忘れがたい想い出二つ         新田 謙治郎

 

  課題を貰ったのを機にこれまでの自分の人生を振り返って見た。「人生の転機」を「生き方や考え方に大きな影響を受けた出来事」と捉えてみると沢山のことが思い浮かぶ。

・ 小学校五年の時無二の親友を得たこと。(彼から、「一緒にヴァイオリンを習わないか」と声をかけられたのをきっかけに親しくなり、彼の影響で音楽、スポーツ、勉強への目が開かれた。)

・ 高校一年の時喀血。三年間の療養生活を余儀なくされた。(その間に多くの友人が大学に進学して行くのを眺め悔しさを味わった反面、読書、音楽鑑賞、絵画鑑賞などを通して自分の世界が拡がった。)

・ 三年休学のあと戸山高校に編入。(東京の高校へ転入しようと試みたが何処も転校手続きを受け付けてくれず、やっと都立戸山高校で拾ってくれた。このことから自分がいかに田舎者のお山の大将であったか思い知らされた。)

・ 大学でオクトパスというコーラス・グループを作った。(学部、学科の違う8人の仲間はその後も生涯を通じての良き友人となった。又その活動を通じて社会にも大きく目を開かれた。)

・ NECに就職。(いくつかの会社から誘いの声が掛かったが、知人の全くいないNECを選んだ。これが正解だったかどうか解らないが、その後の自分を決定づけたことは確か。)

・ 家内との出会い。(これは大正解だったと自分は思っている。受けた影響は山ほど。)

・ 新しい家族の誕生。(彼らの存在は私の世界を何倍にも広げてくれた。)

・ 社内での仕事の転機。(大きな配転が四回あったが、その都度鍛えられ、自分の成長に役立ったと思う。)

・ 甲状腺の摘出及びそれに続く十数回のリンパ節腫の摘出手術。(特に開胸手術をしたときは三ヶ月半も声が全く出ず、どん底に突き落とされた気分になったが、運良く切り抜けることが出来た。)

・ 6年間の米国駐在。(苦労も多かったが、私の人生をより豊かなものにしてくれた。)

・ 一年半にわたる闘病生活と復帰。(これに関してはこのホームページの「難病から復活」記で紹介済み。)

  この中から何を選ぶか、なかなか焦点が定まらない。そこでタイトルを勝手に拡大解釈させて貰い、崖から飛び降りるつもりでぶつかったことから道が開け、世界が広がった忘れがたい出来事を二つ紹介して本題に替えさせて頂くことにした。

 その一つ。大学入学後、柏葉会という混成合唱団に入団した。女性は東京女子大、日本女子大、実践女子大などからの参加で、まさに合ハイ気分の合唱団だった。一学期はそれでも結構楽しくやったが、次第に物足りなくなった。「ただ歌って楽しむだけの学生生活を送って良いものか」という疑問が次第に頭をもたげ始めた。偶々歌い慣れた男8人でダブル・カルテットを結成していたので、その疑問をみんなに投げかけて見た。侃々諤々の議論の末、5人の男が柏葉会を脱会した。

 活動の目的を「唇に歌を、心に太陽を」をモットーに、僻地の小中学校、少年刑務所や鑑別所、らい病村、開拓村の青年団などを訪問し、「歌う喜びを分かち合おう」ということにした。まだテレビも普及していない時代だった。残り3人は個人的なつてでスカウトして、8人のメンバーが揃った。蛸の足にちなんで「オクトパス」と名付けた。

 初めの内は全員意気揚々で熱心に練習した。茨城県の山奥の僻地の小、中学校をテスト・ケースとして訪問し、子供達や先生方に大歓迎されたことも励みになった。

  しかしながら何としても素人の集団だった。私の指導力ではあるレベルから抜け出せなくて、いくら練習してもそれ以上にうまくなれなかった。練習にも力が入らなくなった。グループ存続の危機だった。そんな時偶々通りがかった渋谷の斉藤楽器店に「東京コラリアーズ練習場」の看板がかかっていた。「東コラ」は当時唯一のプロ男性合唱団で、藤原歌劇団指揮者の福永陽一郎さんが指揮しているのは知っていた。

  思わず楽器店に飛び込んでいた。藁にもすがりつく思いだった。「福永さんなら適当な若い指導者を紹介してくれるかもしれない」との思いがあった。練習が終わるまでドアの外で待っていたら、福永さんが真っ先に部屋から出て来られた。あわてて自己紹介をし、オクトパスの活動目的を簡単に述べ「貧乏学生でたいしたお礼も出来ませんが、どなたか若い指導者を紹介して頂けませんか」とあつかましく訊ねてみた。しばらく考えていた福永さんの返事は意外だった。「一度私が聴いて見ましょう。」

  次の週、練習会場の池尻幼稚園で私達は緊張して先生の前で練習を始めた。しばらく聴いていた先生が立ち上がって手を振り始めた。まるで魔法の指先に操られるように、私達は今まで経験したことの無いような表現豊かな声を出して歌っていた。練習が終わって恐る恐る「あのう。どなたか紹介していただけますか?」との問いに対する答えが仰天するほど意外だった。「私が指導しましょう。お金は一銭もいりません。」
  その日の感激を今も鮮明に想い出す。それから約2年間先生は無償でオクトパスを指導して下さった。先生のお陰で私達の歌も、聴く人に喜びを感じて貰えるレベルに達していたと自負している。アルバイトでお金を貯めて私達は休みを利用して九州から北海道まで演奏とそのあとの語らいの旅を続けることが出来た。

  釧路の少年鑑別所では、夜少年達と車座に坐って夜の更けるのも忘れて、大声で歌合戦をやった。山部の開拓村では、青年団の人達と小学校の講堂で夜が明けるまで、語り明かした。熊本県の人吉では、水上勉さんに紹介して貰った旅館の主人が旅費も旅館代も自前という私達の活動に感激して、朝から名物の鮎の塩焼き、昼にはこれ又名物の人吉ソバを御馳走してくれた。楽しい想い出がいっぱいなのも、福永陽一郎先生の指導のおかげと感謝している。それも恐れを知らずにぶつかってみた結果開けた人生だった。

  無念なことに福永先生は10年前64才の若さで他界された。心からご冥福をお祈りする次第である。

  もう一つ。昭和56年ある社員の都合がつかなくなってピンチヒッターでドイツでの学会Eurographics に参加した。当時の事業部長が「多分一人で出張できる最後のチャンスかも知れないから」と言って送り出してくれた。おかげで学会のみならず企業、研究所、財団、ソフトハウスなど勝手に訪問し、プライベートな生活も充分楽しんだ。

  出張に当たっては事業部長に何かおみやげをと考えていた。それはNECの主要ユーザを連れてヨーロッパに研修旅行出来る下地を作ることだった。当時NECはハネウェルとの契約が切れて、それまでのように米国に研修に出かけるユーザに対してハネウェルやそのユーザを訪問するつてが無くなっていた。ユーザからは「IBMと付き合うと世界に目を開かせてくれるが、NECは何も機会を与えてくれない。」との不満が渦巻いていた。そこで訪問先ごとに「研修ツアーの可能性」につき、質問してみた。「OA」「FA」「CAD」「ソフトウェア・エンジニアリング」「プロジェクト・マネージメント」など、その当時話題になっていたテーマなら何でも良いと言う投げかけだった。

  ドイツの財団とフランスの大きなソフトウェア会社が、積極的に協力すると約束してくれた。後者など“Answer is YES !" と言って立ち上がって握手してくれた。

  偶々パリの郊外で国際見本市 SICOB が開かれており、併設してcongress de Paris で延々と一週間も続く国際情報処理学会が行われていた。米国のIEEEE や ACM は敷居が高いのでもっと気楽に若い人を送り出せる学会では無いかと思い、覗いて見た。受付においてある二冊の Proceedings の内一冊を取り上げて目を通し始めた時、一人の男がやって来てもう一冊を熱心に読み出した。その男が突然「この Proceedings を見た感想はどうだ」と聞く。「良いのもあるが、くだらないのも多いね」と応えると「全く同感だ。但しこの論文は良いから、是非読んで見ろ」と言う。それは本人が書いた『スェーデンにおけるOA化の現状』という主旨の論文だった。面白いと思ったので「30分ぐらいコーヒーを飲まないか」と誘った。男はAdedata 社の B.Ericson と名乗った。そこで私はNECが置かれている立場を説明し、協力の可能性を訊ねた。「是非協力させて欲しい。」と彼は云った。但し Adedata 社が如何なる会社か解らないので、帰国次第会社概要を送ってくれるように頼んだ。帰国後すぐ手紙が来た。たった4人のコンサルタント会社だった。

  とにかく手応えのあった三社に「どうゆうテーマで、どんなところを訪問させてくれるか。費用はいくらかかるか」を見積もって提案してくれるように頼んだ。一番反応の良かったフランスの会社からは何の返事もなかった。ドイツからは「FA」をテーマに選び、費用は600万円余りだった。一方、Ericon からは「見も知らぬ小さな会社を信用し提案の機会を与えてくれてありがとう」と前置きし、「OA」をテーマに選び、費用も300万余りに過ぎなかった。驚いたのは訪問先で、Skanska(スェーデンでもっとも大きい保険会社)、Volvo、Bank Nationale de Paris, スイスの国連機構や原子力研究所など、日本ではとてもアレンジ出来ない一流どころが準備されていた。

  三ヶ月後、事業部長を幹事とする住友グループの情報システム部長クラス5人を率いた研修団をストックホルムに送り出した。着いたその日から16世紀に出来たオペラハウス地下の泰西名画に囲まれたレストランでスモーガスボードを御馳走になり、翌日は船で海を渡って王宮の一室を借りて『ヨーロッパにおけるOA化の現状と将来』をテーマに講演して貰うという心憎い対応をして貰ったようだ。この日だけでユーザは帰ってからの出張レポートの準備が出来、あとの旅行がずいぶん楽しいものになったと後で聞いた。
  帰国後の研修団の報告会で参加者から楽しかったと興奮した話を聞き、「やって良かった」と胸をなで下ろしたのを憶えている。話はそれで終わらず、「Ericson 夫妻 を日本に呼ぼう」と誰かが言い出した。(Ericson の奥さんは Adedata社の秘書役だった。)結局NECが半額、ユーザが半額受け持つことで彼らの来日は決まった。NECやユーザ先で講演しながら、京都、大阪、和歌山のユーザの自宅に泊めるという徹底したサービスに Ericson夫妻も感激して帰って行った。

  後日、私自身がストックホルムに出張したとき、彼の家に泊めて貰った。当時中学生の娘Anne と小学生の息子Thomas が一緒に加わって翌日の市内見学にも付き合ったくれた。最近のクリスマス・カードはカードに書ききれない内容をEメールで送ってくる。Anne はストックホルムの大学院を出て、すでに結婚し海洋研究所の勤めている。Thomas はケンブリッジ大学を昨年出てストックホルムのボストン・コンサルティングに勤めているとか。添付した写真を見ると立派な大人で昔の面影はない。いつも「奥さんと一緒にストックホルムと別荘のあるデンマークにいらっしゃい。」と書いてある。もう少し健康に自信が出来たら、是非訊ねたいと思っている。

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