「当ホームページのこれまで」の舞台裏       辻 淳二


 先日、地方に住む友人から「久しぶりに研究会のホ−ムページ(HP)を覗いたら、すごく内容が充実しているんですね。驚きました。継続する力の差を痛感します」とメールを頂いた。ちょっと気を良くして振り返ると、他にも、ここに来てコンテンツ投稿がヤキモキしなくてもそこそこ集まる、アクセスも今春辺りと比べて1.5〜2倍と確実に増えている等、「どうやらミニメディアとして育ちそうだな」との感触は強くなっている。「育った」と言える証は「総アクセス数が一万を超える」ことに置いているので、まだ道は半ば手前(10月末でようやく3,800超)、“もう2年くらい先の、気の長い話”なのだが。ただ、中締め、つまり、これまで舞台裏を支えて下さった方々に謝意をお伝えするには“いい頃合い”と思うので、この稿を書くことにした。なお、コンテンツの寄稿者の皆さんに支えて頂いているのは言うまでもなく、それを忘れているわけではないが、この稿は「裏方」の話と言うことでお許し頂きたい。

 当会HPが思いのほか順調にここまで来れた一番の貢献者は、このホームページの枠組みを作り、最初の8号まで毎月HPにアップする実ワークをやってくれた河野慶子さんだ。「HPを作ろう」と思い立って、「およそ、こんな誌面構成のイメージで」とその時に頭にあったラフスケッチを伝えて、編集ソフトの選択を含めて彼女に頼った。しばらくして、ソフトはHomepage Pro を購入することに決め、それをテストする傍ら、表紙を試作して貰った。それは私が最初に話したラフスケッチを形にしたものだったのだが、結構うまく収まっていて、「まっ、いいか」という感じで原案をそのまま採用した。それが、今もHP表紙左側に載っている目次部分を決めたいきさつだった。このように彼女はとても察しが良く、手際良く形にしてくれるので、滞りなく物事が前に進んだ。かくして、立上げの頃の各欄の体裁や写真などのレイアウト等もすべて彼女任せ、従って、今もその時の枠組みを“三つ子の魂”としていて、その後は図体というか、コンテンツの数がひたすら増加しているだけというのが実感である。

 8号まで進んだところで、慶子さんがご主人の二郎さんと「健康気功教室」を立ち上げられることになって、編集ワークを離れることになった。これが、当HPにとっての“第一のピンチ”だった。他に策がないので、彼女の編集ワークのノウハウを私が引き継ぐことにして、99年11月の週末に彼女の自宅に置いていた編集用のデスクトップ機を車で我が家に移した。このパソコン(PC)は、4年くらい前に秋葉原のベンチャーPC会社の製品を4台くらい買い入れた中の“一番の虚弱児”で、最初から慶子さんを悩ませていたのがそれでも何とか持ち堪えて、他の機が次々と“廃棄”の道を辿る中で最後までけなげに働くことになった奴だった。さすがに、車の揺れで動かなくなるかも・・というくらい“老化”はしていて、持ち帰って通電するまではヒヤヒヤだった。幸いそこはパスすると、次の関門は“編集ワークの引継ぎ”だった。これは、次の99年12月号の編集ワークでやることにして、コンテンツがほぼ揃った月末に近い日に一日我が家までおいで願って、実地指導して貰った。その時に書いて貰ったA4版3ページほどの「編集ワーク」手順は、その後ずっと私のアンチョコとして重宝することになった(慣れるにつれ、いつしか見ないようにはなったが)。確か、慶子さんに来て貰った日は、実ワークは私がやってサーバーにアップロードしようとしたが繋がらずに終わって、「これで一人立ちしてやれるのか」と不安になるひとときがあったのだが、その夜の内にサーバー側が止まっていたことが分かって、この関門も無事に通過することができた。

 次なる貢献者は、サーバー運用を安い費用で引き受けてくれた米谷共比古さんだ。いくら慶子さんがいてくれてもサーバーまではできないから、「この二人が“両輪”で、当HPは存続できている」といって良いだろう。心強いのは、ネットワーク活用の実戦型のプロだから、何を聞いてもたちどころに助言が得られ、速やかに解決ができること。その点では慶子さんもコーチの仕方はとても上手で、時にパソコンがうまく動作しない時に“SOSコール”をすると、自分のパソコンで同じ画面を出して懇切に教えてくれた。また、こういう時に、パソコンをサーバーに繋いで操作しながら電話で慶子さんのコーチを受けるのに我が家のISDN回線が力を発揮し、その便利さを素直に実感できたのを印象深く記憶している。

 当HPにとっての“次なるピンチ”は、上記の一年後に来た。時に危なっかしげながらHP編集専用機としては安定して動いていた件のPCがついに“死んでしまった”のだ。その引き金は、たまたま私が会社で使っているPCが故障し、2週間ほど修理期間がかかる間のショートリリーフ用にこのPCを一旦会社に移して、HPの編集以外のいろんなソフトで使ったことにあったようだ。次第にちょっとしたことでハングするようになり、その間隔が短くなって、まさに“死線をさ迷いながら”何とかリリーフ役を果たし、とにかく我が家まで帰り着いたのだったが、次の号の編集に掛かった所で“ついに大往生”となってしまったのだった。このように、パソコンの死を見取ったというか、無理をさせて死を早めてしまったなとの思いも合せて、人の死に近いような感じ方をしたのはこれが初めてだった。

 その日はもう月末直前、「残念だけど、次の号は月初の刊行はあきらめて編集用のPCを新規購入して一週間後くらいに再起」と腹を括って、“頼みの綱”の米谷さんにその線で相談をした。つい手を抜いて、編集したコンテンツのコピーを別のメディアにバックアップすることをしていなかった。「でも、サーバーの米谷さんの方にはある筈」と気持を落ち着けて電話をすると、「CDに落として、送るから」との返事で先ず一安心。そこで、いろいろと助言を受ける中で、フト、別に自宅で使っているノートPCで編集できないかと思いついて、その確認に向った。すると、幸運にも、Windows95 版のPCなのだが、死んでしまったPCも95ベースで編集ソフトのHomepage Pro がのること、ディスク・スペースも余裕があることが分かった。こういう反応は、慌てている時はできない。それが、米谷さんや慶子さんと善後策の相談の電話をした時に冷静に応対して貰うとできるようになる。いま思うと、この時がそのいい例だったような気がする。かくして、急遽秋葉原にPCを買いに走ることは必要がなくなって、「取り敢えず、新しいコンテンツだけを月末にアップして、投稿者に対する“月初発刊”の約束は守る」暫定策(フル刊行は、全コンテンツをコピーしたCDが届いてからにして)に動くことにした。それからは、初めての体験になるワークもあって“緊張の一日”だったが、例えば「サーバーから先月までにアップした特定のコンテンツをダウンロードして、それを修正してアップし直す」等の実体験もできて、また慶子さんが仕掛けを作ってくれて私は理屈が分からないまま使っていた仕掛けの意味を知ったりの勉強もできて、“結果オーライ”の危機脱出となった。

 その次は高嶋宏尚さんで、今年初めから私とダブル編集長となり「特集企画の号」を担当してくれるようになったこと。この号は編集企画の一切をお任せでき、しかもその企画にはかなりの数の投稿が得られるという“いいとこずくめ”で、ひたすら感謝している。これまでに今年の1月、4月、9月号と3回やってきて、最近になって投稿もアクセスも増えてきている“触媒作用”を高嶋さんの特集企画が果してくれているのは間違いないと感じている。

 もう一人、HPの写真掲載欄の「路上観察・写真館」の館長役を預かって貰っている石井真司さんを忘れることができない。HPの編集をしていて結構気配りを欠かせないのが各号の表紙の写真で、これが月末に近くなっても誰からも来ない時は何かで埋めなくてはならない。大体は、月央にどこかへの出ついでに“埋め草用の写真”を撮っておくようにはするのだが、この手を余り使いたくはない。そこで、それを避けたい時は石井さんに“真打ち登板コール”をする。そうすると、彼はほぼ“二つ返事”で引き受けてくれる。

 このようにいろんな方々の援助があって、当HPはここまで来た。皆さんに感謝し、これからも、「どう支えられ、どんなドラマがあって育っていくのか」を楽しみ続けたいと願っている昨今である。[2001.10.27]

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