか言ってなかなか動こうとしない。そこで、取り敢えず、私が考える「新しい家に求める仕様」を一枚のメモにしてリビングの連絡ボードに貼っておくことから始めた。ところがそれは、家に特別な夢を持たず、むしろ懐に制約のある私が書き上げたものだから、家人に見栄えのする案ではない。それでも、「この案で気に入らないなら、代案を」と問い掛けては、少しずつ彼女の夢らしきものを聴き取り、“目玉”をはっきりさせるように努めていたのが春先までの光景だった。
この時期に思い当たったのは、こういうちょっと重たい案件に向かった時に、女性の方が「楽しむ」という気持ちになる前に「案件が持つ危なっかしさやリスクを気にする」のかなということだった。もう十年くらい前に、我が住宅地の自治会の輪番制の役員をしていた時に、行き掛かりで「学校祭の自治会版」というイメージの秋祭りの実行委員長になってしまったことがあった。それは、約4ケ月の準備期間があったのに最初の3ケ月近くは責任者の私が「やります」と言っているだけで、私をこの件で支える二人の奥様理事さんを含めて「大変だからやめた方がいい」とのスタンスで、流れを作るのに苦労をしたのだが、結局は残り一ケ月にこの二人を軸にそれを後押しした奥様パワーが見事な動きを見せて“大成功”で終わったのだった。
当時、我が家人もそのパワーの一翼を担って活躍したのだが、今回の彼女の初動の動きはあの時の奥様理事さんの動きと妙に重なるなあと私には見えた。多分、当人に聞いたら「責任者のあなたが頼りなく見えるからよ」と言う返事が返ってくるだろう。それを敷衍すると、「あの時、奥様理事さん達は私が頼りなく見えて動こうとしなかった」ことになる。もしかして、そうだったのかも・・。そんな、昔の体験を懐かしく思い出しながら、「まあ、ジワジワでも進むしかない」と楽観的に構えている内に、もう春も半ばを過ぎていた。
“外断熱”工法に魅かれる
一方私はと言えば、我が家にやる気の灯を燃やし続けるために、「当方の予算でどのくらいの家ができるのか」の見当をつける必要と絡めて、今の家の間取り図と上記の「新しい家の仕様」とを持って、沿線の住宅展示場に足を運び始めた。南向きに3部屋取っている今の間取りが小さな敷地では大きくは変りようがないとの判断があって、「仮にこの間取りで、この機能/性能仕様のものを御社の商品系列で実現するとしたら」ということで見積もりの概算値を得ようとしたのである。あまり一社に深く踏み込まないように意識しつつ展示住宅を見て回り、結局大手メーカーで二社、新興メーカーで一社に概算値の提示を要請した。この新興メーカーは「あまり自社の商品系列ガチガチでなく顧客の注文に柔軟そうで、かつ“外断熱”という日本の住宅がなかなか克服できなかった工法に自信を持っている」感じなのに魅かれて、また大手メーカーの方も一社はその工法を最近積極セールスし始めた所を選んだのだった。この過程で、家人が朝日新聞の『天声人語』に以前に載った“外断熱”工法の推進者の記事を思い出し、その人の設計事務所が作った家を見学させて貰ったりして、家人も本プロジェクトの当事者側に足を踏み入れるという流れがうまくできたのが、6月半ば頃だったろう。
次の難関は、メーカーの選定だった。上の大手メーカーの一社は、外断熱工法への注力姿勢がまだ薄く、しかも価格ランクも高いということで、ここは屈託なく外した。その一方で、上の推進者グループの中堅メーカーが一社加わって、“外断熱”工法の三社からどこを選択するかが目の前の課題になってきた。そこで、各社ともに実績となっている“外断熱”工法の住宅を見せて貰い、「仕様」をこれまでよりは精緻にして再見積もりして貰ったり、担当者と話し合いを重ねる等をしながら、絞り込みに努めた。そして結局は、三社の内、価格も妥当で、私が最初にモデルハウスを訪ねた時に在室して応対してくれた社長がその後の諸機会にも必ず同席/同行してくれて、それに“組織全体が当方の目線に合わせて対応してくれる”との手応えを感じたのを加点して、最もベンチャー色が強い新興メーカーを選んだ。
もともと家には拘りがない上に、資金の調達、仕様の目玉、メーカーの選定は主導的にやったことに満足して、夏頃の私は、発注メーカーが提示してくれた標準工程に沿って「この後は、家人が主役で具体設計をうまく進めてくれれば」という気分になっていた。ところが、そこからまた“牛歩の歩み”となってしまった。先ず、同メーカーの社長が家人の描いたファンタジック水彩画を気に入ってくれたのがキッカケで、8月にモデルハウスの室内壁面を利用して家人が指導しているグループの展示会をやることになった。それで、その準備やら来客への応対やらに時間を取られ、間取りの詳細やキッチンや洗面所などの設備仕様の打ち合わせがストンと後送りになってしまった。「もう、やるしかない状況になっているのだから」と以前なら急かしただろうが、最近は随分気が長くなって、「まあ、彼女が気分よくやれるように」と私もぺースを合わせた。その間に、次の段階のメドをつけておこうと、来るべき一時引越に備えて20年間にジワジワと溜まってしまった家財/雑品の仕分けと処分を始めた。先ず、自分の部屋から、次に長女が結婚した後家族が共用している部屋へと進んで、自分の裁量で処理できるものを片付けていった。今までと違って、今後の人生でまず使わないと思うものは残さない方針で仕分けを進めて行くとかなり身軽になって、自分の守備範囲は「明日引越しと言われてもさっと捌ける」と見通せる所まで来た。次に、家屋の裏側に増設した「物置き」の片付けに取り掛かった。ここは、長く置きっ放しのものが多いから、大部分を廃棄にしてサッパリとさせた。整理して数日は場所が塞がっているが、これを一般ゴミや資源ゴミの回収日に処分すると、次に取り掛かろうという気分になる。全体の工程が遅れ気味なのも、家財整理を気持ちを込めながらやって行くにはいいなと感じつつ、折を見て外で暮らしている長女や息子にも整理に来て貰って、少しずつ進めていった。
そのように一つ一つやってはいるが、その他にも納戸やら階段下の物入れやら玄関脇のロッカーやらと際限なくあって、自分の責任で捌けるものが少ない所は殆ど片付かない。そこで身に沁みて感じたのは、主のはずの私が家の中に占める重みの何と軽いことかということ。殆どのスペースが私の裁量できる範囲は立ち所に片付いてしまって、他の大部分は家人の裁量に委ねるという感じなのである。何のことはない、新らしい住宅の仕様の詰めと同じく、引越し準備の方も、私がやっていることは家族が動き出すのを促す“呼び水”に過ぎないのだった。
仕様確定を追い込む
9月になって、家人の時間にゆとりができたのを機に、最終仕様を決める作業に取り掛かった。決め手にはならないが、その“触媒”的支援になれればとの気持ちで、住宅機器メーカーの展示場や新築住宅の売り出し現場にも結構一緒に足を運んだ。すると、やはりいろんなことが勉強になる。キッチン、バス、洗面機器、それぞれにそれこそピンからキリまでいろんな種類がある(当方は残念ながら、その中の下の方のランクから選ぶのだが)。一回行っただけでは、こちらに見方ができていないため、時間ばかり掛かって確かな収穫がない。少し慣れて「今の案では、・・メーカーの・・という商品。これに大きさや主な仕様、金額レベルが該当する御社の商品が見たい」等と言えるようになると、適切なサポートが得られるようになる。
10月になると、間取り等は二転三転しながらほぼ固まり、中の設備を決める段階になって、キッチンと風呂場で家人のイメージに合う実物に行き着くのにしばしの日数がかかった。例えば、風呂場の浴槽が、見当を付けて見に行ったメーカーのが今のより小さくて「求めているのはこれじゃない」と立ち止まるというようなことだった。この辺で家人は、この新興メーカーの室内設備に関する専門知識の不足やインテリアデザイナーがいないことに物足りなさを感じたようだった。そして、自分でアンテナを張ってメディア等で「これは」と思う情報を見つけてはメーカーとの打ち合わせでそれを話題にして、突破口を開くように動いた。そして、懸案だった浴槽については、彼女が探してきた某社の“出窓を使って浴槽を広くしているバス”が発注メーカーにあったカタログで品名の特定ができ、神宮前のショールームに私も同行して見に行って、11月初めにようやく落着に漕ぎ着けた。
かくして、11月の半ばに市への建築確認申請が出せる状況になり、また私の出番となった。それは、間取りや設備を決める過程で我が家に合ったものを選ぶ中で予算額がジリジリと上がっているのに「総枠規制」をかけて許容範囲内に抑え込むためと、室内だけでなく全体のバランスをチエックするためだった。前者については、それを10月の終り頃から打ち合わせの席で話題にし、メーカー側にも予算枠を頭に入れた設計案を考えて貰うようにした。我が方も、キッチンの食器戸棚を現在使用中のもので我慢するように、家人と話し合った。また後者については、北側のお宅の家屋と当方のそれとの距離を少し広げるよう我が家を南側に寄せる等の仕様の微調整を行なった。
新春に工事着工を決定
11月末には確認申請も通って、「新年の1月中旬に解体工事開始、6月末に入居」と決めた。次は、一時引越しのためのマンション探しだった。1ケ月ほど前に最寄り駅周辺の物件を下見して、「仮住まいならこれで十分」と感じるのが借りられるとの見当はつけていたが、12月中旬に再度見に行ってその場で本命と思っていた物件に決めた。ほぼ同時に、一時引越しの業者も決めた。これで、荷物を詰めるダンボールが貰え、家財の整理が進むことになった。
かくして、「後はやるしかない」となった筈のある日、家人が義妹と電話で話しているのを小耳に挟んで愕然とした。ここで家の建て直しにお金を掛けてしまっていいのかを心配しているのだった。私としては、年初に「資金はこういう考えで行くから」と話していたのに、今ごろ何を言っているのかという感じだった。腹立たしいのを抑えて聞いて見ると、「前に残高がマイナスになっていた貯金通帳を見ているから心配だ」と言う。確かに、私のメインの通帳がかなりの期間に渡って「いつ見ても赤字」のことがあり、その時期に彼女が何かの拍子にそれを見て議論になったことはあった。ただ、前と言っても、私が独立して活動を始めたばかりの遥か昔のことで、それがトラウマのように彼女の脳裏に残っていたとは!。そこで仕方なく、しまってあった預金通帳や証券会社の月次報告等を取り出して、持っているお金のリストを作って見せた。これで一応納得となったのだが、彼女が時に私を困らせる「 ・・さんは、退職金・・千万円ですって」とか「新聞に老後の資金は・・千万円必要と書いてあったわよ」という“世間常識”から見ると、自分は随分楽観的に考えているなというのはあらためてよく分かった。家人には「私の保有分で2人が80歳までは行ける」という計算を見せたのだが、それは「あと5年、週3日ペースながら今の資産を減らさない程度にはちゃんと働く」「多額の費用が掛かる病気はしない」ことを大前提にした話だったからである。話しながらそれに気付いて、「病気にならないように、健康気功教室に行ってるんだ」と言葉を添えて、「まさしくその通りにしないといけないな」と再認識させられることになった。
分母一定、これから分子最大化をめざす
我が家の年の暮れは、年末の大掃除の代りに「引越し荷物作り」に精を出す日々となった。そして今は、「もうハード(入れ物)の投資額は決めた(つまり、分母は一定)のだから、後は分子を最大にするしかない。それは、新しい家でより健康に、快適に、ワクワクを多く感じながら暮らすソフト(つまり、活かし方)面に目を向けること」と腹をくくって、スッキリとした気持ちで新年を迎えている。[2000.12.30]