「私の心のふるさと」信州           倉石 英一


 私は実は純粋の信州人ではありません。父親が信州人であることから「準信州人」だと思っています。しかし、信州が私の心をそそるものは、少年期の記憶と固く結びついた「過去」そのものにあります。

 ところで、長野県人はなぜか自らの国を「信州」、自らを「信州人」と呼び、ことのほかの愛着を示しているようです。信州には、国の歌「信濃の国」があり、県人会などの集まりでは決まってこの歌の大合唱になります。この歌は、途中で歌の調子が変わる部分があり、よそものは歌えないだろうという顔つきで得意そうにこの歌を歌うのです。

 また、私の長い読書遍歴のなかで、「この一冊」を選ぶ時は、「日暮硯(ひぐらしすずり)」を挙げることにしています。岩波文庫で★一つ(古い話で恐縮)の薄い本ですが、主人公の恩田杢(おんだもく)の治績が主題です。杢は信州松代、真田藩の末席家老から勘略奉行(つまり大蔵大臣兼行革長官)に抜擢され、行政改革と財政再建を果たす物語で、まさに今日の日本の構造改革のお手本になるような内容です。この本への私の特別な思い入れも信州が舞台になっているからと言えるでしょう。

 閑話休題(本題に戻って)。

 私は戦中の学童疎開の世代ですが、集団疎開でなく親戚を頼っての縁故疎開でした。疎開先は長野県更級(さらしな)郡稲荷山(いなりやま)町(現在は更埴市、最近は「あんずの里」として有名)。わずか二年半ほどの間でしたが、これが、私の「信州」への深い郷愁の原点になりました。 

 何しろ終戦前後の混乱期であらゆる物資が不足している時代でした。このため両親は売り食い生活でずいぶん苦労したようですが、こちらは子供の気楽さでのんきにいなか暮しを楽しんでいました。

 そこでの学校生活には様々な思い出があります。

 当時は、治水工事も行き届かなかったためか、毎年のように近くを流れる千曲川が氾濫して、町中が水浸しになることもしばしばでした。地元の人は、このことを「水が漬(つ)く」と称していました。ある日、学校へ行っている間に、千曲川の堤防が切れて、水が漬いてしまったことがありました。あたり一面の冠水で道も田んぼも区別がつかない中を何とか道の見当をつけて、家にたどりついたことを覚えています。今から思えばずいぶん危険なことをしたものですが、それでも親も学校もたいして気にする様子もなく、おおらかな時代だったと思います。逆に、子供ながら自らの安全は自分で守るという自立心が育ったような気がしています。

 私は、疎開に際してけっこう沢山の本を持って行きましたが、これが田舎の子供達のとっては珍しかったらしく、ずいぶん本を貸してあげました。なかには返ってこないものもかなりありましたが、そのことで仲良くしてもらったという面もありました。また、持って行った本のなかに子供向けの劇のシナリオ集があり、これを使って学芸会で劇をやった思い出もあります。動物のお面を額につける他愛ないものだったと記憶していますが、そんなことでもクラスの仲間に喜んでもらいました。

 学校には田んぼがあって、田植えの実習をしたこともありました。お互いに植えた苗がまっすぐな線に並ぶことを競い合うこともやりました。これは意外と難しくて、となりをよく見ながら植えないと線がゆがんで皆の非難を浴びることになるので真剣でした。

 時には、子供達が校庭で横一列に並んで草むしりをしたこともありました。最近はどういうわけか学校の校庭に雑草が生えないらしいですが、当時はこういう集団での勤労奉仕(これも古い言葉で今では殆ど死語ですね)は当たり前でした。

 秋も深まってくると、四年生以上の高学年生は厳しい冬に備えて暖房用の燃料調達(当時は全て薪ストーブ)のために山に焚き木を取りに行くのが恒例の行事でした。こんな時でも、子供達の間で自然に役割分担ができて、身軽な子は木に登って枝をはらう、器用な子は薪を切って束ねるし、力のある子はかついで下りるといった具合でした。その中で、自然にチームワークの何たるかが身についたような気がしています。

 とうとう二年半の疎開生活に別れをつげて東京へ転校になる日がやってきました。ある秋の日、ちょうどその日が山へ薪を取りに行く日にあたっていました。そのためにクラス全員が校庭に整列している前で転校の挨拶をしましたが、皆の顔が涙でにじんでぼーっと霞んで見えたことを昨日のことのように思い出します。

 考えて見ると、学校のことで勉強については何一つ覚えていませんが、こうした身体で体験したことは実に鮮明に記憶しており、そこから学んだことがその後の人生の糧になっているように思います。いわば、これが教育の原点というものではないでしょうか。

 それから何十年、田舎に残ったいとこが県会議員の選挙に出た時も、疎開の時の同級生でその時以来つきあっていた旧友が運動してくれただけでなく、選挙を手伝ってくれる人への炊き出し用に大量の米を寄付してくれました(彼は米屋のあるじ)。四十年来の友情の有り難さをつくづくと感じた瞬間でした。

 ところで、この米屋の旦那との間には後日談があります。ある日、自宅に彼から電話がかかってきたのですが、それを聞いてびっくり仰天したことでした。というのは、彼が知っているはずがない東京での小学校の卒業クラス「6年3組」という言葉が飛び込んできたからです。さらに、そのクラスの同級生(それも女性)Mさんの名前まで飛び出してきて、またまたびっくりです。彼女はクラスの女子の中でも勉強も出来たうえに可愛らしく、目立った存在でした。当時の小学生ですから、愛だの恋だのという感情はなかったと思いますが、何らかの関心を持っていたことは事実です。彼女はそういう人でした。

 そして、本当に久しぶりに3人で会おうということになりましたが、そこで分かったことは3人が三角の友人関係にあったということです。つまり、米屋の旦那と私が疎開先の稲荷山小学校で最初に出会い、次に東京の転校先の小学校でMさんと私が出会い、最後に米屋の旦那が東京の大学に入ってそこでMさんと会ったというわけでした。

 皮肉なことに、この事実は40年以上前にすでに存在していたのですが、そのことを知ったのはつい最近だったのです。人生に「もしも」を言ってみてもどうにもならないことは当たり前ですが、このことをお互い学生だった頃に知っていたらどうなったであろうかと思わざるを得ません。ひょっとしたら、彼と私は彼女をめぐってライバル関係になったかもしれないし、そうでなくてもその後の人生がずいぶん変わったかもしれないなどとほろ苦い思いで想像しているこの頃です。実際には、3人ともそれぞれの伴侶を得て子や孫をもうけたり、それぞれの道を歩んで今さらながらやり直しのきかない人生のたそがれに近づいて来ているわけです。

 あれから幾星霜、信州も時の流れの中でずいぶん変わりました。訪れる度に感じることは、街がどこか近代化し、懐かしいものが少しずつ失われていることです。そして、人情や風土も気が付かないうちに変わっているということです。変わらないのはふるさとの山河だけとの感慨は、過去にこだわるノスタルジアのなせるわざかもしれません。私もそれだけ歳をとったということでしょう。

 それでも、歳をとっても心の中にみずみずしい原風景を残してくれたのが「心のふるさと」信州の風土であり、その原点となった二年半の記憶が新鮮なまま留っていることが、私の残りの人生を豊かに温めてくれるであろうと思うのです。

 帰らぬ時が懐かしい・・・嗚呼。

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