[シリーズ投稿・枚方通信(その8)]
はじめに
約400年前、秀吉の禁教令により京都で捕らえられ、流刑先の長崎の西坂の丘で十字架にかけられた日本最初のキリシタン殉教者の足跡〜約1,000kmを辿って巡礼する「長崎への道」前半戦を、「枚方通信(その5)」で報告しました。
昨年5月に京都を出発、ほぼ月2回のペースの日帰りで歩き、今年の4月9日、通算23回目(通算24日目)で
今回ご報告する後半戦は、同行の主婦が家を空けられるギリギリの、2泊3日のコースを設定しました。この10月に実施した通算27回目で、関門トンネルを歩いて、ついに九州入りを果たしました。
後半の行程
歩き遍路・巡礼の速度に健脚・並足・ゆる足の3つのレベルがあるとすれば、平均年齢が還暦世代の、教会の有志10名(男女半々)の私たちの旅行団は、時速4km(休憩を含む)の並足レベルでしょうか。
日帰りで実施してきたこれまで(前半)は、下表の<まとめ>の通り、通算23回(内1回は1泊2日)、通算24日間で462km、1日平均19.4km、従って5時間程度を歩いた勘定になる。遠隔地の日帰りは、5時間歩くために往復10時間もかけて電車で移動するという負荷がかかって来た。
今年の5月以降は、2泊3日の通算4回、通算12日間で、331km、1日平均28.5km、従って1日平均7時間程度を歩いたことになる。日帰りにつきものの往復のロスタイムがなく、朝早くから夜遅くまで歩けるはずの1日当たり歩行距離は、10kmを越えて不思議はないはずだが、せいぜい7〜8時間どまりなのは、3日連続の歩き続けでたまる疲れのせいだろう。
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延回数 |
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前半戦まとめ |
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通算 |
1番
西陣教会 〜39番
三原教会 |
日帰り |
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半 戦 |
24 |
5月 3日 |
広島・ |
25km |
43.廿日市 |
国民宿舎岩倉ロッジ |
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4日 |
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37km |
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七日市学校寄宿舎 |
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5日 |
七日市〜津和野 |
28km |
48.津和野 |
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25 |
5月19日 |
広島・ |
25km |
40.幟町41.三篠 42.観音寺 |
広島YH |
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20日 |
広島YH〜大野浦 |
27km |
43.廿日市 |
宮島YH |
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21日 |
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33km |
44.岩国 |
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26 |
9月1日 |
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27km |
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パークアベニューH |
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2日 |
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27km |
45.徳山 |
〃 |
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3日 |
冨海〜小郡 |
28km |
46.防府(47.山口) |
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27 |
10月20日 |
小郡〜厚狭 |
27km |
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21日 |
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25km |
49.長府50.細江 51.門司港 |
Hアクティブ |
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22日 |
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23km |
52.小倉53.八王子54.天神町55.黒崎56.水巻 |
H38下関 |
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計 |
24回〜27回の通算4回 |
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331km |
1〜56番札所(ただし、 |
H:ホテルの略 |
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前半+後半のまとめ |
通算27回(36日間) |
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793km |
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これからの予定 |
28 |
11月10日 |
JR水巻〜JR福間 |
24km |
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11日 |
JR東福間〜地下鉄天神 |
27km |
57.古賀 |
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12日 |
地下鉄天神〜JR今宿 |
15km |
58.大名町59.西新 |
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29 |
12月1日 |
JR今宿〜JR大入 |
24km |
60.糸島 |
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2日 |
JR大入〜JR鬼塚 |
25km |
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30 |
1月19日 |
JR鬼塚〜JR伊万里 |
26km |
61.唐津62.伊万里 |
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20日 |
JR伊万里〜武尾温泉 |
22km |
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21日 |
武雄温泉〜JR彼杵 |
26km |
63.武雄 |
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31 |
2月3日 |
JR彼杵〜JR岩松 |
25km |
64.植松65.水主町 |
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4日 |
JR岩松〜JR大草 |
25km |
66.諫早 |
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5日 |
JR大草〜西坂 |
27km |
67.長与68.時津69.浦上70.二十六聖人殉教地・西坂 |
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通算4回 |
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266km |
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通算31回(47日間) |
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1059km |
札所70 |
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第24回(5月3〜5日) 広島・廿日市〜広島・山口・島根の3県をまたがって〜島根・津和野 90km
このコースは本来、「長崎への道」(以下、「長道」と略称する)の番外篇に当たり、1870年(明治3年)、浦上の潜伏キリシタン3416名が摘発され、北は富山から南は鹿児島に至る21地方に流罪になった〜「浦上四番崩れ(*註)」のうち、津和野に流された28の家族、125名に因んだコースが特別にセットされたものである。
「長道」が旧山陽道に沿って日本列島を横断する割合平坦なものに比べ、この特別コースは、廿日市港から中国山脈の峠と難所を何度も越える起伏に富んだきつい道行につき、毎年5月の連休にツア・コンダクター付きの団体巡礼〜今年は「第17回・津和野への旅」の募集がされていたので、私たちもこれに参加した。私たち7名を含み82名の大団体であった。
地元の広島と長崎からの参加者が多いが、一応全国から、7,8歳の子供から80歳のおばあちゃんまでの年齢層に、神父やシスターも10名程度が加わった。この大所帯のために、熊もマムシも出没するという難所の多い道中の安全を図り、2泊3日の給食と給水(と排水)と救護、途中で歩けなくなった人を人道と車道の交差点で拾う伴走車システムに至るまで、その仕掛けは並大抵ではないが、これをボランティアが支えるのだから頭が下がる。こちとらは、ただひたすら落伍しないよう必死について歩くのみで、わがチームの女性パートナーが半べそをかきながら歩くときに歩調を合わせるのが精一杯であった。
終点の津和野・乙女峠で捧げた道行きを感謝するミサは、シスターの先唱する聖歌に殉教者が呼応するかのように木々と葉が挙って、打ち震える感動的なものとなった。
*
崩れ〜浦上のキリシタンは表向きは仏教徒であったが、張り方や水方、聞役などに組織化されたキリシタンの秘密組織に属して信仰を守っていた。一番崩れは1790年、二番は1842年、三番は1856年に弾圧が繰り返されたが、いずれも小規模。1870年(明治3年)、浦上一村3000余人を根こそぎ総流罪したのを四番崩れという。流刑地の苦難の生活は「旅」と呼ばれ、明治6年外国からの抗議に屈服した明治政府が処分を撤回するまで続いた。
この「津和野への旅」とは別個に、例年5月3日には、「津和野・乙女峠まつり」というこの明治期のキリシタン殉教者を祝う祭があり、今年も2000名の参加があったという。
第25回(5月19〜21日)広島・瀬野〜平和公園〜廿日市〜山口・岩国〜錦帯橋〜欽明路 85km
田植えが終わったばかりののどかな旧山陽道を横切ると、間もなく私たちにとって平和のシンボルの広島に入る。
パートナーの一人は私と同窓・同期生であるが、6歳のときにここで被爆した。彼の思いに重ねて、被爆者のためにも特別に祈った。やがて、徳川時代に出来た木のアーチ芸術と呼ばれ、昨年中に改修が済んだばかりの真新しい錦帯橋を渡って、歩をすすめた。ここまでは珍しいくらい気分の良い旅であったが、最後の欽明路峠で山道を避けて車道のトンネルを選んだのが最悪となった。
右側の排水溝の蓋板から成るわずか40cmの幅が歩行者に許された領域で、トンネルに反響して車の音がひときわ大きくなる。大型トラックがすれ違う時は両手を壁に体を寄せて待機し、心の中ではこんな所でこんな格好で殉教するのは嫌だと叫ぶ。トンネルの距離は700〜800m程度であっただろうか、1kmを30分以上かけて匍匐前進したような思いでやっと脱出すると、全員がすぐ、ペットボトルのお茶で何度もうがいを繰り返した。
岩国在住のわがチームの最年長パートナーの娘さんが、このコースの終点である欽明路までワゴン車で迎えに来られ、ご自宅でお風呂と夕食のおかずをもてなしていただいた。帰りの深夜バス出発の時間までくつろぐことができ、トンネルでの悪夢を忘れた。
第26回(9月1〜3日) 欽明路〜徳山〜防府〜小郡 82km
9月とはいえ昼間は連日34度を越える猛暑の中、道中は自販機がオアシスに思え、ペットボトルを都合10本も飲んだだろうか。偶々休憩のため入館をお願いした山口・周南市戸田(ヘタと読む)支所では、はじめわがグループを平和行進団体と思われたようだが、やがて歴史好きの所長さんが津和野巡礼や26聖人のことにも通暁されていて、冷たい麦茶のお接待を受けた。26聖人の極寒の道行きには遥かに及ばなかった。
第27回(10月20〜22日)小郡〜下関〜関門海峡〜門司〜小倉〜北九州・水巻 75km(列車移動を除く)
旅に格好な季節となり、本土の南端の海岸線を玄界灘を見ながら下り、関門海峡の人道トンネル700mをゆっくり歩いて15分程度で渡ると、この長道の旅もいよいよ終盤を迎えたことを実感した。日本人にとってと言いたい所だが、キリスト教徒にとって長崎は聖地であり、聖地が近づくに連れて巡礼の環境が変わってくるように思える。
まず、九州に入ってから、私たちにとっての番所である教会が適度の間隔でバランス良く立ち、巡礼者にとって祈りの場所であると同時にタイミングの良い格好な休憩のオアシスとなった。また、教会関係者の長道への理解認識度が長崎に近づくほどいや増し、湯茶接待がなくても、巡礼者への計らいが濃密になったように窺える。
門司からは、本土の国道2号線(
最終のフェーズを迎えて
11月から毎月1回の出発、通算4回で来年2月5日には念願の最終目的地のゴールイン〜を目前にして考えること。
日本人は、巡礼や漂泊が好きな民族という。四国88箇所の霊場めぐりから、西国33カ所巡礼、熊野古道巡礼、そして奥の細道まで掲げる。さらに各地にはこれらを模した巡礼地が数多くあるのだろう。それぞれがその地の霊性を求めて旅に出る。その地には巡礼者を受け入れる雰囲気が備わっている。それが宗教や民族を越えて共通の巡礼・漂泊志向だろう。
ところが、西国33カ所を巡礼をする人は、四国88箇所の雰囲気や霊性を求めるとがっかりするという。西国は、四国のような歩き巡礼を前提にしていない雰囲気で、霊性が薄いと感じると言う。
この「長道」も、かなりの部分、国道2・3号線沿いのコンクリート・ジャングルを貫く決死行のようであり、道々お互いに声を出して唱えあうロザリオの祈りもトラックの騒音にかき消されてしまうことがある。排気ガスと騒音に悩まされ、帰宅してからも後遺症に悩む巡礼、またパートナーの一人は腰痛のため主治医からドクターストップがかかり、1日だけ参加して2日切り上げて帰阪する〜いったい何のために歩いているのかを疑問に思うことすらある。その中で、「長道」完歩のあかつきには、キリスト教徒にとって千年の歴史を持つ、「スペイン・サンチャゴ巡礼」をしたいと密かにねらっている同行の士もいるようだ。さらに深い霊性を求めてのことだろうか。私自身も、空海が設計したすばらしい四国巡礼の一片でもいいから近いうちに体験してみたいと思っている。
私は、このHPの5月号で、巡礼の目的を、「人生の節目にふとわれに帰り、師を仰いで自分を見つめなおし、傲慢だった古い自我に死に、新しい命を復活すること」、そして、「この長道はまさしく殉教者の死への道行きに同道すること」〜と定義しました。目に見える表層ではなく、目には見えない霊性を探り、感得するために歩く旅が巡礼、と頭ではわかっていても、つい目に見える美しいもの、耳に快いこだま、魂を揺さぶる交響楽を求めてしまう。コンクリート・ジャングルの霊性をひたすら求めたいと思う。
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