「犬も歩けば棒に当る」のを楽しむ

                         辻 淳二 

還暦を機に「原点回帰」

3月に還暦を迎えたのを機に、生き方を思い切って変えることにした。仕事のウエイトを週3回程度に減らして、浮かせた時間をこれまで思いはありながら手が付けられなかった興味の対象に向けるためだ。そのコンセプトは「文系的な世界で清遊」で、数年前に公私共に悩みを抱え自分を見詰め直している時に見えて来た。自分の生き方にひそんでいた窮屈さに気づいたという感じだった。私は、たまたま科学技術に追い風が吹いていた時代にコース選択の時期があって、理系に進んだ。だが、自分を素直に見ると、特に理系の色が強い訳ではないし、文系的なことへの関心や力も人並みには持ち合わせている。「とすれば、理系に偏った時間や頭の使い方をこのまま続けるよりも、文系的な方向にバランスをシフトさせた方が人間の一生としてはずっと収まりがいい」とフト気づき、上記のコンセプトに到達したのだった。

思索の過程で、最初の就職先のコンピュータメーカを退社して自立への歩みに入った30年代の半ばに、ごく親しい人たちに「30代までは技術、40代になったら経営、50代になったら社会科学分野、そして60代になったら文学の世界とシフトして行けたら最高」と喋っていたことを思い出した。その時、私を良く知っていてくれる人でさえ、「お前、その文学というのはウソだろう」とまるで信頼してくれなかった。私も、何か成算があった訳ではないから、あいまいに笑って過ごすしかなかった。上記の境地に立ち至って、あらためて「この方向は、自分にとって三つ子の魂的なのかも」と、後押しされる思いになっている。

 

「茫洋とした山」にどう分け入るか

コンセプトはいいとして、具体的に文系的世界にどう入っていくのか。これが、現下の最大の課題である。もう「余生の方が短い」歳からの出発なので、できることは知れている。そこで先ず、分野的には心理学と文学に絞ることにした。心理学については、今の職業(人材教育)に割に近い所に産業カウンセリングの世界があって、取りあえず昨年度に初歩の勉強をして産業カウンセラー初級の認定(労働省)を貰い、入り口には入っている。 こちらは、基本の勉強をしながらマイペースで前進していけばいい。問題は、憧れつつ足場が全くない文学へのとっつきである。残念ながら、「ある作家やあるテーマの資料を腰を据えて読んでいる」といったこともない。そこでやむなく、当面の日常生活の中で気の向くままに行動しそこで自分に何が近づいて来るかに頼ることにした。

 

何はともあれ「初動アプローチ」開始

ところが、その「犬も歩けば棒に当たる」スタイル、あながち捨てたものではないようだ。5月から行動開始して、いま2つの切り口から興味深いテーマが見え始めている。

1 勝元宗益から小堀遠州へ

 その一は、本HP5月号に書いた我が父方の実家の庭を造った庭師「勝元宗益」の話が入り口となった。 程なく、この話題の相方だった実家の従兄が調べて送ってくれた資料で、「宗益は、(当日の朝に私が訪ねた母方の実家のある)長浜市国友で生まれ、父方の実家のある五個荘で亡くなった県内では有数の造庭師」とわかった。それで好奇心を刺激されて、私自身も宗益について調べようと、書店でその分野の本の棚を見たり、近くの市立図書館で検索を試みたりを始めた。その時、実家の庭から連想したイメージは、(規模も格もまるで違うのだが)10年位前の家族旅行の時に浜松の三方ケ原近くのお寺で見た小堀遠州の庭園だった。そこで、彼とその庭園についても探索の対象にした。すぐに、何と遠州もまた近江長浜近在の小堀村の出身とわかった。こちらは、秀吉や家康に一目置かれていた武士で茶人で造園師だから、もっと全国区の人と思っていた。かくして、「近江にゆかりのある造園/造庭師の系譜を調べたら何か面白い発見があるかも」との仮説が私の頭の中に居を占めることとなった。

2 会津八一から良寛へ

  その二は、新潟の大学に通う中でたまたま買った地方紙「新潟日報」が道を付けてくれた。このキッカケは全く他愛なく、「新潟で買える夕刊はこれしかない」からだった。ところが、読んでみるとこの新聞、実にいい情報を私に届けてくれるのだ。一面の「当世希人(まれびとと読む)列伝」では乙武洋匡氏やホリヒロシ氏のような次代の担い手を取り上げ、「越佐の文化財(たからものと読む)」では日本史と越後・佐渡との繋がりを伝え、「家族漂流記」という連載物もリアルに取材対象の内面に迫っている。一日の仕事を終え気持ちが穏やかになっている時に読むせいか、心にスンナリと入ってくる記事が多く、今では帰路に必ず買うご贔屓になっている。

それが、6月初めに新潟でフリーな時間ができた時にフト思い付いて訪ねた「会津八一記念館」でさらに強固な繋がりとなった。会津八一(1881-1957、新潟市に生まれ、早稲田中学教頭や早稲田大学教授などを勤めながら、東洋文化、短歌、書などで独自の世界を拓いた)への関心は、四年ほど前に、仕事上でご縁を得てちょっと普通のお役人さんとは違う風格をお持ちで尊敬していたY省OBのHさんに発している。Hさんが70歳の節目に長年のライフワークの成果を上梓された写真入りの大和路研究の本に、「この道に導いたのは八一と堀辰雄だった」と書かれていた所からである。それが脳裏にあって、たまたま「持ち時間の2時間程度で行ける所」となった時に八一記念館を思い付いたという次第だった。館内に入って年譜に目をやって、「昭和21年、夕刊ニヒガタ創刊、社長就任」とあるのを見て、目が皿になった。直感で「夕刊ニヒガタと新潟日報は繋がっている」と感じたのである。早速、次に大学に行った機会に県の企業便覧を見ると、案の定そうだった。夕刊ニヒガタは3年後の24年末に廃刊になっているが、八一は翌年1月に(親会社の)新潟日報社の社賓となっている。かくして、一つの仮説が浮かんだ。「新潟日報の夕刊が、私を八一への関心に導いてくれようとしている」。

恥ずかしいことに、これまで八一について真っ当な知識を何一つ持ち合わせていた訳ではない。ただ、「独往」と呼ばれたという自立的な生き方には憧れを感じていた。「新潟日報は、私と八一を繋ぐ細い糸を太くする触媒役なのではないか」。そう考えて、記念館で買った随筆集「渾斎随筆」を読むと、八一は同県人の歌人良寛の影響を強く受けていて、その良寛の研究では早稲田で同期だった相馬御風がその第一人者だと書かれていた。何と、この稿を打っているパソコンが乗っている私の家の机には、亡き兄の蔵書から形見代わりに持ち帰った水上勉著「良寛」が置かれているではないか。どうやら、いろんな糸が一つに繋がり始めているようだ。

 

行きつく先は心の故郷?

一先ず、この二つが文学的な世界への入り口を私にもたらしてくれたようである。取り敢えず手繰り始めた本からだけでも、当面十分に好奇心は満たされそうだ。そこから、触発の赴くままにどんな道筋で探求が進んで行くのだろうか。ここまでの自分の直観がまま当たっている感じなのを信じて、目の前にある流れに乗って見ようと思っている昨今である。 [99.6.20]

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