私の人生の転機         高嶋 宏尚

                                           

 4月号に「人生の転機特集」を企画してみたのはいいのですが、折からの年度末、文字通り山積する課題に四苦八苦、昼夜土日のない状態が続いています。とはいえ、発案者が何もしないのでは諸兄姉に申し訳が立ちません。そこで大幅に手抜きをすることとしました。

  これまでの50年余りのわが人生を振り返って見て、「この時から何かが変わった」「これが後の人生の切っ掛けだった」と思えることを箇条書きにし、若干の感想を付け加えることでご勘弁いただこうというものです。

1 中学校で野球部に入ったこと

 小学校卒業までは腎臓を悪くしたり、駆けっこをすると顔が真っ青になったりと、ひ弱な子供でした。キャッチボールすらろくに出来なかった自分が、中学でスパルタ式練習で有名だった野球部に入ったのも自分の意思ではなく、父親に半ば強制されてのことでした。が、毎日反吐を吐くほどしごかれて、「殺されたって死なない」と思える程に丈夫になりました。この点は父親に感謝しなければなりません。中学以来、大学でも社会人になってからも野球を続けた訳ですが、「公正なルールの下でフェアに闘う」という精神を学んだことも自分の人生の中では大きな意味をもつことだったと思います。

2 北海道大に入学したこと

 農学を学んで冷害に強い稲を作って農家の人達を楽にさせたいとの思いで北海道に渡りました。クラーク先生の「Boys be ambitious」の言葉がとてもよく知られていますが、先生は「金や名声といったむなしいもののためにではなく、人間として当然なすべきあらゆることのために」大志を抱けと言い残していたことを知りました。以来、いまだに「人間として当然なすべきこと」とは何かを模索し続けていますが、確かな答えは見つかっていません。ただ、もともとそういった才覚は持ち合わせていなかったからだとは思いますが、「金や名声」を求めたことは一切なかったと思えます。クラーク先生の言葉はやはり大きなインパクトがありました。

3  大学で農業経済学専攻になったこと

 2年間の教養過程が終了すると専門課程に行くことになりますが、当時は教養での成績のいい順に希望の学科が選べる仕組みになっていました。2年も留年を繰り返し、最低の成績で専門課程を選択することになった訳ですが、稲の品種改良などを学ぶ希望を持っていたので当然「農学科」に希望を出しました。最低の成績でも、学生にまったく人気のなかった「農学科」には楽々は入れる筈でした。しかし、教務からの通知は「農業経済学科」となっていたのです。思えば、進級に必要な単位はやっと取得したものの、自然科学の実験の単位は取得していなかったのです。品種改良や土壌の成分などの研究をしようとする者が、フラスコやビーカーの扱いなどの基本的なことを習得していないのは問題があるのでしょう。自然科学の実験の時間は野球の練習の時間と重なっていたので、何のためらいもなく野球を選んだのでした。

 大学入学時には考えてもいなかった「農業経済学科」への進級で自分の人生の道は大きくかわってしまいました。大学に残るか、北海道の農事試験場などで長靴に白衣姿で稲の穂などをつまみあげ「ウーム、できが悪いな」などとやっているのが自分の将来の姿の筈だったのです。
 農業経済学科を卒業したことで就職先は金融機関になりました。これも殆ど自分の意思というより、売手市場の就職戦線の時代でしたから、何度も農林中金から是非来てくれとのアプローチがあり、大変不遜な態度ですが「しょうがないなァ、そんなに言うんなら行ってやるよ」というような調子でした。 

 農林中金に入ったらお札を数えるものだとばかり思っていたのでしたが、大違いのシステムの世界でした。以来18年間もシステム部に在籍することになってしまいましたが、この期間は金融機関というよりソフトウェア会社に勤務しているような感じでした。しかし、システム部に永く在籍したおかげで、研究会の何人かのメンバーとは一緒に仕事をする機会があり、いまだにお世話になり続けています。

 その農林中金も昨年10月には退職し、投信会社である「農林中金全共連アセットマネジメント(株)」に転籍いたしました。これも自分の人生の大きな転機である訳ですが、このことについてはまた別の機会にご報告したいと思います。

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