散歩道から見えるもの           柳下 彊
 

 家の中で暮していると運動不足になりがちなので、雨さえ降っていなければ我が家の付近を1〜2時間夕方に散歩することにしています。毎日同じコースでは飽きるので、5〜6とおりほどの経路を決め、散歩の途中で立ち寄る目標(書店、図書館、喫茶店、量販店など)も決めて歩くようにしています。我が家は都心から約1時間、昨年浦和、大宮、与野の3市が合併して政令指定都市となった さいたま市 の東南部にあり、私と家族が当地へ移転してきた約20年前と比べると、当時はまだあちこちに残っていた畑や雑木林がすっかり減ってしまい、コンビニ、スーパー、小奇麗な住宅と舗装された道路などの目立つ近郊都市の町並みに変わってしまいました。

 それでも毎年春が来ると、梅から始まる花の開花が、桃、桜、ハナミズキ、つつじ、サツキと続き、また野鳥もムクドリ、四十雀、ヒヨドリの姿は格別珍しくもなく、鶯の囀りも春先にはよく耳にします。また毎年、
5月の下旬から、6月の中旬にかけては郭公がやってきて、近くの林から早朝と夕刻の涼しい風が吹く頃に独特の調子で「カッコー・カッコー」と繰り返して鳴く声を聞くこともできます。

 散歩道を何度か繰り返して歩いていると、初めのうちは気づかないでいた細かな事物に眼が届くようになり、興味をそそられることがあります。散歩コースはなるべく自動車が通ることの少ない、緑の多い道路を歩くようにしているのですが、そうした道の片隅に小さな石塔が立っています。この石塔の正面には、庚申供養塔の文字が刻まれ、右側面には、寛延四辛未(かのとひつじ)○十月と刻まれています。

寛延四年は、西暦1751年、干支では確かに辛未(かのとひつじ)の年にあたります。左側面は、紫陽花の葉に覆われて見にくいのですが、この塔を立てて、寄進した施主に関する事柄が記されているようです。庚申供養という習俗の由来を(それが習俗であることを含めて)知らなかった私は、数年前からこの石塔は目にしながら、無関心のまま通り過ぎてきたのですが、思い立って百科辞典で調べてみたところ、次のような説明がありました。  

 

 『庚申(かのえさるともよむ)にあたる日の禁忌行事を中心とする信仰で、本来は中国道教の祭典。日本には古く上代に移入された。中国では道家の説として、庚申の夜、人の身体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)という虫が、人の寝ている間にひそかに昇天し、天上の至高神にその人の罪過を告げるというので、この夜は眠らず、三尸虫に逃げだす機会をあたえないようにする風習がある。この夜、眠らないことを《守庚申》という。日本でも庚申の夜には謹慎して眠らずに夜を過ごすという守庚申の態度が、道教の影響を受けて、平安朝時代の貴族社会において顕著であった。そしてこの夜を過ごすさい、詩歌管弦のあそびを催す《庚申御遊》と称する宴をはるのが貴族のならいであった。』  

 平安時代の貴族社会で行われた遊び半分の庚申信仰は、時代が下がって室町、江戸期には武家社会や地方庶民の間にも行われるようになり、またこの頃には神道や仏教信仰とも結びついて猿田彦や、青面金剛を祀るようになったとの記述が上の引用文に続いています。

 平安、鎌倉期の守庚申の様子については、源氏物語、枕草子、宇治拾遺物語などの古典作品に記述があり、例えば枕草子には次のように記されています。  

 『庚申せさせたまふとて、内の大臣殿、いみじう心もうけせさせたまへり。夜うちふくるほどに、題出だして、女房に歌詠ませたまふ。皆けしきばみ、ゆるがしいだすに、宮の御前近くさぶらひて、もの啓しなどことことをのみ言ふを(以下略)

 (中宮が庚申の夜の催しをなさるということで、内大臣様が、たいそう気を入れて準備していらっしゃる。その夜もふけたころに、題を出して、女房に歌をお詠ませになる。皆、色めき立って、骨を折って歌をひねり出しているのに、私(清少納言)は中宮の御座所近くにはべって、お話申し上げたり、ほかのことばかりしゃべっているのを・・・・)  

 平安貴族の庚申の夜の行事は、信仰というより遊興行事の色彩が強かったように感じられますが、時代が下がった江戸期の庶民の間に広まった庚申信仰は、仏教信仰や、日本古来の神々への信仰とも結びついて宗教的な側面を強めたように見えます。

 私が歩く散歩道には、下の写真のような石仏、石塔もあります。  


  

墓地外側の一郭に集められた6基の石仏と石塔
  

 向かって左端の坐像は、青面金剛で、下の塔には「宝永五戊子年十月吉祥日」、「奉造立青面金剛童子」等の文字が彫られている。

 その隣
(左から2番目)笠付の小塔は、「庚申供養塔」で、「延享四六月吉祥日」と記されている。
  

 上の写真に示したもののほかに、もう1箇所、町の自治会館に隣接する墓地の隅に区画整理のために移築された青面金剛像があり、私がよく歩く散歩道だけでも4箇所で庚申塔に出会ったことになります。これらの石塔が建立された18世紀の前半にこの地区(見沼)で、灌漑や、運輸の目的による大規模な運河工事が行われたことは知っていましたので、それとの関連を想像して、当時の近在の農民(だと思う)が何を思ってこれらの石仏、石塔を建てたのか、またそのような行為は特にこの地区で盛んだったのか、また寺院だけでなく、神社に寄進する例もあったというけれど、それはどのような特色があるのかなどを知りたくなりました。
 幸い「浦和市内の庚申塔」
(石川博司著、庚申資料刊行会刊)という研究資料があることを知り、図書館であたってみたところ、意外にも、我が家から徒歩数分の中尾神社にも庚申塔があり、また徒歩20分程の距離にある清泰寺という由緒あるお寺には、全部で三百五十一基の庚申塔があるとのことで、早速行ってみました。

 中尾神社には、神社入口と境内の本殿の傍とに一基ずつあり、本殿傍の箱型の塔の正面奥には「白山大権現」、右側面には「武州足立郡木崎領中尾村不動ヶ谷金剛寺○」、左側面には「寛政十二庚申正月吉日 世話人四名」として、その四名の名前が記されていました。

 また入口の鳥居の前のものは簡素なやや大型の石塔で、正面に「庚申塔」、左側面には、「寛政十二庚申天二月吉日」などとあり、右側面には、「中尾村講中」などの文字が刻まれています。

 清泰寺は、平安時代初期の高僧、慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられる古刹で、境内には、武田信玄の息女で、後に徳川幕府の二代将軍秀忠の子息の教育にあたったといわれる見性院という女性の墓があります。寺の入口に次のような説明板があります。  

 『清泰寺の庚申塔  清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔三百四十九基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔一基、自然石の庚申塔一基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは非常に珍しいことです。三百四十九基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし青面金剛像の庚申塔には、右側面に「庚申五拾ヶ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また自然石の庚申塔には正面に「三百庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。三百四拾九基は天明三年と万延元年に奉納されたものであることがわかります。ただし三百四拾九基はほとんど同寸形状のため五拾庚申と三百庚申の区別はつきません。庚申塔の寄進の範囲を見ると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉にまで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。』  


  

浮彫りの青面金剛像と庚申供養塔
  

 青面金剛像の右側には、「奉供羪庚申謹願○○成就」、左側には「宝永六己丑年二月」との文字が彫られている。

 左側の石塔には、「奉造立庚申塔」、「延享五戊○○」とある。

 上の説明のとおり、清泰寺に入ると参堂の左右に小さな駒型の石塔が垣根のように列をなして並んでいます。気をつけて見なければ、普通の石の列のような目立たないものですが、良く見ると、一つ一つに「庚申塔」の文字が刻まれているのがわかります。

こうして、私の散歩道の範囲内にあるものだけでも、江戸期の庚申信仰は宝永五年(1708)から、万延元年(1860)に至る長い間、綿々と続いていたことがわかりました。特に、干支が庚申にあたった寛政十二年(1800)と、万延元年(1860)には、五拾庚申とか、三百庚申と称して、人々が競うように庚申講に参加していた様子も窺えます。散歩道に残された庚申塔を眺めるだけでは、これらの石仏、石塔を立てた人々の心の中までは判りませんが、私が特に興味を惹かれるのは、庚申信仰も含めた、日本の民間信仰の融通無碍ともいうべき性格です。庚申講の場合、祀られる対象の始まりは道家の神だったはずですが、それがいつの間にか帝釈天の使者とされる青面金剛になり、あるいは猿田彦になり、また白山大権現(?)になったりします。  

 お寺や神社でも、祀られる対象が自宗派の教義とは異なるものだなどという理屈は問題にしなかったのでしょうか。3年前に熊野に旅した折にもこれと似た感想を持ったことを思い出します。熊野本宮に参籠した一遍上人の悟りにつながる夢に現れたのは、阿弥陀仏ではなくて熊野権現でした。日本人にとって神仏とは、エホバ神や、アラー神のように厳しい戒律によって帰依者を縛り、帰依しない他者を排除する明確な像を持った唯一(と称する)神とは違い、いわば「神のようなもの」、「仏のようなもの」として、曖昧ではあるけれど人々を穏やかに包容してくれる何かだったのではないでしょうか。私自身は何の信仰を持ったこともなく、恐らくこれからも持つことはないでしょうが、我が祖先達のこうした、曖昧ではあるけれど、柔軟な神仏への接し方には、懐かしさと親愛感を覚えます。  

この懐かしさは私がまだ幼かった頃に、部屋の鴨居に小さな神棚を設けて、お正月になると礼拝をしていた若かった父の姿や、東京の下町にあった我が家の近くの庚申様の縁日に僅かな小遣い銭を母から貰って駄菓子を買いに行ったときの嬉しかった気持のかすかな記憶とつながっているように思います。(2004.6.29)

投稿広場・表紙へ