「復旧途上の山古志村」訪問記      瀬川 滋
 
 
 
'04年10月23日午後6時頃、私は中学・高校の同期の還暦の集まりで淡路のホテルにいた。宴会中にホテルの支配人から「新潟で地震発生して新幹線が脱線」との一報が入った。参加者は神戸の出身だから皆何らかの阪神大震災被災者、全員驚天動地して大騒ぎしたことが忘れられない。死者67名、避難した住民は10万人。公称6434人の死者を出した阪神大震災とは比べ物にならないが、大変な災害だった。被災して11年経っても未だ完全に復旧していない神戸を思うにつけ、全村避難という未曾有の被害にあった旧 山古志村 はこの2年半でどこまで復旧したのか、大変気になっていた。

 そこに偶々、6月中旬に新潟に行く用事が出来た。梅雨の最中でもあり、山に入るのは無理。それではと、その山古志に出かけて中越大震災復興の状況を見たいと長岡の友人に相談したら、当人も 長岡市 に住まいながら行ったことが無いので是非行こうと応じてくれた。
 所用が終った16日午後、長岡駅前で落ち合った。山古志出身者で今から実家に帰るという若者が同行。彼の案内で長閑な田舎道を車を進める。少し工事をしている所があるものの、大地震の爪跡など微塵も感じさせないまま、山古志に入ってすぐにある彼の実家に到着。そこで、実は彼は 山古志村 の前々村長酒井省吾さんの息子さんと分かり、ここからは酒井さんも加わって案内してくれるという。

 彼の家から車を進めると、辺りは一変。山は地肌がむき出しになっていて、川は土砂で埋まっている。これでも、復興工事によって、山が崩れた所に吹き付けられた植物の種が緑を成してきているし、川も泥が浚われ結構きれいになってきているという。しかし、川原には、泥に埋まってそのまま放置されている、それも結構建てて間も無い新しい家屋があり、胸が詰まる。それに、あちこちの道路工事。単に崩れた箇所を復旧しているのでは無く、川沿いの低い所を走っていたのをずっと高いルートに変更して、新しく広い立派な道に付け替えているのが多い。川を跨ぐ橋では、以前架かっていた橋は泥で流され、少し高い所に新しい橋が架けられている。下の道路が1.5車線位と狭いのに対して新しい道はゆうに3車線程あり、新旧の対比が見て取れる。

 酒井さんの話によれば、これらは殆どが国の直轄事業で、地方でやっていたらとてもここまで早く、立派には復旧出来なかったであろうという。災い転じて福と成すということか。未だ角栄先生のご威光がきいているのかも知れない。

 地区の最南端まで行くと、昭和の初期に手掘りで掘ったという小さな中山隧道があった。壁面にはツルハシの掘り跡が残っている年代物だ。今は隣に新しい大きなトンネルが出来て使われてはいないが、地震でもビクともせず、地区外との行き来に使われたと聞いて痛く感激。


 また帰り際に、この辺で盛んな闘牛場を見てきた。村の鎮守の広場に静かにあったが、闘牛そのものは南総里見八犬伝でも紹介されている由緒あるものだという。地震以来暫く中断していたが、今秋には復活すると力強く言っておられた。

 このような復興の確かな兆しはあちこちで感じられたが、長岡の仮説住宅や親戚に避難して帰らない人、帰れない人も沢山いるという。これは神戸とて同じだが、特にこちらはお年寄りの比率が圧倒的に高いのでより深刻なのだろうと、複雑な思いで長岡に戻った。いずれにせよ、酒井さんのお陰で限られた時間ではあったが見るべき所は全て案内頂き、「百聞は一見に如かず」の貴重な見聞をさせて貰ったと感謝している。

(あとがき)

 先月は、月末締め切りの論文をかかえていて時間が取れず、山から帰ってすぐに紀行が書けなかった。何とか都道府県最高峰完全踏破の文のみを間に合わせたが、越後二山のを書くのは今月(7月)になってしまった。
 その文を書き終わった矢先に、新潟中越沖地震の報。あの山古志の復旧振りを見て来た直後だけに胸が痛む。そこで前半を書き直そうかとも考えたが、文はそのままにして本あとがきを書き加えた。それにしても、中越、能登半島そして中越沖と、この辺りばかり立て続けに発生している。東海だ東南海だと大合唱していた学者が最近は、新潟ー神戸ラインにプレートの歪エネルギーが溜まっていると言い出した。大地震があったので当分は来ないと思っている神戸の人間にとっては気が気で無い。地震予知に関する学問の進歩を期待する。それにしても、今回の地震の一日も早い復旧を望むものである。
 

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