小林秀雄と贋作良寛 林 淳一朗
小林秀雄が良寛の書の偽物を掴んだエピソードは有名で、自ら『モオツアルト・無常ということ』(新潮文庫)の中の『真贋』の冒頭で少々自嘲気味に披露している。
小林秀雄は、こう書いている。
先年、良寛の「地震後作」と題した詩軸を得て、得意になって掛けていた。何も、良寛の書を理解し合点しているわけではない。ただ買ったというので何となく得意なのである。そういう何の根拠もないうかうかした喜びは一般書画好き通有の喜びであって、専門家の知らぬ貴重な心持ちである。ある晩、吉野秀雄君がやってきた。彼は良寛の研究家である。どうだと言うと黙って見ている。
「地震というのは天明の地震だろう」
「ああ、そうかね、越後なら越後にしとくよ」
「越後地震後作なんだ」
「どっちだって構わない」
「いや、越後に地震があってね、それからの良寛は、こんな字は書かない」
純粋な喜びは果敢ないものである。糞ツいまいましい、又、引っ掛かったか、と偶々傍に一文字助光の名刀があったから、縦横十文字にバラバラにして了った。
この、小林にとっては歯ぎしりするほど悔しいエピソードは、山口瞳が『小説・吉野秀雄先生』(新潮文庫)の中でも取り上げていて、小林の書いたとおり、床に飾ってあった名刀を抜きはなってバラバラに切り刻んだ、としている。
ところが、この席にもう一人、証人がいた。吉野秀雄の妻、登美子である。後年、登美子が夫秀雄の思い出を綴った『わが胸の底ひに 吉野秀雄の妻として』(弥生書房)に書いているこのエピソードは、次のようになっている。
そのうちに小林様が、
「吉野さんに未だ良寛を見せませんでしたね。」
とおっしゃって軸を取り出して来られた。掛けて下さったのは良寛の「地震の詩」である。
吉野は謹んで拝見している。私も後で拝見していたが、つい、
「あなた! これは良寛さまの若書きですか?」
と口走ってしまった。吉野は私を手で制して、「地震の詩」は良寛さま七十一歳のときのものだ、といったきり何もいわなかった。その様子を見ていた小林様は、
「ああそうですか」
といって軸をはずされると、廊下に出て、うんうんと力を入れて破ってしまわれたのである。
私はびっくりして、とんだことをいってしまったと心配したが、小林様も吉野も淡々としてまた元の座に戻り、二人はニコニコして握手された。私はこの様子を見ていて、つくづく偉いものだなあと感激した。この二人の男らしい触れ合いに頭が下がった。いまもけっして忘れることのできない想い出の一齣である。
小林は、文筆を生業とするプロの物書きである。書いたものは、誤解を招く言い方だが商品である。読者に読まれるように、事実を脚色潤色して提示する。文筆を生業とする職業作家の当然の作為である。その作為の過程で、優れた芸術が産み落とされる。
片や吉野登美子は、主婦として、芸術家で歌人の吉野秀雄を支えて一生を終わった人である。「いまもけっして忘れることのできない想い出・・・」を大切に胸に秘めて一生を終わるはずだった人である。たまたま、吉野が亡くなったあと、すすめる人があって、登美子は、夫の想い出を書きとどめることになった。それが『わが胸の底ひに』として世に出て、図らずも、良寛の偽書を掴まされた小林のエピソードを目撃した生き証人として、事実を世に送り出すさだめになってしまった。
小林が「越後の地震」と書いたこの地震は、文政十一年十一月十二日の三条地震で、七十一歳の良寛をよほど動揺させたらしい。良寛は、三条地震のあと、漢詩を二つ詠んだ。
一つは上記の『地震後作』、もう一つは『地震後之詩』。内容はかなり重複しているが、良寛が「世の軽靡」がこうした災害をもたらしたと悲憤慷慨している様子が烈々と伝わってくる。その悲しみや憤りを、修正を重ねて、二度にわたり詩に表現したもののようである。
登美子は、一生のうちに二人の芸術家と連れ添った。もうひとりの芸術家は、三十歳の若さで他界した詩人・八木重吉で、重吉が亡くなったとき、登美子は二十三歳の若さだった。その短い結婚生活の想い出を『琴はしずかに 八木重吉の妻として』(弥生書房)にまとめている。
『わが胸の底ひに』も『琴はしずかに』も、吉野の遺児たち(義理の子どもたち)の協力のもとに、晩年の登美子が書き綴ったものである。キリスト者・八木重吉との鮮烈極まりない、短い結婚生活。重吉とともに二人の子どもをも肺結核で失った登美子の半生を要約して語る力を、私は持たない。しかし、この著書に接した人々を深い感動に巻き込む“想い出の記”であることは間違いない、と思う。
『琴はしずかに』の題名は、重吉の次の詩からとられている。
素朴な琴
この明るさのなかへ
琴はしずかに鳴りいだすだろう
登美子は、吉野の妻はつが亡くなった直後、えにしのあった人たちの仲立ちで吉野家の家事を引き受けるべく、吉野の家に移り住んだ。昭和十九年十一月六日、登美子三十九歳、秀雄四十二歳。秀雄は、四人の子供を抱えて途方に暮れていた。
吉野の家に入って家事を切り盛りする登美子の真摯な献身ぶりに深い感動を受けた秀雄は、昭和二十一年、登美子に結婚を申し込む。
秀雄は、登美子から見せられた八木重吉の詩を「本物」と認め、世に送り出すべく力を尽くした。『わが胸の底ひに』という表題は、結婚式の時、秀雄が誓詞として読み上げた
わが胸の底ひに汝の恃むべき清き泉のなしとせなくに
からとられている。
吉野秀雄は、自ら會津八一の弟子をもって任じていた。歌と書、そして古代史の弟子をもって任じていた。しかし、私が思うに、八一は吉野が自分の弟子である、などということは、念頭になかったのではないだろうか。優れた一人の年下の歌人として親しんでいたのだと思う。
良寛という卓越した歌人がいたことを、正岡子規を訪ねて紹介したのは、會津八一である。それまで、越後のひとびとに愛され尊敬されてはいたが、地方的な名声しか持たなかった良寛が『日本の良寛』になったきっかけは、八一が根岸の里に子規を訪ねてからだ、と私は考えている。