65歳のドイツ短期留学記           石塚 信秀


 サラリーマンをやめて、「さて何をするか?」と改めて考える人も多かろう。漠然としたいことを考えていたとしても、いざ着手となると「思い切り!」が必要である。私の場合、今回の留学は「思い切り!」の一つであった。

 ある時、雑誌でドイツ短期留学生募集の記事を目にしたのが発端である。国籍、職業、年齢を問わずの緩い条件であった。奨学金30万円(要返済)、留学期間は自由選択制、留学先の大学も適宜選択可、選考試験ありというものであった。

 まあ、時間のある身である。電話で語学力のレベルを問い合わせてみたら、「自分で一切の手続きをドイツ語で出来ること、一人でドイツの街を歩けること」と説明があった。「試験成績は合否に関係なく、要求があれば教えます」の言葉が私には魅力であった。自分の語学レベルを何らかの客観的な尺度で確認してみたいと思ったからである。

 私のドイツ語力は40年以上前にちょっと習った程度、在職中には数度、出張でドイツへ行ったことがあり、その面白さから少しの独学はし、休暇をとって家族をつれて旅行したことはあるという程度。まあ、無手勝流の域を出ない。

 予想に反して、選考結果は合格であった。

 意外な結果に、暫く本当に留学するべきかどうか迷った。手続きまでの期間は2ヶ月ほど余裕があったので、ゆっくりと考えてみる時間はあった。短期”とは言ってもひと月以上のドイツ滞在ともなれば、考えねばならぬことはいろいろある。「果たして学力はついていけるか?」の迷いは当然ながらあった。往復の飛行機も授業中も、煙草は吸えない。禁煙に踏みきるかどうかも一大決心。一番気になることは、94歳の親の世話である。日々世話をしているわけではないが、救急車での入院はしばしばの状態である。そして、そもそも、このような奨学資金は学生や若者への特典である筈である。65歳の高齢者が若い人の希望の芽を横取りしてしまってよいものかと逡巡もした。でも、こちらも元気で好き勝手ができる時間はそう多くはない。思案の末、家族の許諾を受けて思い切った。

 私はインターネットで留学手続きを進めた。留学先は、行ったことがない旧東ドイツの地、由緒ある地、適度の大都市、生活環境などを考慮に入れて、Technische Universitat Dresden(ドレスデン工科大学)を選んだ。

 生来、向学の志が希薄な私である。何を判断するにも、「遊びと自分だけの快適性」を優先して計画を作っていった。休日の観光の便利さはどうかと言ったたぐいである。今から考えてみると、ドレスデンとその周辺の地理や歴史・芸術を事前調査したのは思わぬ身に付いた勉強になったと思っている。

 1 威厳あるドレスデンの街と生活環境

ドレスデンという街は、その昔は「エルベ河畔のフイレンツエ」とか「小パリ」といわれたと言う。18世紀にはその黄金期を迎えたという美しい街は第二次世界大戦で空襲により一夜にして廃墟と化し、35千人の人命が奪われたというから悲惨である。私の年代は日本が空襲を受けた記憶もまだとどめているので、どうしても当時の日本を思い出してしまう。

戦後60年近く経った今、ドレスデンの中心部ではザクセンのシンボル的な有名な教会(フラウエン教会)の復元工事が、市政?を敷いて800年を記念して2006年の完工に向けて進められている。工事現場には、崩壊した後に収集された石の基礎部、煉瓦の破片などが丁寧に保管されている。完工時には全体の1/3を元の部材を埋め込んで蘇生させるというから、市民の執念というほかない。

しかし、すでに復元を終えた歴史的建造物も多く、当時のバロック建築を見ることもできる。決して大都会ではないが、その中に世界的に名高いゼンパー・オペラ座、美術館、博物館が立っている。どれも、ザクセン王の遺産とも言っていいだろう。メンデルスゾーン、ウエーバーなどのドイツを代表する作曲家、ラフアエロなど絵画の巨匠を今に生かす街の姿勢は、どの角度からみても威厳を感じる。

大学は、街の丘陵地帯に家庭的な雰囲気をもって立っている。ドレスデンの人口が50万人というのにこの大学の学生数は25,000人というから、大学の街とも言えるだろう。大学の敷地に塀とか囲いはなく、大学の中をガラ空きの市電やバスがどんどん走っている。何となく締まりがないような気がしないでもないが、これが気持ちを楽にさせるのに役立っている。

ドレスデン工科大学は、1820年の創立の大学というから、日本では見られない歴史である。私の滞在した学生寮は、大学の敷地内にある17階建てのマンション。定員二人の部屋に一人住まいは誠に快適であった。12階の私の部屋からは、数km先までは十分視界がとどく。高層の建物があるではなく、緑一杯のなかに赤屋根・白壁の住宅が広がっている。そんな中に、程よい間隔でカソリック教会の尖塔やニコライ教会の丸屋根が静かに建っている。人の心をゆったりさせるに十分な景色であった。私はすぐさま双眼鏡を買い、遠望を楽しんでいた。授業のある教室までは10分程度の散歩道。途中、朝食もとれる大学食堂の前を通り抜ける。多くの学生は朝からアウトドア・カフテリアで楽しげに歓談している。いつも、顔見知りの誰かが居て、通りすがりの私とは「モルゲン!」(お早う!)の挨拶である。

 2 授業

 (1) カリキュラム

 留学生は総員で134名、韓国、ロシア、スペインの国からの学生が多かった。コースは専門コース(文学、歴史、科学技術)と一般語学コースに別れるが、どちらのコースを選ぶかは予め願書で指定するのである。私は肩苦しいコースは避けて、一般語学コースを希望した。一般語学コースを希望していたのは約100人、9割方が30歳未満の学生と思われたが、中にはアメリカから来たという71歳の年輩者も居て、私をほっとさせた。この中で、試験での学力別に1215人ずつのクラス分けが行われた。私は、7クラス中3番目の上位クラスに組み込まれた。予想外の上位クラスに入ったものである。他の国からは私よりもっと初心者が多数、大胆に参加しているんだなあと感じた。

クラスレベルにより教育内容は若干違うのであろう。教育の内容は発音、文法、読解力、対話力が組み合わされていた。授業は9時〜12時半で、途中で1回休憩がある。午後は、自由参加の催し物があった。特別講演、リンガーホンによるリスニング実習、対話討論などのほか歴史的建造物訪問、映画鑑賞、遠足、小旅行、マウンテンバイキング、そして夜は歓迎パーテイ、懇親パーテイ、ワイン試飲会、家庭訪問、デイスコなど、なかなか趣向をこらしていた。

2)授業風景

 NHKテレビのドイツ語講座から抜け出してきたような50歳過ぎの女性の先生が担任だ。適度なおしゃれを忘れず、先生としてのプライドも高そうである。学生の私語が過ぎると、キッとにらんで授業を中断する。私は、少々おっかない先生かと思っていたが、南欧の国の学生などは、それならば教室には出ませんということなのか、自由に遅刻、おサボリである。もともと私は、自分が一番、不真面目学生になるなあと思っていたが、コースの終わり頃には模範生に変身しているのを感じた。

しかし、学力の方はどうかというと、予想通り、最初はさっぱり先生の言うことが理解できなかった。教科書を先生が朗読して、生徒に一人ずつ質問を投げかける。文章の内容についての質問、文体を換えて文章を作れという指示、同じ箇所を朗読せよという指示、文章の内容について「貴方の国ではどうなのか?」と個別の質問を投げかけてくる。

「聞き取り能力」が弱い私は困った。しばしば狼狽し、アメリカから来た語学学校の先生という青年に「オイ! 英語に訳してくれ!」とひと目も憚らず英語で翻訳を頼んだ。しかし、こちらは英語も得意という訳でもない。彼が訳してくれたその英語が分からないで、結局ピントはずれの返答をすることもしばしば、パスして貰うこともしばしばであった。失敗しても旅の恥はかき捨ての積もりでいたから、そのたびに愉快さも味わっていた。私への質問に対しては、周囲の学生が何かと応援してくれたのは有り難かった。欧米からきた学生の「聞き取り能力」とは、格段の差があるのを感じた。若い学生達には、私が「老いぼれ学生」と映っていたことは間違いない。

それでも、私にも得意分野はできた。一つは単語の発音である。先生は、なかなか発音にも手厳しい。ことあるごとに、一つの単語を一人ずつ言わせ正している。なかなかOKを出さない。その都度、首を傾げるので、学生もお手上げの状態である。私の番になった。「Stadt」(都市)の発音を求められた時である。訂正されてもともと、勢いをつけて「シュタット!」である。先生の反応は「シェーン!」(よくできた!)の評価である。先生がいうには、東洋人の顎の骨格はドイツ語の発音に適しているのだという。私同様、「聞き取り能力」に自信を喪失しかかっていた韓国からの学生も元気が湧いてきたようだった。

そして、コースの後半には、文法の小試験がしばしば行われた。30分程の制限時間がくると、先生が答案用紙を回収し、先生はランダムにもう一度、学生達に返却する。採点は別の学生にやらせるのである。正解は先生が言うのであるが、間違いやすい問題は学生に順番に答えさせていくのである。学生が正解を出せないと、次の学生が答えることになる。私のところにも、こうした正解を持ち越されてきた問題が何度も廻ってきた。私は不思議に、こういう時は正解を連発した。先生は、まさかの私が正解を出すと「ヴンダーバー!」(お見事!)と私を応援するように力をこめて言ってくれた。 少しずつ、ほかの学生達も、この老いぼれ学生を評価するように変わってきていた。

意外なことに、ヨーロッパ諸国の学生はあれほど「聞き取り能力」に優れるのに、文法はかなりいい加減であることが分かってきた。コース全体を通して、私は堂々、中位の成績くらいだったと思っている。もともと、密かに、サボって観光旅行もどんどん楽しもうと思っていたのが、結果的には一日国境を越えてチェコへの日帰りのバス旅行のために事前了解を得て休んだだけであった。この時も、チェコのお菓子を土産に買って帰って、先生やクラスメートで分けたこともみんなの心証をよくしたようだった。先生の説明には耳を傾けた振りをし、先生が配布する教材には他の学生が無愛想に受け取るところを私は「有り難う」の一言を欠かさなかった。日本人の礼儀正しさを意識的に演技していたのである。

コースも後半になるにつれて、大抵の学生は気まぐれに授業をサボる。大学には来ても、オープン・カフテリアで歓談している者も多い。私はしばしば彼らに対して、「私のようにもっと真面目にやれ!」とお説教をした。本気で叱っているわけではない。彼らの大らかさが楽しく、会話を楽しみたかったのである。そんな時、彼らも、お腹が痛かったの、頭が痛かったのとジェスチャたっぷりに私をからかってきていた

 (3) 親睦会など

 開講早々に、ドレスデンの市庁舎で歓迎会。市長、大学の学長らも挨拶に立つ歓迎ぶり。国際色も華やかであった。その他、エルベ川の畔でのソーセージのバーベキューパーテイなどなど。   各国の言葉が入り乱れての会話も楽しい。とくに韓国、ロシア、スペインなど、集団で来ている留学生達は仲間の間では当然のように自国語で会話をしている。私はそんな中に割り込んで、ここはドイツなんだからドイツ語で喋りなさいと、からかい半分の勧告をして廻った。「聞き取り能力」は弱い私だが、言う事はがむしゃらに喋り廻った。

授業を離れても、私は、学生寮の隣部屋の留学生(ウクライナの語学学校でドイツ語の教師をしている人達)等を私の部屋に呼び込んでしばしば小パーテイをやった。彼らのひと月の給料は約9000円だという。国費留学してきているらしい。

  小パーテイの準備は、まず近所のスーパーマーケットでの買い物に始まる。私は真っ赤なゴルフシャツにショートパンツ、突っ掛けスリッパの軽装で彼らと一緒に行く。日本でもしたこともない軽装である。ビール、ワイン、水、ハム、ソーセージ、野菜、果物、パンなど勝手にかごに取り込み、まとめて私が支払うのが習慣づいていた。いつも支払いは、4〜5人分で約1500円位。ビール500ml缶が50円、ワイン紙パック2リットル入りが110円という安さ。財布の中身は全く気にせず、若者に一切任せても安心だった。勿論、荷物は全て、若者が担いでくれた。

彼らがとり仕切る、会食のスタートも面白かった。私に気を遣い、私の開会宣言を待とうとする。私はその都度、「どうでもよろしい」とか「ドイツ流でやろう」とか言って、全員のリラックスを図っていた。話題はあれこれ、お互いに地”を出し合い、話し合う。私はいつも、彼らが国から持ち込んだウオッカを少量、飲みたいとも思わなかったが、敬意を表して飲んでいた。そんなことで、いつも酔いは早く、日本で飲むほどにはビールは飲めなかった。それでも、日本に居るときの習慣からか、その都度、二次会に近くのスナックに皆を誘った。住宅街にひっそりと営業するスナック?は、家族が夜の散歩にでた帰り立ち寄ると言った客ばかり。我々がどやどやとなだれ込む雰囲気ではなかったが。帰り道は、昼の暑さはどこへやらの爽やかさ、夜空を仰ぎながら帰ってくる。

寮に帰ってみると、緑地帯が賑やかである。学生達が国際交流を楽しんでいる。目ざとく私を見つけた学生が輪の中に入れと引っ張っていく。スペインとかイタリアなど、南欧系の学生が多かったような気がする。私は、もう一丁!とばかり元気を出して、彼らが提供してくれるビールを頑張って飲む。

昼間、通りすがりに芝生の上に犬の糞があるのを確認していたが、学生達はそんなことを全く気にせぬように、円陣を組んで楽しんでいる。早々に私だけは抜け出して部屋に戻ったが、もう午前様であった。

私は、夜の時間がある日は全て、顔見知りを呼んでビールを飲もうと思った。彼らは、私にとっても段々身近に感じられ、異国の学生という意識も時には薄れていた。ある時は、「今日も一杯やろうや」といつもの招待客に日本語で誘っていた。彼らはいつもと違い怪訝な顔をして、彼ら同士で顔を見つめ合っている。突差に私は、日本語で話しかけていたことに気づいた。慌ててドイツ語にいいかえてみたが、「ここはドイツです。ドイツ語で話して下さい!!」と一本とられることもあった。

 全体を顧みて

    私が65歳にしてドイツ短期留学をすることになったのは、ひょっとした機会に雑誌の「留学生募集」の記事に触れたからに他ならない。本当にひょうたんから駒が出た感じである。

ドイツ行きに際しては、私は予め、パソコンで自分の名刺を二種類つくった。一つは通常のもの、そしてもう一つは肩書きに「Altersschwacher Student」(老いぼれ学生)とつけた。若者に混じって勉強する気恥ずかしさも劣等感もあったのである。この名刺は非常に好評であった。確かに「聞き取り能力」は老いぼれではあったが、それ以外は少し出しゃばりな年輩者と言うところか。

コースの終わる頃には、私は、留学生の中でもちょっとばかり有名になっているのを意識した。私は自称「Altersschwacher Student」であるが、私に「Altersenergischer Student(老いてますますエネルギッシュな学生)と肩書きを読み替えてくれた学生まで出てきた。

 お別れパーテイは、決して豪勢ではないが、自主的に若手の留学生が計画したものらしかった。学生食堂で一通り飲み食いした後は、みんなでデイスコと言わんばかりの道具立てが用意されている。  大学側関係者の挨拶が行われる頃には、みんな行儀悪く、もう飲み食いしている。私も、みんなに合わせて挨拶も聞かずにワイワイやっていたら、私の名前が呼ばれているのに気がついた。みんなが私の方を向いている。なんと、私が学生代表で挨拶しろということであった。急に挨拶と言われても、とてもスムーズにやれる実力はない。私は前へ出て、ごく一般的な感謝の気持ちと国際交流を推奨する趣旨のことを大学関係者、留学生一同を前に精一杯話した。勿論、どの程度理解されたかは私も分からない。

もう少し、この留学制度を考えてみたい。今回参加してきた学生の国の数は28カ国。それらの国の中には、歴史的に見てもドイツとの交戦国も多い。また、それぞれ紛争国同志の間柄にあった関係をいくらでも挙げられる。しかし、現在の世界の国々は平和と協調の精神が浸透しつつあり、そしてまた、世代が変わってきているからこそ、これほどまでに友好的で平和な学園生活を楽しめるのであろう。20世紀の初めにすでにこのような制度があったとすれば、世界の紛争はあれほどまでに悲惨にならなかったようにも思う。

ドイツは、このような過去の歴史中では加害国でもあり、被害国でもあった。ドイツは今、それらの事実を直視し、新しい国同士の関係を築こうとしている。参加国の経済事情はさまざまだが、前述のウクライナからの学生は、飛行機代が高いのでまるまる二日間、バスを乗り継いでやってきたという。私はドレスデンの物価がとても安いと気楽な気持ちでいられたが、彼らは「何もかも高い!」と不満げ。彼らの不満も分かるが、ドイツの国も精一杯の援助をしている感じであった。今回、留学生は滞在中、市電・バスの交通機関については無償パスが提供された。大学食堂でも、市販の1/3程度の割引価格が適用された。学生寮もほぼひと月を2万円そこそこで使わせて頂いた。こうした恩典は経済的に立ち後れている国々への援助、または戦後補償の気持ちも含まれているような気がした。65歳の日本人の私がこのような恩典を受けたのは、少し行き過ぎ”だったような気もする。

 とは言え、私は裏口入学したわけでもない。正々堂々の手順を経て、この制度を楽しんできた。人生、何も難しく考えることはない。感謝はしても、遠慮することはあるまい。私は、語学留学については多少の自信が出来たような気がする。同様の制度は、ドイツ語だけではなく、英語、フランス語、イタリア語、中国語などにも存在する筈である。同好の士にはこのような留学制度は是非、お勧めしたいし、私自身はもう少し応用動作を加えた参加を考えてみたいとも考えている。

今回の経験からすると、語学力はあまり気にすることはない。長期滞在型の旅行と気楽に考えればいいのである。それこそ年齢に関係なく、気に入った友人同士、兄弟、家族で実行すれば、留学生活は間違いなく愉快なものになるであろう。


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