[シリーズ投稿・枚方通信(その10)]
はじめに
一昨年5月に京都から歩き始めたカトリック枚方教会の巡礼団11名は、2月5日、目的地の長崎駅前の左手に見える小高い西坂の丘に到着し、1年8ヶ月、回を重ねること30回(出発)、延べ47日間に及んだ1053kmの旅を終えた。
1549年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して伝来した日本のキリスト教は、1587年(天正15年)秀吉の宣教師追放令によって試練を受け、遂に1596年11月、秀吉はフランシスコ会の宣教師とその指導下にあるキリシタンの処刑を京都奉行・石田三成に命じた。翌1597年1月3、4日にかけて、京都・大阪近辺で捕縛されたスペイン人の宣教師・修道士6人と日本人の修道士・信徒18人(うち子供3人)、さらに途中で縄を受けた2人、合計26人が見せしめのため長崎・西坂まで引き回され、2月5日、十字架に架けられた。
26人の磔刑を4000人が見守ったというこの西坂の刑場(現在の西坂公園)では、毎年この日に記念のミサが行われ、今年も長崎を中心に各地から約1500人の巡礼者が集まった。26聖人の記念碑に取り付けられた等身大のブロンズ像(舟越保武作)の前に臨時に設えた祭壇には、右手に殉教の赤い血の祭服を着た司祭団数十名、左手にはシスターたちの聖歌隊数十名が並び、記念ミサが午後5時半に始まった。殉教の日にふさわしく風と雪の舞う野外ミサでは、寒さと感動で体が震えた。
![]() 407年前の西坂(刑場)の殉教図 (マカオ司教館蔵) |
![]() 04年2月5日の西坂(公園) 日本26聖人ブロンズ像前の野外ミサ |
![]() 聖ルドビコ(12歳) 等身大ブロンズ像 (舟越保武作) |
1597年2月5日の26人の処刑
1ヶ月かけて死の行進をしてきた26人が西坂に到着したのは、2月5日午前9時半。丘にはすでに穴が掘られ、26柱の十字架が立てられていた。執行人は、東から1番の十字架と西の端26番の十字架の下に、それぞれ槍を構えて立っていた。
東から十字架に架けられた順番は、下表の通り。
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順番 |
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1 |
フランシスコ・吉 |
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伊勢出身? |
不詳 |
京都の大工、殉教者たちが長崎に送られる途中で群れに加わる |
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2 |
コスメ・竹屋 |
伝道士・フランシスコ会 |
尾張出身 |
38歳 |
刀の研ぎ師 |
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3 |
ペトロ・助四郎 |
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京都出身 |
30歳 |
イエズス会のオルガンチーノ神父から殉教者たちの旅路を助けるためつかわされたが、途中の西宮で殉教者たちの群れに加わる |
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4 |
ミゲル・小崎 |
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伊勢出身 |
46歳 |
弓師、トマス・小崎の父親 |
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5 |
ディエゴ・喜斎 |
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備前出身 |
64歳 |
殉教者たちの中で最年長、大阪のイエズス会の祭壇係兼門番 |
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6 |
パウロ・三木 |
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四国の阿波 |
33歳 |
イエズス会の説教士 |
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7 |
パウロ・茨木 |
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尾張出身 |
54歳 |
桶屋、レオン・烏丸の兄で、ルドビコ・茨木の父親 |
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8 |
ヨハネ・五島 |
修道士・イエズス会 |
長崎の五島 |
19歳 |
イエズス会に入会したばかりの修道士 |
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9 |
ルドビコ・茨木 |
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尾張出身 |
12歳 |
殉教者たちの中で最年少、パウロ・茨木の子。レオン・烏丸の甥、都の修道院で神父や病人の世話をしていた、神父逮捕時には除外されたが、自ら志願 |
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10 |
アントニオ |
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長崎出身 |
13歳 |
父が中国人、母が日本人。都の修道院で伝道士としての教育を受けていた |
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11 |
ペトロ・バウチスタ |
神父・フランシスコ会 |
スペイン |
48歳or54歳 |
1593年、日比修交使節として来日、フランシスコ会の宣教師の長として留まる、26聖人の指導者 |
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12 |
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン |
神父・フランシスコ会 |
スペイン |
33歳 |
メキシコ経由フィリピン赴任、やがて1596年来日 |
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13 |
フェリッペ・デ・ヘスス |
修道士・フランシスコ会 |
メキシコ |
24歳 |
司祭叙階のため
サン・フェリッペ号でフィリピンからメキシコに向かう途中、船が遭難し日本に漂着、京都のフランシスコ会修道院に滞在中逮捕される |
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14 |
ゴンサーロ・ガルシア |
修道士・フランシスコ会 |
ポルトガル(インド生) |
40歳 |
ポルトガル人を父、インド人を母としてインドに生まれる、16年に来日、1593年に通訳として再来日 |
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15 |
フランシスコ・ブランコ |
修道士・フランシスコ会 |
スペイン |
30歳 |
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16 |
フランシスコ・デ・サン・ミゲル |
修道士・フランシスコ会 |
スペイン |
53歳 |
フィリピンの病院勤務中日本人の患者との出会いがきっかけで、ガルシア修道士と共に来日 |
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17 |
マチヤス |
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都出身? |
不詳 |
日本人の信徒、逮捕者名簿にあった料理人のマチアスの身代わり |
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18 |
レオン・烏丸 |
修道士・フランシスコ会 |
尾張出身 |
48歳 |
パウロ・茨木の弟、ルドビコ・茨木の叔父、前には僧侶、聖アンナ病院院長 |
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19 |
ベントウラ |
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都出身? |
不詳 |
20年以上僧侶、名前不祥 |
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20 |
トマス・小崎 |
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大阪出身 |
14歳 |
ミゲル・小崎の子。大阪の修道院で育った司祭志願者、道中から母親宛の手紙は感動的 |
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21 |
ヨアキム・榊原 |
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大阪出身 |
40歳 |
武士だったが、後にフランシスコ会の料理人となる |
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22 |
フランシスコ |
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都出身 |
46歳 |
医師で、豊後の大名・大友宗麟の侍医を努める伝道者 |
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23 |
トマス・談義者 |
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都出身 |
42歳 |
薬種商人で、伝道者 |
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24 |
ヨハネ・絹屋 |
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都出身 |
28歳 |
「絹屋」は姓ではなく、職業(織物師) |
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25 |
ガブリエル |
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伊勢出身 |
19歳 |
日本人伝道士 |
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26 |
パウロ・鈴木 |
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尾張出身 |
49歳 |
フランシスコ会の説教士、都の病院の院長だった |
26人の殉教者は、1670年福者に、1862年6月8日聖人に列せられ、「日本二十六聖人」と称せられる。
26聖人が1ヶ月かけて歩いた850kmの道(ロードマップ)

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1597.1/3〜4 1/9 1/10 1/11 1/13 1/14 1/15 1/161/17
?
1/19 1/20 |
注:数字は殉教者がその地を通過した日を示す。三原以降は、反切支丹大名の最右翼、毛利家の領地のため監視・弾圧が厳しく、26人は道中手紙1本書くことができず、通過日を確認する資料なく不明とのこと。 from結城了悟著:「長崎への道」
私たちが延べ47日間(1年9ヶ月の期間)で歩いた1053kmの行程
26聖人が厳冬の中両手を後ろでに縛られて歩かされた(一部海路)足跡(850km)を辿りつつ、路線上の最寄の教会や史跡、合計70箇所を巡礼先として訪問した迂回路を含めると1053kmとなった。
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延出発回数 |
日 程 |
行程(徒歩区間) |
距離(徒歩) |
○番 札所(教会) |
摘 要 |
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前半〜 |
1回〜23回 |
02年5月20日〜 03年4月9日まで 通算23回 |
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通算462 km |
1番 西陣教会〜39番 三原教会 |
日帰り |
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後半〜 |
24回 〜27回 |
03年5月3日〜 03年10月22日まで 通算4回 |
広島・廿日市〜福岡・水巻 |
通算331km
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40番廿日市教会〜56番水巻教会 |
各回2泊3日 |
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終盤 今回・枚方通信(その10)で報告 |
28回 |
11月10日 |
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24km |
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雨のち曇り
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11日(第38日) |
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27km |
57.古賀 58.大名町 |
曇り一時大雨 |
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12日(第39日) |
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27km |
59.西新60.糸島 |
曇り一時大雨 |
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29回 |
1月17日 |
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26km |
61.唐津 |
晴れ・13度 |
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18日 |
虹の松原〜伊万里 |
30km |
(唐津・木屋利右衛門屋敷船着場跡) |
晴れのち雨・7度 |
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19日 |
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20km |
62.伊万里 |
曇り時々雨 |
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20日 |
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27km |
(俵坂関所跡)(彼杵浦・26聖人乗船跡) |
曇り時々晴れ |
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30回 (最終回) |
2月2日 |
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18km |
64.植松 |
雨のち曇り・7度 |
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3日(第45日)
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20km |
65.水主町66.諫早 |
晴れ |
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5日
(第46日) |
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27km |
67.長与 |
晴れ時々雪 |
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6日(第47日 |
長与〜西坂 |
14km |
(時津港・26聖人上陸の地)68.時津69.浦上70.26聖人殉教地・西坂 |
晴れ時々雪 |
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通算3回(11日間) |
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通算260km |
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総行程
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02年5月20日スタート |
通算1,053km |
札所70箇所 |
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小倉からは「唐津街道」沿い、途中の唐津からは「長崎街道」沿いに長崎へ(03/11/10〜12、04/1/17〜20)
26聖人が九州に到達してからの護送ルートは、<小倉—博多—唐津—伊万里—武雄—彼杵〜時津—浦上—西坂>。
玄界灘沿いの小倉から唐津までは「唐津街道」と呼ばれ、中国大陸や朝鮮半島からの文物を運び、やがてヨーロッパからキリスト教や南蛮文化や交易物を運んだ。26聖人たちはこの道を、逃亡や凍死・病死をしないよう生かさず殺さず、そしてキリシタンの集落前を狙っては見せしめショー効果を果たしながら、西へ西へとひたすら歩かされた。
唐津からは「長崎街道」を伊万里、武雄、嬉野と南西下し、日本初のキリシタン大名の大村純忠のもと領内の住民ぐるみ6万人がキリスト教徒になったという大村を横切って(<彼杵〜時津>間は舟で護送)、刑場の西坂へと歩かされた。
私たちは、昨年10月関門海峡を渡って九州入りし、11月と今年1月に<水巻----博多—唐津—伊万里—武雄—彼杵(そのぎ)>間を、26聖人に倣って「唐津街道」、そして唐津からの「長崎街道」に沿って歩いた。
唐津までは見え隠れする玄界灘を右手に見ながら、この北九州の地理的条件の故に蒙古襲来や朝鮮出兵など、日本とアジアにまたがる歴史の光と影にも思いを馳せながら歩いた。今まで九州は、風光明媚、気候温暖な地域というイメージだけを持っていたが、これまでの本州の道行きではほとんど遭わなかった強い雨風に遭遇し、大変驚いた。博多湾岸に点在する防塁跡地を見て、日本史に出てくる蒙古襲来時の暴風を思い出した。巡礼が背中を押してくれる26聖人の後押しに加えて、まさに強い雨風にも追い立てられるものとなった。
唐津からの「長崎街道」は、打って変わって日本の平和な田園風景が延々と続き、おかげで哲学の道を黙想しながら歩くような気分を味わうことができた。
このコースの最終地、嬉野(佐賀)から東彼杵(長崎)に至る県境の俵坂関所跡(江戸時代にキリシタンの往来を厳しく監視した)にさしかかったときはさすがに緊張した。俵坂峠を通り過ぎると、やがて大村湾を一望できる場所に出たので、しばらく休憩した。26聖人の指導者、フライ・ペドロ・バウチスタ神父も、まさにここら当たりで、カルワリオの丘のキリストに思いを馳せ、やがて殉教の丘で十字架を背負うわが隊列と日本のキリスト教会の行末を慮って泣いたといわれている。
このように、7日間で福岡、佐賀の両県を経由していよいよ
最終行程(2/2〜5)
いよいよ最後の行程<彼杵—(大村)—時津—浦上—西坂>を、今月2月2日から3泊4日で歩いた。
大村湾は昔「琴の海」と呼ばれていたそうだが、エルサレムの遥か北方、イエスとその弟子たちの出身地ガリラヤ地方の「ガリラヤ湖」が「キレネト(琴)の海」と呼ばれたところからの援用だろうか、偶然の一致だろうか。西彼杵半島と
長崎は起伏の多い土地柄として有名だが、例外的に大村は豊な平野をもつ。日本初のキリシタン大名の大村純忠のもと、一時は6万人の領民全員が受洗してキリシタンになったといわれる大村は、その後の禁教令で殉教地へと反転する。この豊かな自然に点在する多くの大村キリシタン殉教史跡を巡りながら大村湾を半周し、26聖人が舟で渡った対岸の時津港に到達した。
時津港には26聖人上陸の記念碑が、また1km以内の近場には26聖人に捧げた時津教会がある。聖人とともに祈った後、最終地までのあと10kmの道のりを、舟の上で夜を過ごし冷え切った飢えた体を引きずりながら辿られた聖人とできるだけ心を合わせながら歩き、殉教の丘に到着した。
いつも札所で枚方組が歌うLaudate
Deum〜「すべての人よ、主をたたえよ」のテゼの歌〜を最終70番札所の西坂の丘、26聖人の等身大のブロンズ像の前で歌い始めたとき、涙と嗚咽で歌にならなかった。
恵みに感謝
思えば、京都妙満寺跡のフランシスコの家から長崎・西坂まで、26聖人の足跡を辿った1000km余は、同伴する聖人の後押しと取次ぎをいただきながら、主のメッセージを絶えず聴き取る道行きだったと思う。先ず、主の恵みと26聖人のご加護に感謝したい。また、思いもよらなかった巡礼に誘っていただき、私のわがままとイビキをも寛容していただいた同行の皆さんの深い友情に感謝申し上げる。
巡礼から帰ってきて2週間後、「長崎への道」を奨励する事務局の本田周司先生(四十数年前の中・高時代の恩師)から完歩証が届いた。
「第111号」とあるから、この長道が始まって何年だろうか、その間の完歩者が111人とささやかなことがわかる。幸い1年8ヶ月で完歩できた私たちであるが、10年かけて歩いている方があるとも聞くし、そのための時間や健康を許されない人もあろう。それに引き換え私たちは大変恵まれた。
これらの恵みとメッセージを私の残された人生の糧とし、必要とする方々に捧げたいと切に思う。 (04年2月28日記)
補遺:年代整理
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年 |
月日 |
ひと |
イベント |
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1549年 |
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フランシスコ・ザビエル |
イエズス会員、来日 |
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1563年 |
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大村純忠 |
受洗、初のキリシタン大名 |
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1582年 |
〜90年 |
〃 |
天正少年遣欧使節を派遣 |
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1587年 |
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豊臣秀吉 |
宣教師追放令 |
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1593年 |
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ペトロ・バウチスタ |
フランシスコ会員、日比修交使節として来日、後に殉教 |
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1597年 |
1月3,4日 |
26人(同上ほか) |
捕縛 |
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2月5日 |
〃 |
殉教 |
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1862年 |
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26聖人 |
聖人に列せられる |