いま小説が面白い 辻 淳二 昨年の暮れ頃から、久しぶりに小説に引きずり込まれている。藤沢周平とか山本周五郎とかの短編を寝る前に一編ずつ読む、知人に奨められた長編物を興に乗った所で一気に読み切るといった読み方だが、ついつい深入りし、寝不足を余儀なくされている。
こののめり込みは、主人公たちの会話や独白が読み手の私の心にビーンと共振し、「そうなんだ。このシーンに出会いたくてこの小説を読んだのだ」とひとときの感動に浸る場面に結構出会えている所から来ている。今は、近づいて来る小説と自分との間に程良い"引き込み現象"が起こっているようだ。 そういうシーンの具体例を2〜3挙げよう。 1 山本周五郎『橋の下』 ・・若侍は礼を述べて、そこを出ていき、岸の上へあがった。(略) ――ここはまったくべつの世界です。老人はそう言った。たしかに、岸を歩く者も、橋の上をとおる者も、そこに人が住んでいるなどとは気づきもしまいし、たとえ気づいたにしても、なんの関心をもつこともないだろう。 (略) 「怒りや悲しみや、苦しみさえも、いいものです」と若侍は呟いた、「――いいものです」彼は自分が変わったことに気づいたようだ。彼の顔はなごやかになり、その眼には謙遜な、あたたかい光りがあらわれている。彼は唇に微笑をうかべ、そうして口の中で暗誦するように呟いた。「心に傷をもたない人間がつまらないように、あやまちのない人生は味気ないものだ」 ・・ このシーンは、何かのはずみで友人と果たし合いをやることになった若侍が、その場に向かう直前にかって同じ若気のあやまちをして出奔しいまは落魄した老武士に会い、その問わず語りの回想話に心を癒やされて本来の自分を取り戻す場面である。これを読んだ昨年末は、私自身が数年に渡った変調の時期をようやく抜け出し、世間ではリストラ風が吹きまくり、多くの日本人が生き方を問われ始めた時期だった。そこで、肩の力を抜いて前に向かうメッセージとして、この若侍の独白がスッと心に入ってきたようだった。 2 花村満月『鬱』 ・・「鬱の森は空が見えない。俺にはそれが耐えられない。なんとか森から抜け出したい。鬱の森を突き抜けて空を見たい。乾いた空気を吸ってみたい。」(略) 「殉教者だからなの。雄々しいよ。可愛いよ。」 (略)「そう誇らしい。響は無感覚なその他大勢ではない。こんな腐った世界でうまくいかなくたっていい。あたしにとって、響はあるのよ。響は在る。ここに存在している。」 ・・ この響という主人公は、いまの世の中に深く沈潜する「鬱」に鋭く気づき、そこからの脱出を書こうとしている小説家志望の無頼派である。このシーンは、彼がある雑誌に軽いタッチの連載の機会を得たことで浮き足立ちながら、自分の志に踏みとどまろうと葛藤する、それを、彼の痴漢的な行為から親しくなった文学好きの高校生のガールフレンドが、すべてを受け入れて見事にカウンセリングする場面である。この作家は暴力やセックスの描写が過激でついて行くのが大変、このシーンも雨の中でセックスをしながらの会話なのだが、小説の構成は実に骨太で「何か引かれる力があって読み続けてきたが、これだったのか」と引き摺り込まれるような、ズシリとした共感があった。 このような小説の楽しみ方では、もうずいぶん前に忘れ得ぬ経験をしている。それは、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』が好きで2回読み切っているのだが、その2回目を読み終えた時、この長大編の中で脳裏に残った一シーンってどこだったかとフト思ったことである。それを思い出して、この機にあそこはどう書かれていたのか読み返してみた。それは、次のように書かれていた。 3 司馬遼太郎『龍馬がゆく』(狂瀾編) ・
・さな子は、自分の左手を握った。「お嫁さまにしていただけませぬか」「ほう」と言いかけたが、声をおさえた。いいかげんに茶化してのがれられる場ではない。「ずっと、坂本様をお慕い申して参りました。お嫁にして頂けなければ、死にます」「い、いのちを」龍馬は、おもわず声がふるえた。 (略) 「存じませんでしたな。さな子殿がそこまでわしのごとき者をとかくに想うてくださっておったとは、ふらちにも存じませなんだ。」 (略)「しかしさな子殿、わしはいま、あなたが欲しゅうない。」「えっ」「欲しいのは、自由自在の境涯じゃ。脱藩してそれを得た。女房をもらうことでそれをうしないたくない。」龍馬は大声になった。 「後家になるぞ。あなたはかまわぬというかもしれぬが、わしはかなわぬ。志士ハ溝がくニ在ルヲ忘レズ、勇士ハソノ元ヲ喪フヲワスレズ。」「どういう意味です」「志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景をつねに覚悟せよ。勇気ある者は、自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな、ということです。それでなければ、男子の自由は得られん。」 ・
・ これは、龍馬の剣の師・千葉貞吉の娘・さな子が、すぐ近くにいながら彼の真意が掴めないのに一大決心し、龍馬の部屋にて積もり積もった思いをぶつける場面である。あらためて、「やっぱり、このシーンはいいな」と思った。龍馬の志士たる本質、さな子の「これで許嫁になれた」と思い違える切なさ・・。これにシビレた自分の感性は今だに変わっていないようだ。 何とも青臭いことを書いてしまったが、会員の人たちはどんなシーンにシビレながら小説を読んでおられるのだろうか。もし、こんな小説の楽しみ方をしている人があったら、このHPでその交流をぜひしたい。 [99.3.5]