玉置 彰宏 (阪南大学経営情報学部教授)
東京での勤めを辞めて関西に移り、大学の教員になって5年目に入った。関西では、勤め先の大学に交通の便が良いこと、千葉の留守宅にも便利なことなどから、奈良県橿原市(橿原神宮前)に仮の住居を定めた。そこが明日香村の隣町であるとも、理由の1つだった。そんなことから私は、今でもよく飛鳥に出かける。
春や秋などの気候が良い時、飛鳥は観光客で混雑する。若い二人連れ、小さな子供を連れた夫婦、中高年の個人とグループ、小学生から高校生までの遠足、……。男女を問わず、あらゆる年齢の人たちが、古代史のロマンとのどかな田園風景を楽しんでいる。
田園風景で言えば、春には梅や桜、レンゲやすみれ、タンポポが咲き、ヒバリがさえずる。秋は彼岸花と赤トンボから始まり、澄み切った青空の下で柿とミカンが鈴生りになり、木々が紅葉する。モズの鳴き声も聞こえる。
古代史のロマンで言えば、高松塚古墳の壁画に書かれているような若い女性がスカートの裾を翻して、当時の宮殿の中などを闊歩していた情景を想像しているのだろう。あるいは飛鳥川のほとりで、このあたりを散策するのが好きだったという皇極天皇を偲んでいるかもしれない。持統天皇の宮殿跡あたりから香具山を望み、彼女が見た"白妙の衣"はどのあたりに干してあったのだろうと考えているのかもしれない(写真1)。
しかしこののどかな田園も、1350年ほど前は命を懸けた、血で血を洗う権力争いの舞台だった。この地に関わりを持つ主な権力争いに、以下のものなどがある。
崇峻天皇の殺害(592年)
崩御した用明天皇(聖徳太子の父)の次に崇峻天皇が即位した。天皇としての政治への参画に興味を示さない人、と蘇我入鹿が判断したことから、この即位が可能になったのだろう。しかし即位後天皇は徐々に政治に関与するようになり、それを好まなかった蘇我入鹿は、天皇を誘い出して殺害した。
天皇が亡くなると、長い場合は2年ぐらいその死を悼む儀式が続くが、崇峻天皇の場合それは全く行われなかった。天皇は"平民"の扱いをされたわけで、これはたいへん異端のことである。
崇峻天皇の後は、蘇我馬子の姪に当たる推古天皇が、最初の女帝として即位する。
山背大兄王の自害(643年)
鳩は飛鳥から少し離れているが、蘇我入鹿はその斑鳩に兵を差し向けて、聖徳太子の子供である山背大兄王を襲撃させた。蘇我の血を引く古人大兄皇子を皇太子の地位につけたかったというのが、襲撃の理由である。山背大兄王は、一度は襲撃から逃れたが再び斑鳩の地に戻り、家族共々自害した。これで聖徳太子の血筋は途絶えることになる。
今残っている法隆寺は、時期的にこの時より少し下った頃に作られたものと言われている。山背大兄王の怨霊を慰めるため蘇我一族が後で再建したものと推察される。
大化改新(645年)
この地での権力争いの最大のものは、やはり大化改新だろう。これは立派な"クーデター"である。
当時権勢を誇っていた蘇我蝦夷(入鹿の子)を倒すべく、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が談山(「かたらいやま」と読む。飛鳥からさほど遠くない多武峰(とうのみね)にある)で密かに会って相談し、宮殿の皇極天皇の面前で蘇我蝦夷を切った。
これを契機に蘇我一族の力が弱まり、天皇を中心とする政治体制が確立されることになる。
蘇我石川麻呂の自害(649年)
大化改新では中大兄皇子側に立って、大化改新の成功とその後の改革に功績があった蘇我一族の石川麻呂が、今度は中大兄皇子側に攻められて、山田寺に家族共々たてこもり、自害した。
壬申の乱(672年)
大津の宮で天智天皇が崩御された後、天智天皇の息子である大友皇子(明治時代になって、"弘文天皇"とおくり名された)と、弟である大海人皇子が次の天皇の地位を巡って、激しい戦争をした。主戦場は近江の国のあたりだったが、飛鳥でも兵士が動員されて治安維持に当たった。
結果は大海人皇子が勝ち、即位して天武天皇になった。天武天皇は、都を飛鳥の地に戻した。
大津皇子の殺害(686年)
天武天皇には、その後を嗣ぐ立場に二人の皇子があった。大津皇子と草壁皇子である。母親はどちらも天智天皇の娘で、人柄などから大津皇子の方がより適任と思われていた。しかし草壁皇子の母親であるう野皇后(後の持統天皇)は自分の子供の即位を望み、理由を付けて大津皇子を殺害した。
彼女は、天武天皇崩御の後自分が即位し、持統天皇になった。草壁皇子は即位する前に亡くなってしまい、う野皇后の望みは叶わなかった。
殺される前に身の危険を感じた大津皇子は、伊勢神宮に齋の宮(いつきのみや)として仕えていた自分の姉(大伯皇女(おおくのみこ))を訪ねている。大津皇子が飛鳥に戻るときに大伯皇女が読んだ和歌が万葉集に残っているが、この歌は今でも、涙無しには読むことができない。
1350年の時間的な隔たりがあるとはいえ、今ののどかさと事件の深刻さの間には落差がある。この落差の大きさに、私は愕然とする。結局、持統天皇が自分の子供のライバルを殺しても殺さなくても、今の飛鳥ののどかさはなんら変わることがないだろう。他の事件も同様である。それでは1350年前の権力争いはいったい何だったのかと、私は飛鳥を歩いて考える。
永田町や霞ヶ関で、丸の内や大手町で、日本中のそこら中で、今もまだ権力争いが繰り返されている。今の日本の権力争いは、負けた方が命を奪われることがほとんど無いだけ、昔に比べるとまだ良いと言うべきかもしれない。しかし歴史に残る権力争いですら、時間の経過とともに跡形もなくなる。歴史にも残らない我々レベルの権力争いは、一体どんな意味を持っているのだろうか。
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写真1: 天武/持統天皇時代の宮殿跡のあたりから香具山(大和三山の1つ)を望む。 |
写真2: 甘樫の丘(蘇我一族の住居があったところ)から畝傍山(大和三山の1つ)と二上山を望む。持統天皇に殺された大津皇子は、二上山の山上近くに葬られている。 |