人生の転機                  高村 賢治

 

1 誕生

 1948年2月20日に麻布で生まれた。
 生まれたとき 、父は母に腕時計を贈ったそうである。

2 相撲見物

 いくつの年か忘れたが、父に連れられ蔵前の国技館に花相撲を見にいった。双葉山びいきの父は時津風部屋を応援しており、鏡里や潮錦を見た記憶がある。私はその後近在で相撲博士の異名をとり、きれいなお姉さんがいてテレビを所有している家を訪ねては、解説料の煎餅を食べながら相撲観戦をした。もちろん、相撲の実践も大好きで、内掛けが得意。格闘技の魅力を十分に知った。

 父から教わった都々逸

  相撲 双葉山 何良くて 惚れた 土俵帰りの 乱れ髪

3 少年野球チーム

 小学校5年生のとき、近所に「コーセイジャイアンツ」という少年野球チームが誕生し、初めてユニフォームを着て野球をやった。ポジションはセカンドで2番。上手ではなかったが、チームができたてで選手が少なかった。確か長島が巨人に入団した年だった。「物干し竿」で有名な藤村富美男びいきの父の影響で阪神ファンだったが、誕生日が同じ長島は別格のひいきとなった。なにはともあれ、チームプレー、チーム練習を体感した。

 誰からか教わったジャンケン

    野球 す−るなら こういう具合に しやしゃんせ
   アウト セーフ ヨヨイガヨイ

4 初恋

 小学校の同級生に頭が良くてかわいい子がいて、好きになった。
 6年生の最後の学芸会の出し物は「安寿と厨子王」だった。
 彼女は当然、安寿役。私は安寿をのせて厨子王達と別れていく鬼船頭。

 別れず一緒の方向に、と泣いて頼む彼女に

   「人買い舟の船頭が、女の涙で誤魔化されるか!」

5 手術

 初恋は淡雪のごとく消え去り、毎年好きな子ができた中学時代。男女共学は必ずしも賛成できない。
 3年の時は別なクラスの子が好きになった。夏休みの講習でクラスが同じになり大喜びで帰ってきた日の夜、盲腸が痛くなり入院して手術となった。手術後3日目に、病院の屋上でキャッチボールをしたのが悪かったのか、キズが開き2週間もの入院となってしまった。退院したとき、夏休みの講習は終わっていた。

 身体髪膚これを父母に受く、云々。不孝は不幸に通ずることを自覚するほど明敏ではなかった。ただ、アンラッキーを嘆いたのみ。

6 剣道

 高校に進んで剣道部に入った。昔からチャンバラごっこが大好きだった。  明治維新の頃の志士の話を夢中になって読み始めたのも剣道がきっかけと思う。下駄をはいて学校に行き、なまけの森で昼寝をし、代返を頼んで仲間と映画を見に行ったりした。わけの分からぬ自負と気取りの青春時代の始まりとなった。

 高杉晋作がモデルと言われている大好きな歌

  こりゃどうじゃ 世はさかさまとなりにけり 乗った人より馬が丸顔

7 異国の女(ひと)

 大学3年の夏休みに、留学生がいったん所属する国際部主催の超低価格の英会話講座に参加した。講師はスタンフォード大学のバロンティア・エーシア(アジア奉仕団)クラブ所属の美人女子学生。日本のことを誰も話さないので、英語力を省みず話した。講座も終わり、九月になり、すっかり忘れた頃に、ゼミの研究室に電話がかかってきた。「日本と日本語を教えて欲しい」とのことだった。

 谷中うぐいす紅梅花 へなちょこ男子は死んでも良い

 剣道を捨て、学業を捨て、恋の奴隷となりました。

8 卒業

 ゼミの担当教授は日本の相対性理論研究の白眉とうたわれた富山小太郎先生。風貌人格とも大人の趣。物理を全く勉強しない私のような学生でも、その学識の深さが自ずと感じられるような教授だった。
「卒論は12月に表紙を書き、1月に裏表紙。2月になったら、何かしら中身を一緒に考えよう。」
さすがは尊敬する富山先生!!!
しかるに、しかるに、九月になったところでご病気入院。

 雁は鳴いて南の空に飛んでいく。赤城の山も今夜かぎり。

 かわいい4人のゼミ友達とも別れ別れになる門出だ。トホホ。
卒論発表をどうやって切り抜けられたのか、今もってさだかでない。

9 就職

 怠け者は就職に関しても同様だ。就職担当教授にどこか小さいところで良いところはないでしょうかと尋ねると、昨日面白そうな社長が挨拶に来たが、訪ねてみるかとのお答え。訪問してみると、お昼に応接でカツ丼をごちそうになった。
 一宿一飯の仁義を忘れずが信条。試験を受けたら合格となった。

 しかし、縁とは不思議なもので、就職してみるとその会社の会長は、昔、父の非常に親しい部下の一人だったことが分かった。内定した段階で父に電話があったが、話せば就職をやめる性分だから話さずにおこうということになったらしい。

 聞いていればその通りにしたに違いなく、その会社で学べたことを考えると大人の判断に感謝しなくてはならないと思う。

10 結婚

 相手変われど、主は変わらず。好いて好かれて好かれて惚れて惚れて振られることばかり。恋の奴か仕事の鬼か、怒濤にして悲惨の青春のさ中で、尊敬する先輩の一言。
 「高村。人を好くということは、好きだと言う事じゃない。相手が自分を好きになるような工夫をする事だ。好いている人間に好かれることが幸福なのだ。その幸福を与えてやることが、その人を好くということだ」

  孫子、六韜の兵法の真髄を一夜にして獲得した翌週、家内を飲みに誘った。三日後別な先輩に、今度結婚しますと報告した。三日前に会ったばかりと聞いた先輩は「早すぎませんか」とおっしゃったが、不思議な確信があった。赤い糸とはそういうもののような気がする。

11 父の死

  新婚旅行先は宮城の鳴子温泉。宿に着き、風呂に入り、無事についたと連絡すると、父が倒れたという。連絡しようか迷っていたとのこと。その場で宿をキャンセルし、夜行列車に飛び乗って帰京した。その父はちょうど1年後の11月になくなった。
  訃報を知って、初七日も過ぎてから訪ねてくださる方や、お手紙をくださる方から、父の生き様を改めて教えていただいた。

 父が死に明治は遠くなりにけり というのが回想の実感だが、当時は反抗した不孝ばかりが思い出されたものだ。

12 娘の誕生

 父の死から2年、昭和53年に長女が生まれた。出産直後、妻は脳梗塞に見舞われた。三日後の結婚宣言をした先輩の弟さんが脳形成外科の先生で、静岡から駆けつけてくださり、産院から大学病院への転院をすべて手配してくださった。そして、助かっても半身不随といわれた状態からの奇跡的な復活。妻は溺愛に近い愛情を傾けて娘の育児にあたったが、むべなるかなと思う。

 生死幽明の境は確かに紙一重と思う。当時の心境は、妻が死ねば自分もと堅く思いこみ、私の母も子も眼中になかったのだから、今思うと恐ろしい。無責任男の代表になるところであった。

13 独立

 11年お世話になった会社をやめて独立したのは34才の時。入社時には割と身近に感じられた社長からどんどん引き離され、同じ会社に居る限り到底追いつけそうににないと感じたことが主たる理由だった。自分が入社したころの社長と同じ年齢にしてこの経験値の不足。技術屋と経営者の違いから当然といえば当然なのだが、納得はできなかった。

 さて、今の時点で考えてみて経験値は増えたのか?何とも言えないところが人生の面白いところなのだろう。

 西郷隆盛流に言えば、人一人のなし得ることは、どう転んでもたかが知れているという事だと思う。

14 長男の誕生

 独立した年の翌年、昭和58年に長男が誕生した。長女の事もあって、喜びは大きかった。自分が生まれたとき、母に時計を贈った父の気持ちがわかる気がした。男にこだわりを持つのは旧時代性の象徴と言われそうであるが、男が男の子に、女が女の子にこだわるのは自然なことで、今でも女が男の子にこだわりをもつことが旧時代性の残滓なのかも知れない。ともあれ、独立後の事業確立への闘志がいやが上にも高まったのは確かである。

15 官憲との戦い

 長男はとにもかくにも成長が遅かった。2才をすぎてもウンともスンとも口を利かない。腰や首のすわりも遅いし、療育園通いも勧められて、通ったりもした。しかし、私の目から見るとすべての面で順調確実に成長を遂げていた。ところが、小学校に上がるときに、市当局から普通学級でなく養護学級にあげた方がよいという勧告が来た。あの坂本龍馬も12才まで寝小便が直らず、泣き虫で知恵遅れと言われたことがあるのだ。成長は個人差があると断固市当局の勧告を拒否した。

 その息子は高校2年で、柔道の初段もとり、英語検定の準1級に合格し、スキー部の部活を満喫する家内自慢の子となっている。ステレオタイプの診断しか下さない雇われ医者と市当局にこれほど腹を立てたことはなかった。

 もちろん養護学校の方がその子のためになる場合もあることは確かだが、小学校の3年くらいまでは、振り分けをすべきではないと思う。

16 バブルの崩壊

 独立後順調な成長を遂げてきた会社は、10年目にバブル崩壊の影響に遭遇した。売り上げがほぼ1年で30%近いダウンとなった。景気の荒波を経験していない経営者はもろいというが本当である。希望退職を募るという思い切ったリストラ政策で生き残ったが、正しい政策だったとは言い切れない。政策の実行は薬と同じで、当座の薬効と後遺症と二つながら量りにかけなくてはならない。当座の事ばかりに目がくらんだ政策は臆病者なら誰でもとれる政策である。
  リスクテイクを恐れない最もバランスの良い政策決定が重要であることを学んだ。

17 水泳

 子供たちのスイミングスクールがきっかけで家内が水泳を始め、金づちを克服した。そして、私も誘い込まれて水泳クラブに加入した。一時期は4人家族全員の関心が水泳にあることになり、絆は深まった。そして、家族の初めての海外旅行が世界水泳マスターズカップに参加する旅で実現した。通常の観光旅行とは異なる味わいが得られたと思う。心身双方のリフレッシュの重要性を実感した旅であったと思う。
 それまでは典型的なワーカーホリック病患者であった。

18 母の死

 バブル崩壊の悪戦苦闘のさなかに、母が亡くなった。父と同じく自宅でなくなり、同じ町の先生に死亡診断書を書いていただいた。死ぬ直前のひと月ほどは、父の妻として半生を過ごしたことが何よりの誇りだと何度も聞かされた。家内がそう言ってくれる筈もないが、せめて悪くはなかったと言ってくれるほどには努力しなくてはと思う。それはさておき、息子としては、母がいないということは絶対の支持者がこの世に居なくなったことになる。寂しきことなり。

19 歌会

 学生時代に始めた和歌は全く自己流で好きに詠んでいたのだが、2000年のミレニアムを機に歌会への参加と歌の同人誌への寄稿を始めた。動機は銀婚記念旅行の旅日記を歌でつづって贈ろうと志した事にある。生地のままではなく、多少なりと推敲したものにして、贈ることができればと考えた結果だ。始めてみれば、残りの人生の彩り、新しい風には十分なってくれそうな魅力がある。もちろん目指すところは職業歌人の歌ではない、市井の歌詠みの歌だ。歌の世界の復活で潤いが得られるならば、それを日常のマネジメントにも生かしていきたいと思っている。

20 あとがき

 人生の転機とはすなわち、心の転機でもあると思う。幼い頃から現在までの心のありようで鮮明な印象を持ち続けていることを一つ一つあげていけば、それも人生の転機の叙述になるかと思って始めたが、結果は出来事の回顧録のようになってしまった。しかし、心の転機となるような出来事はこれからもまだまだあるはずで、この稿を書いているうちにそちらが楽しみになってきた。その意味で、是非にと寄稿を勧めていただいた辻さんと高嶋さんにお礼を申し上げたいと思う。記述の内容は心の転機なので、私小説風の事実まで取り上げることになってしまったことをご容赦いただければと思う。

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