傘寿を迎えて        島田 正雄
 
 
  本日、傘寿を迎えた。病気がちで何度も死にかかった幼児期のころ、もう少し終戦が遅れていたら海上特攻隊の一員として戦死していたかもしれない青年期のことなどを思い出すと、よくここまで生き延びたものだと思う。
 

 思い起こせば、私の人生は幸運の連続であった。私は12歳のときに心筋梗塞で父を亡くし、38歳のときに次男を交通事故で亡くすなど、いくつかの悲劇に出会ったが、父の死は結果として私の自立心を伸ばすことになり(12歳でも長男は長男、一家の代表として行動せねばならぬ)、次男の死は結果として私に度胸をつけることに繋がっていた(子供の死で味わった苦しさに比べれば、大抵のことは恐ろしくない。思い切って決断できる)。  

 旧制佐野中学4年生のとき、篠崎校長の助言で旧制武蔵高校文科を受検し、試験科目に数学や物理がなく英語と国語だけだったので、一発で合格できたのも幸運だった。そして、東大法学部にも試験なしで推薦入学できたのである。戦時中なればこその出来事だった。  

 日本化薬に入社できたのもよかった。素晴らしい上司に恵まれ、私がやりたいことは殆どやらせてもらえた。前例の無いテーマに取り組むクセがある私に、思い切って任せてくれる上司ばかりだったのである。TPI(Todai Personality Index)を核とする人材育成会社(人材開発情報センター)を設立し、生涯の仕事とすることができたのも、やりたいことをやらせてくれた上司、それを支えてくれた部下や後輩、進んで協力してくれた外部の専門家、私にPRの場を与えてくれた企業研究会の存在など、お陰をこうむった人達は、数え上げたらキリが無い。  

 しかし、独立に当たって最も有難かったのは、「もし新会社がうまくいかなくても、生活費は私が稼ぐから心配しないで」と言ってくれた、妻(恵美子)の存在である。妻とは昭和28年以来52年余り連れ添っているが、私の給料では母や姉の生活費を賄えないのを知って、結婚そうそう音楽教室を開き、主婦と音楽教師の一人二役を立派にこなしてくれたのである。私にとって最大の幸運は、妻と結婚できたことであった。  

 妻の父は山形出身、母は宮城出身である。ともに地方の名家の出身であるが、そこが、とても「人情に厚く」「世話好きで」「思いやりがあり」「全力を尽くして働き」「周囲の人に奉仕する」という家風だった。こういう家で育った妻と出会って、本当によかったと思っている。80歳の誕生日に真っ先に駆けつけて祝ってくれたのは、妻の弟の夫婦であった。有難いことである。

 80歳ともなれば、やはり体力の限界を感じる。しかし、皆からは「とても80歳に見えない。その元気にあやかりたい」と言われる。それは、週2回のテニス、月2回のコーラス、2ヶ月に1回の料理など、身体を動かし、声を出し、食事に留意するなど、日頃の行動が役立っているのだと思うが、料理は別として、テニスもコーラスも妻の努力でできたクラブであり、私は妻を補佐する立場で有朋テニスクラブとコール有朋を立ち上げたのである。特にコール有朋は「心のハーモニー」に満ちたグループであり、地域でのボランティア活動をやっているが、年に数回、12日または2泊3日の旅をする。そこで、全員がホンネで話し合う。まさに大家族の交わりである。これがストレス発散とともに、団員の団結に役立っている。このように、私は妻のお陰で元気を保っていると言ってよい。  

 もうひとつ元気の原因は、78歳まで、企業研究会の世話人として一流企業の人事・教育担当者と交流できたこと、いくつかの会社に依頼されて、時々合宿研修のトレーナーとして若い現役ビジネスマンと寝食をともにしていることなど、実務社会との関係が、この年になるまで継続できたことが与っている。104日には、企業研究会のOB(現役の部長や役員クラス)からお声がかかって、私達夫妻がそろって出席して一緒に歓談する機会に恵まれたが、これなど普通では考えられない幸せである。  

 スポーツや文化活動など、「地域との共生」をテーマに努力することも、確かに元気の源となろうが、やはり、実業の世界から受ける強い刺激とそこで感じる責任感が、若さの源として極めて大切であると感じている。合宿研修のトレーナーからは今年の11月を最後に引退するが、今後も何等かの形で自分のノウハウを社会で役立てるため、企業内研修や人材育成の分野で活動したいと思っている。幸いにして、某人材派遣会社から教育顧問になってくれとの話があり、お引き受けすることにした。  

 少しでも社会の役に立つことがあれば、専門分野でも地域ボランティア活動の分野でも、過労にならないように留意しつつ活動していきたい。そして、今後の願いは「ピンピン、コロリ」である。[2005.9.27


 
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