「私のふるさと」                   安藤 博


 私には「ふるさと」がない。生まれ育ったのは東京だが、ほんとの江戸っ子でない身には「ふるさと」とはとても感じられない。敗戦の前後と重なる小学校入学の前後、雲仙岳のふもとの島原市に親と離れて弟とふたり、3年ほど暮らした。東京の空襲が激しくなってきたため、父の郷里に疎開して祖父母や叔母のやっかいになっていたのである。この「いなか」にはときどき父の墓参りに行き、90歳を超えておられる入学時の恩師にお目にかかったりする。カラオケに同行するかっての同級生の"女の子"もいる。島原は立派に「ふるさと」かもしれない。だが、遠いのは確かでも、「遠くにあって思う」ほどの切実感はない。

 日本の多くの人にとって「ふるさと」の典型は、お盆の帰省先だろう。民族大移動といわれるほどの熱狂がともなっている。ラッシュでぐったりしてしまうことも含めて、1年に1度、自分の出自、アイデンティティの確認に及ぶことにもなる一大行事である。

 平家の落人村、そして子守り歌で知られる九州中央山岳部の五木村を訪れた時、ここをふるさととする人々のお盆が将来どうなっていくかに思いを馳せた。この5月のことである。「環境破壊につながる公共事業」との批判も出ている川辺川ダムの建設用地。「五木のふるさと」は、ダムサイト予定地から上流へ車で20分あまりも走ったところである。土地の民芸品などを売っている店で聞くと、ダムができればこの一帯も湖底に沈むという。売店などのある集落のはるか上の方に、ダンプの動きが見える。渓谷を上がりきった丘の上に道を作り、ダムに沈む集落の住民のために代替地を造成する工事である。住民の中には反対もある。しかし、大がかりな土木工事によって「ふるさと移転」の既成事実作りがどんどん進んでいるのである。この先たとえば十年して、お盆でこの地に帰省した人たちは、湖面を見下ろしながら「あの辺に家があったんだよなぁ」といったように、ふるさとをしのぶことになるのだろうか。

 「ふるさと」はしかし、誰にとっても懐かしいものであるとは限らない。「ふるさと」に背を向け、そのつながりのあらゆるものを隠そうとする人もいないわけではない。松本清張は『砂の器』で、ハンセン(ライ)病の父をもったみなし子が、東京に出て前衛音楽家として名をなした後、この出自を暴く恐れのあるふるさととのつながりを消すため、陰惨な殺人を犯す暗黒の物語を書いた。業病の父と島根県の山間部を放浪中の、当時7歳の自分を引きとってくれた「仏様のような」元駐在警察官の老人が、成長した姿を偶然写真で見つけ、懐かしさのあまり東京に訪ねてくる。その恩人を扼殺したうえ、顔面を石でめった打ちにする、、、。この病に関わる差別(隔離)がふるさとを押し殺した闇の深さに、慄然とさせられる。それを思うと、ライ病差別に関わる日本政府の不当性を断じた熊本地裁の判決に従うべく控訴を見送った小泉首相の裁断は、それなりに評価できるものであろう。

 群馬の元患者たちは、東京でのハンセン病訴訟を傍聴するため東京に向かうバスの中で『奪ったのはだれ』と言う痛切な歌をつくっていたという(『朝日新聞』 2001・7・3付け、早野透記者)。早野記者は6月22日、その歌が歌われるという東京・新宿の歌声喫茶に行ってみた。歌の一番は、

 「病棄ての烙印おされて/
 親からもらった名前をなくした/
 お七夜に馴れない筆で/
 したためたいのちの証/
 奪ったのはだれ/
 奪ったのはだれ」。

 そして作詞者から聞かされて知る。「この病になると、療養所に入って別の名前をつける、、、家族に迷惑をかけないようふるさとをなくすんです」(同)。

 早野記者はその2日後、東京・下北沢のスペイン居酒屋を借り切って行われた沢知恵さんのピアノ弾き語りライブで、この病とふるさととの関わりにまた行き当たる。沢さんの祖父は韓国の代表的詩人、金素雲。日韓、そして大学時代の米国留学体験と合わせて、日韓英の三つの言葉を使い分けながら歌手活動をしている。三年前、韓国で初めて日本語の歌のコンサートを開いた。

 弾きながらの語りは、深い教養とユーモアにあふれている。6月初め香川県のハンセン病療養所「大島青松園」に行ってきた時のことを語った。沢さんは生後数カ月で神学生の父親に連れられてここに来たことがある。患者たちは子どもを持てないから、知恵さんを「自分の子どものように次から次と抱いた」(同)という。「どんな歌がいいかって聞いたら、北島三郎か美空ひばりがいいって言うの。困ったなと思っていたら、でも、私らはふるさとがないから、やっぱりふるさとの歌がいいなって言うんです」。ふるさとを奪われた人々を前に、「うさぎおいしかのやま こぶなつりしかのかわ、、、」と唱歌『ふるさと』を歌った。「みんな口ずさんで涙をながした」(同)。

 沢さんの父祖の地、韓国と日本との間には、「ふるさと」を巡って、別種の深刻な葛藤がある。『砂の器』と同様、この地とのつながりを絶つことに命がけの苦悩を味わう人もいる。隠していた出自を選挙ポスターへのなぐり書きで暴かれ、自らの収賄事件との関りもあって自死した国会議員がいた。鄭大均・東京都立大教授は、近著『在日韓国人の終焉』で、3世、4世になっても韓国国籍のままの「外国人」であり、かつこの国への帰属意識が希薄になっている「在日」の屈折した状態に終止符を打つように、つまり日本に帰化するようにと書いている。帰化を祖国への裏切りとする「在日」社会の桎梏のなかで、これは同教授自身にとっても勇気と決断を要する言説であろう。

 ふるさとを奪われたり隠したりしなければならない人々にとって、ふるさとは「お盆の帰省先」よりもっと痛切な思いの通う地であるに違いない。私には、もちろんそんな思いがあるわけでもない。都内に住む弟の一人は、本籍と現住所が違うのは面倒と、島原の本籍を捨ててしまった。しかし私は、その転籍手続きも面倒なので放ってある。

 そんな私でも、「ふるさと」にある種の思いを通わせていた時期がある。新聞社のワシントン駐在員だった、今からもう20年あまり前のことである。日本企業の海外進出が勢いを持ち始めた頃で、ソニーやホンダの米国工場を訪ね、日本からの出向駐在社員に会っては話を聞いていた。日本は国際化が遅れているとよくいわれていたことの裏返しで、駐在員たちは判でついたように「現地化」「土着化」を強調した。それで、親しくなった人にはよく聞いてみた、「ところであなた、自分のお墓はこの米国でもいいと思っていますか?それとも、やはりお墓は日本に帰って、ですか?」と。すると「土着化」の先兵はいかにも場違いのことを聞くといった表情を見せて、「お墓ねぇー」と答えをはぐらかすのであった。その問いはつまりは、多少なりとも里心がついていた私自身を投影するものだったのだろう。

 そんな思いは、もうとうに消えている。外地ではなく国内での日々の延長のなかでも、お墓のことを熱心に話す人がいる。私にはそれこそ面倒臭くて、とても考える気にはなれない。

 私は言はば、「ふるさと」とつかず離れずに生きている。それはどうやら、ふるさとに限ってのことではなさそうだと、このように書いてきて思い当たった。なぜだろうか。あの「新しい教科書」を作った連中が声高に言いたてる「国に対する誇り」のようなものに、強い違和感がある。その延長であろう。何かに特別のこだわりを持つことから少し身を離しておきたいというわがまま、これが理由の半分。そして、取り立てての善行、努力もしていないくせに今いる場所に安住できている幸運のしからしめるところが半分、という気がするのである。

                               以上

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