転進、私の場合の成功要件 辻 淳二
還暦が近くなった頃から、世の常の通り学校や職場関連の同窓会的な集まりが増えた。そういう場で自己紹介をする際に「自分は二回、所属する組織を百分の一規模にスケールダウンした人間」という話し方をすることがあって、まだ「俺もそうだ」という人に出会っていない。いま「転機」という特集テーマを貰って、それを「自分の生き方に揺さぶりが掛かった大きな節目の時」と捉えれば、それはやはり「スケールダウンした二回」ということになる。その一回目は34歳でNEC(株)を退職して(社)日本能率協会(JMA)グループに転じた時、二回目は44歳で同グループを離れて自分の個人事務所((株)辻システム計画事務所)を始めた時である。
上記の転進は、結果オーライ気味ながら“成功だった”といってよいと思っている(その後、56歳の時に目論み当会の多数の人にもご迷惑をおかけした事業のリフォームが失敗で、この種の転進の試みは私の場合“2勝1敗”となっている)が、いま二つに共通の成功要件と思うものを洗い出すと、次の4項となるようだ。
1 所属する組織で「一仕事はしたな」との確かな手応えがあった
2 次のステップが(一応は)見えていた
3 次のステップに進むために“一途に”なれた
4 気持ちが“明らかに上向き”の時だった
つまりこの4つが、私の場合の「転機に勝つ要件」ということになる。そこで本稿では、これらについて自分の実体験を記し、他の皆さんとの論議の話題に供したいと思う。
第1項: 所属する組織で「一仕事はしたな」との確かな手応えがあった
先ず、第1項に関して言えば、第一回目の時のNECでは、SE(システムエンジニア)として「ズシリとした現場仕事」をさせて貰ったと認識している。ハイライトは、在籍11年の半分近い期間に渡るご縁になった川ア製鐵・水島製鉄所の当時のドル箱・厚板圧延工場を操業する「リアルタイム生産指示/管理システム(客先ではLC=ラインコンピュータと呼んでいた)」構築の現場体験だった。このシステムのイメージは、昨年11月日経朝刊の『私の履歴書』で椎名武雄元日本IBM社長が「社長在任中、受託メーカーとして実現までに自らも胃を悪くするくらい苦労した一つが新日鉄の君津製鉄所のAOL(All Online System)」と書いておられたが、このシステムの川ア製鐵版と言ったらお分かり頂けるだろう。
このシステム構築における私の仕事で今でも鮮明に覚えていることを、ハード/ソフト両面から一つずつ上げると次のようになる。
先ずハード面では、IT(情報技術)ならではのハイテク性を活かす方ではなく、むしろローテクに属する部分に関する苦労が思い出深い。当時(1970年代後半)は、コンピュータにオンライン接続されて生産現場に設置されるディスプレイやプリンター等の多岐に渡る通信端末機群のいずれをとっても、鉄粉のある現場で24時間連続稼動に耐えるという実績が全くない時だった。そこで、システムを受託したNEC側で顧客との窓口役を担うSEだった私にとって、「過酷な設置環境でも実用に耐えるコンピュータシステム」を実現すべくNECの工場側の技術部門に特殊仕様の機器(それも、端末機本体のみならず、それを鉄粉から保護する防塵ボックスやそこに冷気を送るダクトまでを含む)を多岐に渡って作って貰い、稼動後は自社の保守部門にNECの標準製品と同様に保守して貰えるように交渉することが重要な任務となっていた。これらの交渉は、当時はまだ“NTTの子会社”的な色合いが強く民需への体制が手薄だったNEC社内において、スンナリと工場側に受け容れて貰えるものではなかった。むしろ、案件の固有性から「これは、二回で説得できそう」「これは、三回以上かかる覚悟で・・」等々と筋読みをして、粘り強く詰めて行かなければならないタフな仕事だった。コンピュータ本体の周辺機器も、磁気ドラム/ディスク装置や通信制御装置などの中枢機器でさえまだ実績に乏しく、システム構築途上でソフトウエアのテスト作業がストップする程の障害に遭遇し、工場側から技術者の来援を求めることも一再ならずだった。
工場側から見れば、「顔を出す度に厄介な問題を持ち込む奴」ということになっていた筈である。それでも工場側の人は概して人が良く、交渉して行くと最後は分かって貰えたこともあって、今でもこの仕事が真っ先に記憶から飛び出てくる。
次にソフト面では、当時はまだ大規模ソフトウエアの開発プロジェクトが世界レベルで苦戦していて「ソフトウエア危機」ということが大きな話題になっていた最中だった。その中で、我が川鉄さんのシステムも“当事者”となってしまい、そこからの脱出に“渾身の奮闘”を余儀なくされたことを忘れることができない。我が方のこの件での失敗は、思いの他スンナリと実用化できた第一次システムから第二次システムへと進む時に第一次で自信をつけた客先が一気に端末機設置数で10倍規模に対象業務を広げられたのを受けて、開発する業務処理(アプリケーション)プログラムの規模を“端末機台数規模に比例して増える”的な感覚で見積もってしまったことにあった。ところが実態は、大勢のソフトウエア技術者が開発参加するのに伴い、仕様の確認やテストの組み合わせなど掛け算で効いて来る部分が多々出現し、比例ではとてもできない複雑さを内包していたのだった。開発が進み始めた所でそれに気がついた(この問題に最初にズシリと気付いたのが私だった)時は、まさに“顔から血の気が引く”思いだった。それから、当時としては極めて徹底した「ソフトの作り方の標準化」を行なって極力根本から複雑さを減らす努力に日夜献身したが、大幅な納期遅れと開発費用増は避けられず、そのプロジェクトのリーダーという立場は何とも面目のない(しかも、メンバー達は苦労すれど報いられない)ものになってしまった。しかし、「間違えた!」と気がついた後に機敏に動いて最善と思う策を進めて混乱を対応可能限界内に食いとめ、フェイタルな失敗になるのを免れることができたのは、今振り返って「私にとって、その後の運命を分けた重要なことだった!」と痛感させられている。
かくして、昼間はハード/ソフト両面で客先ならびに社内との交渉に追われ、夜は納入するソフトの開発部隊の面倒を見るという状況に陥り、ついに胃と十二指腸をやられ、プロジェクト途上で現場責任者を後輩のIさんに代わって貰うという事態にもなってしまった。しかし、目的地に行き着く道筋だけは付けることができていたから、Iさんを始めとするプロジェクトメンバーの努力で実稼動に漕ぎ着け、当該システムはその後10数年に渡って客先・水島製鉄所の厚板生産の要に位置して事業に貢献することができた。
このように、ハード/ソフト共に“出たとこ勝負”のていたらくではあったが、まさに“身体を張ってお客様のCS(顧客満足)に向かった”ことで、「一仕事した」とのズシリとした手応えは持てた。いま振り返っても、我ながら「真剣なバトルをやってたな」というイメージである。
次に、第1項が第二回目のJMAグループからの転進の際にどうだったかと言うと、ある時期までは「同グループは5年くらいで次に進む」気持ちでいたのだった。ところが、実際に組織と自分の関係を冷静に見た時に、お互いの「ギブアンドテイクの関係」が5年では収まりが悪いことが分かってきた。そこで、大掴みに10年を区切りと考えることに気持ちを切り替え、後半の5年は「会社(グループのシステム開発子会社のJMAシステムズ)で新しい組織や特命的役割が必要となる時に“尖兵”的な役割を担う」ことを良しとし、組織へのギブを入念に行なうように努めた。そうこうしている内に、10年目に当時の業界団体(社)ソフトウエア振興協会の役員職が突然転がり込んできて、それが流れを作って、83年10月の情報化週間で自社が通産省(当時)機械情報産業局から「情報化貢献企業」表彰を受ける(これは、率直に言うとタナボタ的受賞だった!)という置き土産ができるという幸運に恵まれた。そしてこれが、「自組織のために、まあ一仕事はしたな」との手応えをより確かなものにしてくれた。
もともと私は気質的には体育会寄り・浪花節的人間なので、所属した組織との間の「一宿一飯」的な恩義にこだわるタイプである。従って、「仕事上のそれなりのけじめが付いているとの確信」が次への転進に向かうための大事な要件となり、この第1項は欠かせないと認識している。
第2項: 次のステップが(一応は)見えていた
次に、第2項に関して言えば、第一回目の時は、JMAグループと言う受け入れ先がはっきりあって、それも「情報の世界は、一コンピュータ・メーカーから見ているだけでは分からないな」と思い始めていた自分にとって魅力のある所ということになっていた。同グループで私が属する予定のJMAシステムズは、ソフトの業界で独立系で、当時既にアメリカで産業形成が進んでいたソフト・パッケージの分野で米企業との提携なども積極的に進めていたのだった。また、私がNECを退職するまでに“円満退職”を取りつけるために一年を要してしまったのに、受け入れ姿勢を変えないでいてくれたことも心強かった。尤も、これにはオチがあって、“私が入社して一年以内に、引っ張ってくれた幹部役員が経営上の実権を失う結末となる”流れに内実は進んでいたのを、当の私は露も知らなかったということだったのだが。ただ、多分「転進先として、イメージに叶う受け入れ先がある」ということがなかったら動けなかっただろうと思うと、上記の先方の事情を途中で聞かなかったのも“(成功に至る)微妙なアヤ”だったということになる。
第二回目の時は、かねて目指していた「小ながら自分のビジネス」を立ち上げることだったから、当然ながら迷いはなかった。かねて思いを持った道に“確信犯”的に進むというイメージだった。ただこれも、JMAシステムズから私が担当していたコンサルティング先を“ノレン分け”して貰っていたとは言え、まだ“詰めが甘い”危なっかしさを孕んでいたと見るのが正しいだろう。現に、独立後にノレン分けして貰った客先以外からの最初のお客様の所のプロジェクトが途中で座礁し、私は半年余りで撤退になるという見込み違いもあったのだから。
第3項: 次のステップに進むために“一途に”なれた
次に、第3項に関して言えば、「(危なっかしい橋でも)これを渡るぞ」と決断した時には、その目的専心の思いが力になって、他人から見れば“よくそんなことに手間を掛けて”と言われそうなことを一途になってやれるんだなと、今でも“自分がいとおしく感じる”程である。
これに関して第一回目の転進時に思い当たることは、「退職を気持ち良く認めて貰うために、約一年かけて上司の理解を得る努力を重ねた」時の行動である。(このことは、前に別のコンテンツにさわりを書いているが)NEC入社10年目の後半に入って退職の意志を上司に伝えた時、私は「上司の了解を取り付ける」という点では“誠に間の悪い”位置に居た。というのは、主任という末端管理職(まだ組合員側)ながら、三つのかなり性格が違う部門を兼務していたのだ。本務はオンラインシステムを構築する用途にNECの標準品としてリリースする通信制御ソフトを担当する技術部門で、兼務先はNECの次期のコンピュータ系列のあり方(方式)を開発する工場側の計画部門と現行の製品系列の指針を担う本社側の計画部門の二つだった。そして、この三つとも、事業部とか本部とかの上位組織が異なっていて、三つの組織のトップは当然ながら違う人だった。しかも、そのいずれの人もが、当時のNECのコンピュータ事業を「自らが引っ張っている」との自負を持つ“実力者”ばかりだったのだ。当時は、入社した会社を辞めることはプラスイメージではなく、その上司にもマイナス点が付きかねない時代だった。その時期に「辞めよう」と決意して本務先の事業部長Sさんに伝えてフト冷静になった時に「この3人の了解を取りつけるのは、気の遠くなるくらい大変なこと」と気付いて、深い溜息をついたことを今も覚えている。
それでも、第1項と2項はクリアできているとの確信を支えに、懸命になけなしの知恵を絞った。社内の人には話せなかったが、N先輩を始めごく少数の人には個人的に相談し、ストレスを和らげて頂けたのが心の支えだった。 さて、これをどう運んだかというと、先ず筋として、本務先のSさんとの話合いが完了するまでは他の二部門とは一切話をしないということにした。従って、最後の一年のうち約9ケ月がSさんとの話し合いで、年末に近くなってSさんが「分かった。認めよう」と言って下さって本社の人事部門に話が上がった後の最後の1〜2ケ月で他の二部門の直属上司/トップにご挨拶に行くという結果となった。これは、いま振り返って見ても、問題が輻輳することなく目的に至る上で大変良かった。SさんはNTTから来られた人で、心底では私のような生き方を“全くのアウトロー”とは思っておられなかったのではなかったろうか。
話し合いの経過は、およそ以下のようだった。まだ10年目が下期に入ってから最初の意志表明をした時は、「何を言っているのか!」と全く聴く耳を持って貰えなかった。その後、その年度内にもう一度話をしに行ったが、反応は変わらなかった。そこで、「これは、年度内では行かないな」と腹を括って、負担にならないように慎重に頃合いを計りながら、数ケ月の間隔で「意志は変わっていない」ことを伝えるやり方に方針転換した。Sさんは、書類の入った風呂敷包みを持って朝早く出社される。従って、その時間に同時に着くくらいに行っていると、15分程度話すことはそんなに難しくなかった。腰の低い、話しやすいタイプの方だったので“敷居”は高くはなく、仕事にかこつけてそのついでに話すということも配慮しながら、(11年目の)9月末頃までは“迫る”ような姿勢は控え、「意志は変わっていない」ことだけは伝え続けた。すると秋も深まった頃、博多の九州電力からのかなり大きなコンピュータシステムの引き合いに応じる提案書説明会にSさんと一緒に出かける機会が巡ってきた。事業部のぜひ取りたい案件と言うことで、提案活動に私も駆り出されていたのだが、それの客先へのプレゼンテーションのために挨拶役(Sさん)、プレゼン役(私)で帯同して出かけることになったのだ。「ややこしいことになった」というのが、正直な気持ちだった。だが、程なく「待てよ」と考え直した。このままだといつゴールに着けるか定かでない。「ここで直交渉するしかないな」と気持ちを切り替え、帰途の便を同じにすることにした。そして、普段よりは準備にも本番にも周到に気配りをして、プレゼンの場での対応は専ら私が矢表に立つようにし、業務上のミッションをイメージ通り終えた。そして帰りの飛行機の中で隣り合わせに座り、程なく「個人の方の本題」を持ち出した。そこでは、自分の思いや関連する情報を全て話すようにした。「この男、出ていって路頭に迷いはしないか」との心配もおありのようだったので、受け入れ先のことも具体的に話し、「お会い頂いて、確かめて頂いてもいい」とも話した。そこで、Sさんは「これは、止められないな」とはっきりと感じられたようだった。実際、一連の話し合いの経過を通して、最初は剣もホロロだった所から段々に会話が噛み合う方向に和らいでは来ていたから、Sさんの方でも「そろそろ決め時」という腹づもりでおられたのかも知れない。
かくして、ずっーと目の前にあった「壁」をクリアすることができた。Sさんには随分と厄介をおかけしてしまった訳だが、いろんな立場の人が説得に掛かるということにならなくて、私は真に幸運だった。一旦「分かった」と仰った後のSさんの動きは見事で、「私に任せて下さい」と言われて、所管の事業部門のトップまで通し、本社に回して下さった。Sさんの上司の役員に、私の高校の大先輩でもあるやや強面のKさんがおられて、この方が引き止めに動かれたら押されるかなとの懸念なきにしもあらずだったが、ここもSさんが通してくれて、挨拶に行った時にどやされはしたが、もう顔は笑っておられた。他の二つの事業部門幹部にも“事後承諾”的なご挨拶で済んで、ホッとした。今でも、あの時のSさんの対応には感謝の気持ちで一杯だ。
後日談になるが、4年ほど前に産業カウンセラー(初級)の訓練を受けた時に、その時に分かったカウンセラー職のイメージから「あの時のSさんは、私が話し合いながら少しずつ自立度を高めて行くのを助けてくれた感じだから、もしかして私のカウンセラーの積りで付き合ってくれたのかも」と当時を思い出した。まさか、Sさんにその意識はなかったとは思うが。Sさんは既にこの世にはおられないが、久しぶりにすごく懐かしく思い出したことだった。
次に第3項の第二回目に関わる話を書くと、それは、独立つまり「徒手空拳で“小さな看板”を掲げること」への身構えが必要だったことと関係している。そこで、かねて上に記した業界団体の活動などを通して親しくなっていた業界雑誌の編集長Kさんに売り込んで、同氏が刊行している月刊誌に「連載の寄稿」をする機会を与えて貰った。タイトルは『システム創りのこころ』と、自分が書くことのリアリティと乖離しない範囲で、目一杯気張った名前を付けた。そして、月に一稿づつ、大表題に関わる論考を6つの切り口から書いた。それまで、ポツンポツンと原稿を書くことはあったが、継続的に納期に追われながら書くと言うことはなかったから、「背伸びして頑張る」感じになった。そして、忙しい時ではあったが、各稿に結構の時間を掛けて懸命に書いた。そうしていたら、だんだん乗ってきて、毎号書くのが張り合いになっていったのを記憶している。これは結局、その後しばらく間を置いてもう一回同じ雑誌に6回の連載を書かせて貰って、この2回分をまとめる形で85年(独立して一年余り後)に『情報戦略のこころ』(企画センター刊)という単著として刊行できることとなった。そして、これがしばらくの間、我が小ビジネスの最大の「販促/広報ツール」として役立ったのである。これもまた、連載を書くと言う行動に“一途になれた”のが齎してくれた果実に他ならない。
第4項: 気持ちが“明らかに上向き”の時だった
最後に第4項であるが、ある時にフト気が付いただけどすごく重要で、しかも私だけに言えることではなく、転機に打って出る人には誰でも必須の要件と認識している。
人間だから誰でも、乗っている時と落ち込んでいる時の波は必ずある。私の場合も、上記の2つの転機の少し前に、“あの時は落ち込んでいたな”と記憶している時期がある。NECに居た時は、身体をこわして現場から退いて休んでいた頃から一年くらい、JMAシステムズに居た時はアメリカのソフト会社とデータベース管理ソフトに関する提携をして立ち上げ最初のお客様を獲得する所までいいペースで持ってきたのだが、そこで日本で総代理店の権利を持っている会社とぶつかってそれを穏便に収拾するために責任者の役を降りた後の半年くらい。おそらく、この時期に転進を図っていたら“大失敗”したのではないだろうか。人間には波があって、傷が癒えてくるとまた沸々と活力が溜まってくる。上に記した私の転機は、その波が上向いて来た所とうまいこと重なっていたのだった。
「人が“これができそう”と強くイメージできたことに全力で取り組めば、多くの場合成功する。逆に、気持ちが下降気味の時はなかなか難しい」というのが、私の体験を通した実感である。ごく希に、転職など転機にある人の相談を受けることがあるが、その時の私のアドバイスは、かなり前から「この一点を観察し、話し、ご本人の自己判断をナビゲートする」ことに定まっている。
「転機」という特集テーマを貰って、最初は「誰も投稿してくれなかったら俺が書かないと高嶋さんに悪いな」という連帯感で何を書こうか想を巡らせていたが、“案ずるより産むが易し”、新田さんと高村さんからどちらの一作だけでも特集としての格好が付く作品が届いて、私の方は「どうでもいい」ことになった。ところが、少し書き始めて、往時の「若気の至り」のことを思い出したら、書く方向に血が騒いでしまった。この企画がなかったら「転進の成功要件を整理する」ことなど、永久になかっただろう。そこで、高嶋さんへのお礼を記して結びとしたい。[01.3.31]