私のふるさと 高嶋
宏尚
1 秋田県仙北郡神岡町神宮寺字上高野2番地
ここが私が小・中・高と、いわゆる少年時代を過ごした故郷の所番地です(生まれたのは隣の大曲市)。文字通りの稲作地帯で、水田の他はなにもないと言っていいほどのところです。近年は降雪量が少なくなってきているようですが、1年の約半分は雪に蔽い尽くされてしまうところでもあります。
自分が子供の頃の稲作は、馬や牛も使いながらも手作業がほとんどでした。田植えや稲刈りも腰を屈めてきつい作業をするわけですが、特に忘れ難いのは真夏の草取りです。いくら秋田といっても、真夏はすごい暑さになります。炎天下、太陽をさえぎるもののない水田に入り込み、泥を手で掻きまわしながら雑草を取る姿は、子供心にもつらい、すさまじいものに映りました。そうした難儀を重ねて作った米も、冷害の年にはまったく収穫が出来ず、農家の収入も激減してしまいます。
また、仙北郡は世界一脳卒中による死亡率の高い地域として知られています。肉体労働で消耗したエネルギー補給のためのたっぷりの米の飯。それに塩鮭や漬物などの塩分の大量の摂取。さらに1升飲めて一丁前といわれるほどのお酒。これでは動脈硬化にならないわけがありません。
泥の中を這いずり回って作る米の収量は天候まかせ。永年の農作業のため腰が曲がり、豪雪に悩まされ、脳卒中であっけなく死んだり、身体の自由がきかなくなったりと、何の因果でこういう人生を送らなければならないのだろうと子供心に思っていました。そして、こういったお百姓さん達の役に立つのが自分の使命だと思うに至りました。農学部に進んだのも、稲の品種改良を学び冷害に強く収量の多い品種を作りたいとの思いがあってのことだったのでした。
2 ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
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神岡町は今や人口6千人余り。かってはもう少し人が住んでいたと思いますが、パチンコ屋さえあった神宮寺の町並みも寂びれてしまい、過疎の町に近いものがあります。自分がこの町を離れてもう40年近くなるのだから有為変転があるのは当然なわけですが、町のシンボルとなっている神宮寺嶽(写真)のみが昔のままです。標高300米たらずの山ですから一笑に付されそうなものですが、小山ながらきれいなおむすび型で、山中に屹立する秋田杉の一本一本までがはっきりと見え、ある種の峻厳さを漂わせています。登山道はなかなかに険しく、さながら修験者の山のような風情も持っています。 |
どっしりと町の営みを見下ろす姿に、郷里の人は「嶽山(だけやま)」と親しみを込めて呼んでいます。JRの車窓からもくっきり見えるので、きれいなすっきりした形が印象的な故か、「あの山が記憶に残る」との言葉を何人もの旅行者から聞かされたことがあります。かく言う自分も帰省の際この山が見えてくると、ああ帰ってきたと思うのです。
冬は大雪が降る地域ですから、家並みも林も田圃も山も一面雪に降り込められ、墨絵の世界になってしまいます。この厳寒の時期に「梵天」という行事(神事に近いのでしょうが)があります。高さ4メートル、直径1メートルあまりの、木材で組んだ円筒の真ん中に芯棒を通し、周囲には赤・青・黄・緑などの布を彩りよく張り付け、てっぺんには直径30センチ程の赤い饅頭様のたんぽと呼ぶものを載せたものが梵天です(アイスキャンディのどでかいもの、と言うのが分かり易い表現かもしれません)。これを各部落がそれぞれの趣向で作り、嶽山にある嶽神社に奉納するという行事です。梵天は男根を象徴しており、神社の前で奉納の先陣を争ってぶつかり合いをするのですが、いずれにしろ五穀豊穣を願う行事には違いありません。お神酒に力を得た若者が梵天を担いで雪の田圃道を進んでいく様は、墨絵の世界に点々ときれいな絵の具を置いたような印象があり、とても鮮やかなものです。これが吹雪の年にあたると、担いで行く人達は大変でしょうが、梵天の色合いが淡く見え一種幻想的な風景になります。
3 うさぎ追いしかの山 こぶな釣りしかの川
父親の仕事の関係で住んでいた上高野は、神宮寺の町まで1里の山の中でした。人工的な遊び道具のほとんどない時代でしたから、沼や川での釣りはよくしました。竹の竿先にテグスをつけ、木っ端を削って浮きを作り(しかし、自分で作ったものはやはり繊細さに欠け、セルロイドの浮きが一番活躍しました)、ハリスも自分で結んだものでした。ミミズや蜂の仔、蒸したさつまいもをすりつぶして練ったものやご飯粒などが餌でした。鮒は勿論のこと、うぐい、鯉、ナマズ、時には蒲焼きにさえ出来そうなどじょうが釣れることもありました。鮒だったら、当たりがきたら十中八九釣り上げられるようになっていたものです。
面白いのはナマズで、当たりも何もそんな微妙なものは全くありません。何の前触れもなくいきなり浮きがガ−ンと水中に引き込まれ、竿まで持っていかれそうになります。餌を見つけたらいきなり食らいついて腹に飲み込んでしまうのがナマズの習性のようです。大きなものになるとテグスが切られてしまうか、竿が折れそうになります。しばしの格闘の末釣り上げても針は深々と腹の中に収まっていますから、ハリスを切るしかないのです。釣り上げた魚はバケツに入れておくのですが、鮒や鯉と一緒に釣り上げたナマズを入れておいたところ、帰る段になってバケツを覗いてみると小鮒はみんなナマズに食べられてしまっていたことがありました。自分の運命を知ってか知らずか、とんでもない悪役ぶりですが、このナマズは淡白な白身の魚で、食べるととても美味しいのです。泥を吐かせた後、身が柔らかいので軽く焼いて身を引き締めてから、砂糖と醤油で煮たり、味噌汁の具にしたりします。
当時はどんな小さな農業用水路(せき、と呼んでいましたが)にも魚がたくさんいましたし、秋には川の浅瀬で産卵を終えた鮎(体が茶色になるので、サビあゆと呼んでいました)などいくらでも手掴みできたものでしたが、すっかり環境が変わってしまって今は昔のこととなってしまいました。
4 是がまあ つひの栖か 雪五尺
住まいが山の中であっただけに、毎年大雪と格闘したものです。本当に家が埋まる位に雪の降るところです。大雪の年には2階から出入りした記憶もあります。秋田の雪は水分が多く、重たいのです。屋根に積もる雪は30トンにもなります。高校生の頃は、屋根の雪降ろしは自分の役目でした。若くて体力もあった筈ですが、一日雪降ろしをするとさすがにへとへとになりました。重い雪をシャベルで掬い上げるため、腰が痛くなるのが毎度のことでした。
小学5年の時です。大晦日の夜、猛吹雪のため電線が切れて停電になってしまいました。紅白歌合戦が始まったばかり位の時ですから、7時半頃だったと思います。500メートルほど離れた雑貨屋までロウソクを買いに行かされることになりました。
アノラックに身を包み、防寒帽のフードを下ろしあご紐をしっかり結び、長靴も雪が入り込まないよう口を紐できっちり縛るという完全武装で、懐中電灯を頼りに吹雪の中に出て行きました。我が家は集落から少し離れており、途中に人家はありません。上高野は桜の名所でしたから樹齢100年にもなる桜並木の下を歩いていくわけですが、ブルドーザーで除雪をしてあるといっても吹雪にあってはひとたまりもありません。道は完全に埋もれ、雪が腰の深さにまで積もってしまっていました。この雪だまりをこいで行くのはとても大変です。道の両側はブルドーザーで除雪された雪が壁のようになっています。これの上を歩くほうがまだ楽そうです。雪の壁に登り、この上を一歩一歩探りながら歩いて行きました。頭上では強風が桜の枝を激しく揺さぶり、轟々と鳴っています。風がうず巻いていて、吹雪はあらゆる方向から容赦なく吹き付けてきます。懐中電灯で照らしてみても、横なぐりの雪の筋が明かりの中に見えるだけですが、顔を上げると漆黒の闇の中、桜の大木のてっぺんから雪女がこちらを見下ろし、狂ったように笑っている声が聞こえるような気がしたものです。
今思い起こすと、子供が吹雪の夜に出てゆくのは結構危ない状況でもあったわけですが、吹雪の中を歩くのには慣れていたし丈夫でもあったので、不思議に恐いという気はしませんでした。猛吹雪にだったのか、自分の気持ちにだったのかは分かりませんが、「負けるものか」という気持ちで歩いていったことを覚えています。
5 ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・帰るところにあるまじや
大学へ行くために故郷を離れてから40年に近くなってしまいました。この間、日本が大きく変わったのですから当然のことである訳ですが、わが神岡町も変わりました。
住人の数が減ってきているし、住民の構成も変わりました。営々と受け継がれてきた父祖の地が随所で雑草だらけになって放置されているのは心が痛む風景ですし、川魚やホタルなど、かっては当たり前のように存在していたものたちが激減したり、まったく見当たらなくなったりもしています。町に残った人達は、少年野球発祥の地として知られている神岡にちなんで「野球博物館」を築造し、往時の野球用具や秋田出身のプロ野球選手のユニフォームやグローブを展示するなど、ご他聞にもれず町おこしの努力をしてはいるようですが、はかばかしく成果が上がっている様子には見えません。町が活気づくような画期的なアイデアも、なかなか出てきそうにもないのです。このまま沈みがちになって行かざるを得ないのは、時の流れの必然なのでしょうか。
でも、こうやって昔を思い起こし、懐かしんだり淋しがったりもしている自分が故郷に帰ろうとしているかというと、答えは否定的たらざるを得ません。いま、自分を受け入れてくれる仕事は田舎には無さそうですし、親しい友人も殆んどいません。本屋もレコード屋も近くにはなく、絵を見たかったり、コンサートや落語を聞きたいと思えば東京などの都会に出て行かざるをえないのです。リタイヤしたら帰ろうかとも考えてはいますが、永年慣れ親しんだ生活環境が180度変わってしまうことに耐えられなくなってしまう可能性もあります。また、当然のことながら、自分の子供達にも秋田への帰属意識など全くないのです。詩人が詠ったように、「帰るところにあるまじや」となってしまうのでしょうか。
様変わりの故郷ですが、ただ、暖かく他人にやさしい人情・心情だけはいつまでも変わらないで欲しいと思います。厳しい農作業や自然環境の中で培われてきた忍耐力やある種の諦観が、まぎれも無く自分の身体の中にも受け継がれています。
誤解を恐れずに言ってしまえば、明日のことをあまり考えないし、進取の気性にも富むところはないけれど、ひたすら汗を流して他人の嫌がることでも黙々とこなし、他人を謀ったり、自分だけ楽をしようというズルさがなく、他人の心の中に土足で踏み込むようなことは絶対にしないし、他人を容易に受け入れ、共感性に富むところがあるものだから、裏切られたり騙され易くもある。と、こんなところが典型的な秋田の人間であると思っています。しかしこれは、人間としては上等な性質であると自分は考えるのです。
かって、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが秋田を訪ねたことがありました(実際に大曲にも滞在しています)。その著書「日本美の再発見」には、「秋田の人々は、人を刺すような嫌な眼つきをせず、知的で礼儀正しい」ということが記されています。これは、故郷の人々の穏やかで他人を受け入れる性質に対して高い評価を与えたものだと思います。そしてこのことは、密かな自分の心の支えになってもいるのです。
[13.8.27]