ふるさとの想い出                新田 謙治郎   


  私のふるさとは山口県の宇部である。瀬戸内海に面した工業都市だが、そこから車で10分も走ると静かな住宅街になる。宇部は宇部興産を中心とする素材産業の街である。そこに至るまでの歴史をさかのぼると、幕末に高杉晋作が下関から農民を集め騎兵隊を組織化しながら上京した際に、宇部からは殆ど参加者が無かったということも一因らしい。そのことで明治になって近郷の村から村八分にされ、自分で生きるためには産業を興す必要を感じているところに、タイミング良く石炭が見つかり炭鉱を掘り始めた。石油以前に黒ダイヤと石炭がもてはやされたときの宇部炭田である。これを元にセメントや窒素肥料に、そして戦後は石油化学やガラス産業などに多角化して行ったと小さい時に父から聞いたことがある。

 祖父も父も炭鉱の経営者だった。小さい時の想い出の一つは、父が毎晩の如く12時頃になって酔っぱらった部下を数人連れ帰り、それから2次会が始まる。そのたびに母がせっせと準備する姿を見て、「俺はこんな生活は絶対に厭だ」と思ったことがある。私が理系の学科に進んだ遠因はこの辺にあるような気がする。

 私の家は、海岸から歩いて30分ぐらいの比較的静かな山手にある。昭和4年に祖父が建てた100坪くらいの大きな家が健在で、今も母と弟夫婦が住んでいる。公道から家までは50メートルぐらい離れていて、それを繋ぐ私道の片脇に防火用水を兼ねた大きな池があった。ここが私の小さい時の遊び場の中心だった。祖父が緋鯉や真鯉を大事に飼っていた。私は近所の仲間達とトンボを糸の先にくくりつけて池に浸け、鯉が食いついて身体半分ぐらいつり上がるのを面白がって、祖父にこっぴどく怒られながら止められなかった記憶がある。

 終戦が近づくに従って宇部も安泰ではなく、B29の編隊の爆弾や焼夷弾の攻撃を受けた。ある夜、焼夷弾を雨あられの如く落とされ工業地帯や町中の空が真っ赤に燃えるのを、この池の側に掘った防空壕の外から眺めていたのを想い出す。

 終戦後まもなく祖父が亡くなってからは、この池は私達子供の格好な釣り場となった。1日で大きなフナが30〜40匹釣れることもあった。そのうち仕掛けの釣りを覚えた。岸から岸に太い糸を渡し、その先に10本ぐらい釣り針を付ける。それにミミズやどじょう、薩摩芋を小麦粉で練った餌などを付けて寝る前に仕掛ける。朝早くそこに行くと糸がぐいぐい引っ張られている。獲物は何かと引き上げる前のわくわくする興奮を今でも生々しく想い出す。鯉や太いウナギなら万歳。大きなナマズならがっかりというところ。本当にこの池には無尽蔵に魚がいた気がする。睡蓮の池でもあったので、その上で鳴いている大きな食用蛙にこっそり近づいては竿の先に付けた3本針でひっかけることも良くやった。これらは、終戦後の食糧難の時に格好の蛋白源になった。

 結婚して子供達を連れて帰る頃になると、農薬のせいか池の魚はめっきり減って、それでも釣り糸をたれると小さな鮒やワカサギが数匹連れることもあった。ところが20年くらい前、小学生が学校の帰りに遊びに来るのでもし事故が起きたら大変と、母がこの池を突然埋めてしまった。子供達の嘆きは大きかった。彼らにとっても、この池は宇部の家の象徴だったようだ。

 瀬戸内海が近かったので海の幸も享受した。時々父が小船を借りて海釣りに連れて行ってくれたが、キス(宇部ではキスゴという)、ベラ(同じくギザミ)、コチ、カレイなどたいてい100匹以上釣れた。夏になると殆ど毎日泳ぎに行った。干潮になると貝掘り。バケツ一杯のアサリと、時に蛤が出てくると歓声を上げた。岩場に行くと「にいな」という親指の爪くらいの大きさの巻き貝(この貝を東京で見たことが無いので標準語の名前を知らない)をバケツ一杯取って、塩ゆでにして針先で身を出して食べると止まらない。(驚いたことに、パリで Fruits de Mer という"大皿に氷を敷き詰めた上に数種類の牡蠣を中心に、かに、海老、ウニなど乗せたオードブル"にこの「にいな」が大抵ついてくる。さすが食通のフランス人、白ワインとの相性がいい。)

 小学生の頃は、このように遊び呆けた毎日だった。五年生の時、当時の宇部興産社長の孫だった俵田という同級生から「一緒にヴァイオリンをやらないか」と突然誘われた。何しろガキ大将だったので、この育ちの良い少年とはそれまであまり付き合いはなかった。なぜ私に声をかけたのか、今でも不思議な気がする。それから自分の人生がずいぶん変わった。元々父がクラシックが好きでレコードをかなり持っていて、休みの日には洋間で竹針を削っては聴いていたので耳慣れてはいた。

 中学2年の時、学校対抗の演劇コンクールがあり俵田と一緒に宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」をチェロならぬヴァイオリンで演じて優勝した。その時猫になった一年上の女の子に二人ともあこがれたが、勝負にはならなかった。何しろ俵田はハンサムで、野球部のキャプテン、運動会になるとダントツに走るのが速いヒーローだったから。その頃、夏になると真っ黒になる自分の顔が厭で(俵田は色が白い)、風呂に入って軽石で顔をこすって血を出したのを憶えている。

 この頃に「宇部好楽協会」の手伝いをすることになった。これはクラシック音楽の同好会で、俵田の父親が会長だった。この人はモーツアルト研究の第一人者として有名な属啓成の奥さん(属澄江というピアニスト)の弟で、俵田家に養子に来た人だ。この人がいたことと、もう一つ宇部興産の創設者を記念して建てた「渡辺翁記念館」(高名な建築家村野藤吾氏の設計)が当時としては日比谷公会堂の比ではなく日本一音響の良いホールとして名が通っていたことで、戦後日本を訪れた世界的演奏家は殆ど宇部を訪れた。ヴァイオリンではメニューヒン、シゲッティ、ピアノではコルトー、ケンプ、バリトンのヒッシュ、ブタペスト弦楽四重奏団など数えきれない。手伝いとして入場券売りなどしていたので、演奏後は楽屋裏でこの人達のサインを貰う恩恵に浴した。
(後年八幡製鉄所を訪ねた時に宇部の出身だといったら、「音楽で宇部の俵田家、美術で倉敷の大原家は羨望の的だった」と部長さんに言われたことがある。)

 中学時代は卓球にも夢中となり毎日の如く放課後は暗くなるまで練習した。三年の時はキャプテンとなり、宇部市の大会で個人、団体とも優勝した。県大会では、当時全国的に名をあげていた柳井に歯が立たなかったが。

 高校時代になると、俵田が大学受験を考えて東京の麻布高校に行ってしまった。手紙の様子で学力レベルの相違に驚愕し、それから猛烈に勉強するようになった。一年の終わり頃にはアチーブメント・テストで宇部高の一番に名をあげるようになったが、急に運動を止めたのが悪かったのか喀血して、三年間宇部興産サナトリウムで過ごすことになってしまった。サナトリウムは郊外の瀬戸内海を見下ろす丘の上にあった。読書の時間も制限されていたので、一日中ラジオのチャンネルを回しながらクラシック音楽を聴きまくった。お陰で、曲を聴くと演奏者があてられるようになった。福島繁太郎の「エコールド・パリ」(全五巻)を読んで、近代絵画にも夢中になり始めた。

 この三年間は友人達にどんどん置いて行かれる悔しさに苦しめられた闘病生活だったが、同時に多感な年齢の時にいろいろなことに興味を持ち、自分の人生のアンテナを拡げられた貴重な時期だったと今も思っている。
 また7人兄弟の長男だったこともあって、それまでは我が侭放題の生活をしていた。祖父は妹たちには目もくれず、私だけを可愛がってくれたらしい。父は炭鉱で忙しく、母は7人の子供を育てるのに精一杯で、私には厳しく躾けられたと言う記憶がない。とにかく尊大な兄貴だったようだ。例えば、自分だけに買って貰った自転車をこっそり妹が持ち出して乗ったのを見つけて、ぶん殴って泣かせた記憶がある。大人になって、妹たちが「あの頃のお兄ちゃんは恐かった」とか、弟が「大きくなったらぶっ殺してやろうと思ったことがある」と言うのを聞いて、恥じ入るばかりだ。しかし、そんな自分に気付いて大いに反省したのもこの闘病時代だ。そのせいか、退院してから「お兄ちゃんはずいぶん丸くなったね」と弟達、妹達の誰かに言われた覚えがある。

 同級生の大半が大学に進学した年、宇部高に復学すると妹と同学年になるのが厭で、上京して都立戸山高校に編入した。18才の時のことだ。それ以後は、東京での生活が中心になった。従って、私のふるさとでの想い出の殆どはこの年までである。

[H13.8.23]

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