「私の故郷」 黒木 靖生
私の故郷は、大分県日田市です。「日田」と書いて「ひた」と呼びます。大分県の西端に位置し、廻りを山に囲まれた盆地です。町の中心を三隈川(みくまがわ)という大きな川が流れていますので、山紫水明の「水郷日田(すいきょう・ひた)」と呼ばれています。
冬は濃霧が発生し、朝早く山の上から見ると、盆地全体に霧が充満して、まるで湖のようで、「日田の底霧(そこぎり)」と称されています。
四方を山に囲まれていますので、産業的には林業が盛んで、特に杉は「日田杉」と呼ばれ、以前は日本三大美林の一つに数えられていました。しかし国内の林業は、海外から輸入した木材に価格的に押されて衰退の一途を辿っており、山は荒れるばかりです。
これに追い打ちをかけるかのように、もう10年以上の昔になりますか、九州を縦断した大型台風のために杉林が根こそぎ倒されてしまい、それを修復するお金が無いため、そのまま放置されている姿は、涙なしには見ることができません。
日田の林業を象徴するものに「日田林工高校(ひた・りんこう・こうこう)」があります。これは林業科と木工科を持つ(時代の流れに合わせて電気科も併設されましたが)歴史の古い県立の高等学校で、こういう科目を持つ高等学校は全国的にも珍しいのではないかと思います。このように、日田は林業に加えて、日田杉を使った木工業(家具、昔は下駄)でも有名でした。この日田林工高校は高校野球で甲子園に出場したこともあるのですが、知らない人は「にったばやし・こうぎょう・こうこう」と呼んだとのことです。
かくの如く、日田は昔から林業が盛んで、いにしえは、伐採した材木は筏に組んで、さきほど紹介しました三隈川を下って筑紫太郎(筑後川)に入り、福岡県の久留米や有明海に運んだとのことです。このことから、日田は、行政的には大分県に属していますが、経済的には昔から福岡県との結びつきが強いと言えます。
鉄道も、久留米までは1時間なのに対し、大分までは2時間ですし、飛行場も、福岡(板付)からは高速で1時間ですが、大分(国東)からは高速で3時間くらいかかるのではないでしょうか。
日田は林業が盛んだったことで、昔はお金持ちも多かったようですが、お金持ちの多くは、経済的に結び付きの強かった筑前の国(福岡県)の博多から来た博多商人が主流だったようで、町並みも結構しゃれていて「九州の小京都」とも言われていました。
「小京都」と言えば、日田にも祇園祭があり、今も、高い山車を引いて町を練り歩く光景を見ることができます。
また、ここ10年くらい前から、観光政策の一環で、これらの旧家が毎年2〜3月に昔から伝わっているお雛さまを座敷に飾って外部の人に見せるようになり、その見物の県内外からのツアーで賑わっているようです。
京都には無く、日田にあるものは「鵜飼」です。三隈川は古くから鵜飼でも有名で、夏の夜は川に屋形舟を浮かべて篝火に浮かぶ鵜飼を見物し、鮎の塩焼きを頬張りながら一献傾けるという風流なことも出来ます(残念ながら、私はまだ未経験です)。
このように、日田は、昔は比較的裕福だったことや、近くに鯛生金山(たいお・きんざん)があったこともあって、江戸時代は天領で代官所が置かれていました。その名残として、城内(じょうない)や丸の内などの町名が残っています。また、日田は山の中の都市だったのに「港町」と言う町名も残っています。これは、日田では川による運搬が盛んだった証拠だと思います。
そして、幕末のころ、例の博多商人の一族で儒学者である広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)が「咸宜園(かんぎえん)」という私塾を開き、大村益次郎を始めとする幾多の維新の逸材が学んだそうです。
この広瀬淡窓の漢詩で、門人が異郷の塾(咸宜園)に学んで、朝食を作るために冬の朝でも早く起きて、川の水を汲んだり薪を拾ったりする光景を描写した漢詩を、高校の漢文の時間に学んだ人も多いのではないかと思います。
現在の日田は、林業が衰退しているため、木工業以外は産業が無い状況でしたが、少し前に、豊富で高品質の水が必要なビール工場が進出しています。また、最近、日本経済新聞の広告に「日田天領水」なるものの通信販売が掲載されていました。
しかし、主要な産業は「水郷日田」を看板にした観光で、三隈川の両岸には観光旅館が軒を並べています。そして、日田の主要なお祭りの一つに、初夏の頃に開かれる「川開き観光祭」があり、花火や屋形舟・鵜飼などで賑わいます。
私は高校卒業までを日田で過ごし、その後は両親の許に帰省する時(つまり1年に1回くらい)日田に帰る程度でしたが、小さい頃を山に囲まれた盆地で過ごしたせいでしょうか、今でも廻りが山(緑)だと妙に落ち着きます。
故郷は、住んでいる時は何とも感じないものですが、離れてみて初めてありがたみが分かるもののようです。 (以上)