「文明の裁きをこえて」を読んで 黒木 靖生
「文明の裁きをこえて」という題名の本(牛村 圭 著、中公叢書、2001年
1月初版発行)があります。副題に「対日戦犯裁判読解の試み」とあるように、極東軍事裁判(東京裁判)を題材にしたものです。題名の「文明の裁き」というのは、東京裁判においてキーナン主席検察官が冒頭陳述で、被告たちが「文明に対して宣戦布告をした」と糾弾し、この裁判は「全世界を破滅から救う為の文明の断固たる闘争の一部」と高らかに謳い上げたことから、良くも悪くも東京裁判を象徴する言葉として採られたものです。
この本は3部より構成され、第1部は「東西国際軍事裁判の被告たち」のタイトルが冠せられ、かの丸山眞男氏が「軍国支配者の精神形態」という論文で、ニュールンベルグ裁判の被告たちが自分たちの責任を真正面から受け止めたに比べて、東京裁判の被告たちは責任逃れに終始したと批判していることに対し、裁判記録を丹念に追って総論的に反論した論文(第1章)から開始されています。
また、第2章では南京事件の責任を問われた松井石根大将、第3章では東郷茂徳外相、第4章ではヘルマン・ゲーリング国家元帥と東条英機首相の裁判記録を通して、丸山論文に具体的に論駁しています。
第3部は「異土の裁きの場で」というタイトルで、B級戦犯として戦地(異国)での裁判に付せられた河村参郎中将、今村均大将のケースを取り上げています。この中では、オーストラリア軍の収容所に収監された今村大将が、戦犯の容疑のかかった部下の相談に乗るために自ら願い出て将官が収容される施設から戦犯が収容される施設に移ったことや、禁固10年の刑期を巣鴨プリズンで服役することになっていたのを、戦犯として服役中の部下から過酷との訴えのあったオーストラリアのマヌス島刑務所に自ら志願して変えたこと等が、上に立つ者の心構えとして胸に残りました。
なお、今村大将はラバウルの第八方面軍司令官として敗戦を迎えたのですが、オーストラリア軍は戦犯調査を行い、一旦は「戦犯なし」との報告を本国に送りました。これは、ラバウルでは、今村司令官が軍紀を厳しく律したと同時に、大規模な戦闘が行われる前に終戦を迎えたためと思われます。ところがオーストラリア軍は、本国政府からの強い戦犯摘発指示で重箱の隅をつつくような戦犯探しを行ったようです。例えば、日本軍の占領下で日本に協力した人たちは日本軍に強制されたとオーストラリア軍に訴え、それが戦犯の罪になるといった具合です。変わり身の速い人は自分の有利になるようにコロコロと立場を変えるでしょうから、このような事で戦犯になった人は本当にたまらないと思います。このような事情を熟知していた今村大将は、矢も楯もたまらず、部下を励ます行為をとったものと思われます。
次に私が皆さんにご紹介したいのは、第2部「東京裁判をめぐる群像」に登場している二人の外国人です。
一人は、オランダの代表判事ベルナルド・レーリング氏です。オランダは、日本軍の戦犯裁判の厳しかった国として知られています。オランダと日本との間で戦闘が行われたのは「9日間」ですから、常識的には、戦犯に問われるような行為の発生は少なかったものと思われます(戦闘終了後の捕虜の取り扱いで戦犯行為の発生する可能性はありますが・・・)。しかし、オランダの戦犯裁判で死刑となったB・C級戦犯は236名で、連合国内では第1位です。求刑が無期禁固だったのに死刑の判決を受けた人も少なくなかったようです。
なお、前述の今村大将は、オーストラリア軍による戦犯裁判の後、氏が以前日本のジャワ占領軍の最高司令官だったことから、オランダ軍のジャワ法廷に戦犯として連行されています。しかし、この裁判では今村大将は無罪となっています。今村大将は、オランダ統治が手ぬるいと軍の中央から非難されても、強圧政策を採らなかったそうです。このことが無罪につながったのでしょうが、そうだとすれば、死刑になった236名は今村大将の統治後に罪を犯したのでしょうか。
レーリング氏が東京裁判の判事に任命されたのは、ユトレヒト地裁の判事をしていた39歳の時でした。私は、一国を代表する判事ですから、最高裁判所などもっと上級の裁判所の裁判官が任命されたものと思っていましたので、この人選は意外でした。しかし、この若さが、その後の氏の変化に役立ったようです。氏は日本に赴任した後、裁判の合間に、鈴木大拙氏や竹山道男氏など多くの日本の知識人と交際しています。そして、徐々に日本人の理解を深めて行きます。
「オランダ人として、日本人を憎む気持ちでここに来ました。でも、ほぼ2年経ち、今では日本人が好きになりました。日本人は理想を持ち、感受性豊かです。物質偏重のわれわれ西洋人に教えてくれるものを持つ国民です。」 これは、レーリング氏が日本を去るにあたり、エリザベス・ヴァイニング夫人に語った言葉です。
レーリング氏の東京裁判の判決は多数意見とは異なるもので、死刑は9名、無期は11名、無罪は5名(広田弘毅外相はその一人)でした。無罪判決は多数意見には無いものでしたが、死刑は多数意見の7名よりも多く、その意味では厳しいものになっています。しかし私は、ヴァイニング夫人に語った言葉を、東京裁判の被告たち(氏は東京裁判の被告たちの人間性を賞賛しています)や法廷外で会った日本人が氏から引き出したことに、誇りみたいなものを感じます。
もう一人の外国人は、ベン・ブルース・ブレークニ弁護士です。氏はアメリカのオクラホマで弁護士を開業していたのですが、戦争中は陸軍航空隊情報学校日本部長であったため、進駐軍将校として日本にやってきました。そして、東京裁判の被告の外国人弁護人の募集に応じ、梅津美治郎被告の弁護担当になりました。
氏は東京裁判の冒頭で、
(1) 戦争は国際法の規定があり、それ自体犯罪ではない。
(2) 戦争は国家の行為であって個人の行為ではない。それゆえ、個人の行為を裁くのは間違いである。
(3)
戦争法規違反を裁けるのは軍事法廷だけであって、東京法廷はそれではない。
と、東京裁判そのものが無効であることを主張しています。そして、戦争法規違反以外の個人の戦争での罪が問われるのであれば、原子爆弾の投下を命令したアメリカ大統領も殺人罪に問われるべきとも言っています。
これを嚆矢として、氏は裁判の中で八面六臂の弁護活動を行い、イギリスの政治家ハンキー卿をして「弁護団の第一人者」と言わしめています。
東京裁判においては、氏が弁護した梅津被告(無期刑)を含めて全員に有罪の判決が出されたのですが、氏はその直後、弁護人全員の名において「裁判の不公正さ」、「判断が証拠に基づいていない点」などを指摘し、判決再検討の要請をマッカーサー連合国最高司令官に提出しています(この要請は却下されました)。それと並行して、豊田副武海軍大将を被告とする戦犯裁判の弁護人となり、今度は無罪を勝ち取っています。
氏は、その後の生活の根拠地として日本を選び、東京大学、中央大学、慶應義塾大学の教壇に立ち、多くの若者(学者)を育てています。その傍ら、氏は日本で弁護士を開業し成功を収めていたのですが、昭和38年3月、愛用のセスナ機で沖縄に向かう途中、伊豆半島の天城山に墜落して、多くの日本人の尊敬を受けまた愛されたその一生を閉じています。氏の葬式は神式で行われ、墓地は青山霊園の東郷茂徳元外相の隣にあるそうです。氏のような人を惹きつける魅力が日本(人)にあったことも、誇りにして良いのではないかと思います。
終わりに、以下のことを申し述べたいと思います。
東京裁判の冒頭陳述で、キーナン主席検察官は、「文明」を敷衍して「人格の自由と尊重」、「人民の人民による人民のための政治」、「偉大なる民主主義国家」と言いました。しかし、これらは「白人の人格の自由と尊重」、「白人の白人による白人のための政治」、「偉大なる植民地主義国家」とでも言えるものではなかったでしょうか。 (以上)
(付記)
中央公論の2月号で、「戦争責任の決着をどうつけるか」という特集が組まれています。これは、同誌が過去に掲載して反響を呼んだ(と同誌が自讃している)二つの特集「歴史教科書論争を解体する」、「歴史教育を問い直す」の成果を踏まえ、「戦争責任問題」の論点整理と再構築に挑んだもの(編集の言葉を引用)ですが、その心意気の割には平凡なものに終わっているような気がしました。これは、この問題がそれだけ難しいことを示しているとも言えると思います。
また、「戦争責任の着地点を求めて」と題する鼎談の中の朝日新聞の舟橋洋一氏の意見は、氏の編著した「日本の戦争責任をどう考えるか(岩波書店)」よりも現実的になっているような感じ(私の主観)がしました。