年賀状の思い出 辻 淳二
年末になると、「今度の年賀状をどうするか」で頭を悩ませる。今年も、15日(金)を過ぎるまではノーアイデアだった。ようやく、この週末に短歌らしきものを2つ入れた文案を書き上げてヤレヤレという気持ちになって、新年号の高嶋編集長(小生とダブルで、今号は高嶋さんの番)に送る表記のコンテンツに向かい始めたという次第。
友人の版画賀状に感動したのが入り口
振り返って確かな記憶がある最初は、中学時代に、近所に住んでいて親しかった同級生のA君がとても上手い多色刷りの木版画の年賀状をくれるのに刺激されたことだ。時に自分も真似して版画にした年もあったが、いいものができた記憶はない。その後、就職をしてからも、独身の頃は暮れのボーナスを貰うとその晩にスキーに出かけて正月を雪の中で過ごすようなことをしていたから、年賀状は通り一遍だったと思う。次に思い当たるのは、結婚したりして出す枚数が多くなってからのことだ。その頃から子供たちが自分たちでも出し始めるまでの15年余りは、原則として「手摺りの木版画」を続けたと思う。暮れも20日過ぎになると原画を探し始め、仕事納めになった日の夜から彫り始め、できたら絵の具を塗り、馬連でこすって(これを、使った色の数だけ繰り返す)印刷する作業を夜なべして仕上げる。納得できる出来栄えには殆どならないのだが、「これをやらないと一年の最後が手抜きになる」ような気がして、拘って続けていたのを思い出す。
「まさに綱渡り」だった十数年
その後、四十四歳になって独立した所で、年賀状をめぐる局面が変った。それは、会社で出す賀状と家から個人で出す賀状との二本立てになったためである。ちょうど働き盛りということで、どちらも手が抜けない。そこで、12月の中旬になる頃に、先ず会社からの分の文案を決めて、印刷屋へ発注する。それが上がって来るまでの期間に、送り先の名簿を更新する。この年に新たに知り合った人を加え、会社や所属や役職が変ったのを更新し、印刷依頼した枚数内に収まるように送る人を絞り込む。当時は300枚前後出していたから、この作業は結構大変で、当時仕事のアシストをしてくれていたK夫人に多くを頼っていた。この種のデータをパソコンで管理する流れになって、名刺を読み取り機で読み取って直接データベース化することを試み、「・・会社の人の名刺の電話番号は小さすぎて、誤読が多い」とかの体験をしたのもこの時期で、懐かしい思い出だ。こうして更新した送り先名簿に基ついて、御用納めの数日前までにKさんに宛名印刷までして貰う。それからが、自分の作業だ。数日は、ドーンと300枚が私の机の上に積まれた状態になる。多くの場合、これに手が付けられるのは事務所の御用納めを終えてからだった。その日の夜は、一言裏書きをするのとそのまま出すのを仕分けるだけで終る。この段階で約半分くらいが出せる状態になり、これらをポストに入れて帰る。そして、明くる日に休出をして、残したハガキに裏書きをする。その間に、息抜きを兼ねて神楽坂の商店街に行くと、街ではもう道路脇に玉飾りや締めナワを売る出店が賑わっていて、事務所のドア口用に裏白を買い求める。そして、裏書きは結局一日仕事になって、全てを終えてポストに投函すると夜も遅くなっているというのがほぼ毎年、年によって違うがそれが大体、28日、29日頃のことだった。そして、これで年賀状のことが終らないのがこの時期のそれまでとの違いだった。会社のを終えて家に帰ると、家から出す賀状がまだ手付かずで残っているのだった。枚数にして100数十枚、ここまで押し詰まるともう印刷屋にも頼れず、しかも、せめて大晦日とその前日くらいは昼間は大掃除に当てたい状況で。
これをどう凌いでいたかと言うと、ある時期までは版画でやっていた。数日前に仕事で出かけた帰りに神保町のはんこ屋に寄って、既にゴム製の版画板に彫ってある図柄の中の一つを買っておく。そして、会社の裏書きを終えて帰った夜に、買い置いた白紙のハガキに昔からの馬連を使い、色を付けて印刷する。当然夜中になるが、粛々と進める。作業机の回りに、印刷を終えまだ絵の具が乾かないハガキがズラリと並ぶ。夜が白み始める頃に全部が終わって、それから手書きで宛て名書きをする(こちらはKさんに頼れないので、データベース化ができていない)。もの凄いスピードで、何枚か書き損じをしながら、朝の家族が起きてくる頃に住所録の最後のワ行の人が終る。それが多くは30日(時に31日も)の朝で、それから日野郵便局まで車で持ち込むのだ。それがしばらく経つと、版画が何ともマンネリなのに気付いて、変える方向に動いた。その後は、版画のところが俄か創りの川柳/俳句/短歌もどきを入れた挨拶文に替わった。この時は、版画を刷る時間がなくなるのだが、会社の賀状が終らないと頭がこちらに向いていないので・・もどきができていない。それを何か捻り出すのに、しばしの熟考(?)が必要になる。ところが、いざとなると何とかなるもので、時間切れ見切り発車ばかりだったが、「まあ、これで行こう」と納得する線までは行けた。その程度だから、殆どの人の目には止まらないのだが、年に数人程度、愚作に心を留めて下さる人があって、それも親戚とか旧友とかカウンセラーをしている人とか、思いがけない人から偶然会った機会に声を掛けられて、嬉しい思いができたのが救いだった。一方で、この10年来、小生の家からの年賀状は元日には着かないという後めたさを引きずっていた。
久々に「元日に着く」年賀状が出せた!
このパターンが、個人事務所をやっていた14年続いた。その後、今の日本フェニックスになってから、一部楽になった。会社のは、自分で原稿を考える必要がなくなったからである。それで、今年は家から出す賀状の原稿が早々とできてしまった。因みに、今度のは、以下のような文章にした。住所録も自宅用はほぼメンテできているので、久々に元日に着くように出せそうである。因みに、今度のは、以下のような内容にした。住所録も自宅用はほぼメンテできているので、久々に元日に着くように出せそうである。
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明けましておめでとうございます
新世紀のスタートに当り、皆様のご健康とご多幸を祈念申上げます。
昨年は、幸いにも身辺に大きな屈託ごとがなく、前年の私の還暦直後に生まれた孫娘が健やかに成長している姿に安らぎを感じつつ、つつがなく過ごすことができました。
図らずも 同スタートの 初孫と 食事忘れて 遊べる幸せ
個人的には、仕事の日数を減らし自分の時間を増やしたのが当り、春から秋にかけては新潟の大学に通う機会を活かしての良寛ゆかりの地めぐり、関西へ出かけるついでの小堀遠州の庭園/茶室探訪、秋からは週一ペースの健康気功教室通い等、新しく追い始めたテーマに向かうことで「幼児に戻ったような感動」に多く出会えた一年でした。
今年は、20年余り暮らして劣化が進んだ我が家を建て直すことが前半の大きな課題となります。「断熱と通気が良く、快適感が高い」家に替え、余生を心身ともに穏やかに暮らせるようにと願ってのことです。そのため、1月中旬から6月末頃まで、近くに仮住まいをします。その間も、TEL/FAX(=042-593-4430)はこれまで通りです。
我が庵 冬ともなれば 寒さ沁み ラストチャンスの 建て替えに動く
この一年も、変りないご指導・ご支援を賜りますよう、よろしくお願い申上げます。
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一方で、一つだけ悩ましい問題を抱えている。会社の方で、去年まで裏方を支えてくれたKさんを頼れない状況になっていて、送付先名簿の更新ができていないのである。年賀状絡みで身の回りの変化が実によく見えたのは、私が50代になった頃から、同年代の人の組織や役職の異動が激しくなり始め、数百人の送付者の中で変更のある人の比率が相当高くなっていることがある。今年もその流れは変らないから、ちょっと梃子摺りそうなのである。
こう振り返ると、「ほとんど自己満足の世界」と苦笑するばかりだが、いくつか懐かしい思い出や出会いもあって、結局はこれからも“ちょっとした悲喜こもごも”劇を繰り返して行くのだろう。[2000.12.17]