「ふるさとは“打てば響く”もの」 辻 淳二
「ふるさとは遠くにありて想うもの」という言い方がある。これをもじって言えば、私の場合は「ふるさとは
“打てば響く”もの」ということになるようだ。両親が東京で暮らしていて、疎開の数年間を除いてふるさと(両親の郷里、滋賀県)で暮らしたことのない私にとって、最近まで「ふるさとは遠い存在」だった。それがこの数年、「ふるさととの交流も一つの支えとなって、今が充実している」と実感しているほど、かなり身近な感じになっている。その変化がどんなキッカケで起こり、どのように発展しつつあるのか、率直に言って当初は思いもかけなかった“ちょっとした感動の連鎖”になりつつある感もあるので、その話を披露することとしたい。
ふるさとは二つあって、父方のが滋賀県神崎郡五個荘町(「近江商人屋敷」で知られる)、母方のが同県長浜市国友町(「鉄砲の里」で知られる)である。数年前までは、国友町で終戦前後の数年間を疎開で過ごしその間に五個荘町にも行った、大人になってから何回か冠婚葬祭的な行事がある時に親に代わって参加したという程度の繋がりだった。それが約3年前、病院のベッドで寝たきりに近い状況になっていた母が、時折「伊吹山が見えるふるさと」にいる意識で私たちと会話していたのに背中を押されて、代わって里帰りする思いで99年5月に長浜市に出かけたことから、流れが一転したのだった。それは、98年7月に母が亡くなり、翌年3月までに実家の後処理を終え、気持ちの面でも一区切りをつけたタイミングだった。ふるさとに出かける名分は、やや肩の力を抜いて長浜市で開催される『びわこ長浜ツーデイマーチ』というウオーキングの行事への参加とし、その足で二つのふるさとに挨拶に出向いた。すると、幸運にも久々に訪ねた町も人たちも暖かく魅力的で、私の好奇心を開花させるように待ち受けてくれたのだった。但し、この辺りの具体的な話は本ホ−ムページの別稿(下記)に書いたのでここでは割愛しよう。
「新緑の近江路、情緒的な旅に乾杯」(99年6月号)
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滋賀県のシンボル: 琵琶湖 |
私をふるさとに回帰させたイベント |
この訪問を起点として、『びわこ長浜ツーデイマーチ』への参加は今年で三年連続となり、その都度の両ふるさとへの訪問も恒例化している。因みに、今年の訪問レポートは別稿(下記)にて投稿済みである。また、この間に結婚式や告別式など親戚が顔を揃える席への参列も何回かあって、「ふるさとを求心力とした交流」が深まっている。ちょうど、この種の場に集う多数派が「おじおば世代から我々いとこ同士世代へ」の交代期を迎えていることもあり、これらが
“親戚付き合いの再構築”に繋がっているとの感じでもある。そして今、興味深く感じているのは、「いとこ間の交流」を単に儀式的な場だけでない多面性を持ったものにして行く流れができそうに見えていることである。
「庭をテーマの道楽行」(01年6月号)
この流れの端緒は、父方の実家の庭が15年くらい前に我が家の家族旅行で出かけた浜名湖北側の三方ケ原近くで見たお寺の庭園のイメージと重なって、その庭を造った小堀遠州(1579〜1647)に好奇心のアンテナを立てたことにあった。これはその後、「実家の庭を造った勝元鈍穴(1810〜1889)という庭師が、遠州を創始者とする小堀流茶道を19世紀に中興した辻宗範(1758〜1840)の弟子」という繋がりを発見するという成果に繋がった。この追跡に付随して、「宗範の生家が長浜市内の母方の実家のすぐ近く」等々両ふるさとや両実家をブリッジする偶然の繋がり(下記)にも遭遇している。
「辻と国友の面白い繋がり」(00年1月号)
次なる前進は、この「遠州―鈍穴の繋がり」探索というふるさとに関わるテーマを持ったことで、鈍穴の庭の持ち主の従兄にパートナー的にサポートして貰えるようになったこと。上に記した成果も、とりあえずスンナリと到達できたのは、東京では全く情報が得られなかった鈍穴の調査を引き受けてくれた従兄のアシストあっての結果に他ならない。
実は、小生には、この二つ以外に心情的にふるさとと思っている二つの町がある。具体的には、熊本県菊池郡菊陽町と長崎県北松浦郡生月町である。ともに、情報化コンサルタントとして「情報化による町の振興/再生」の構想作りをお手伝いして親しくなった町である。そして、この二つの町でまさに共通に「ふるさとにしっかりとした根っこを持つ人には敵わないな」とズシリと感じさせられたことがある。それは、小生が担った構想作りに町役場側の実質キーマンとして関わった町役場の30歳台の係長級の青年が、役場の将来を担う役割の一方で、一人はアララギ派有数の歌人、一人は町の演劇集団の脚本作家と、プライベート面でも見事に自分を燃焼させる世界を持っていることだった。地方の人の方が、土地の文化や歴史と日常生活との距離、時間投入余力、そして資質が程よくバランスしているということなのだろう。そして、そういう目で我がふるさとを見た時に、父方ではこの従兄がまさにそのイメージに重なる人だった。
かくして、“たまたまご自身の庭絡み”というツキもあって、願ってもない人を“否も応もなく研究仲間に引き入れてしまう”という幸運に恵まれ、「儀礼的だけでない、ふるさととのつきあい」への流れは一段と確かなものになったのだった。
こうして父方が先行していたのだが、母方にも昨今「ちょっと切り口の違う、別の流れ」ができ始めている。それは、相模原市在住の従姉が、昨年60歳半ばになってパソコンを購入し、その練習を兼ねて私にメールを送ってこられたのが起点になっている。その後、彼女からのそれは数ヶ月に一回くらいの間隔で届き、近況報告や時々閲覧して下さっている当会のホ−ムページ・コンテンツについての感想がその内容となっている。メールが届くと、私からも返信を送る。そしてこの関係が、今年になって、従姉の仲介で彦根市に住む従兄にも広がったのだ。
今様に言えば、母には2人の姉がいたのだが、長姉の次女の従姉と、次姉の長男の従兄と、三女だった母の次男の私が「メル友」になったということなのである。実は、この3人の姉妹は、まだ全員が元気で動けた時に、従姉たちのお膳立てを受けて、関西や西日本方面に何回か旅行にでかけていて、そこでの楽しかった話がその時の写真もあって私たち子供たちを繋ぐ共通の話題になっている。メールのやり取りをしながらそれをフト思い出して、最近、思わず独り笑いしてしまった。『なあんだ。これは「母たちは旅行の友、一世代下の我々は(ITはやりの時代を映して)メル友」ということじゃないか』と思い当たったからである。
この「メル友付き合い」はまだ始まったばかりで、どう進展していくかも定かではない。しかし個人的には、これを細々でも持続できればもうみんな亡くなってしまった母たちの生き方を継承したことになるなと、継続を願う気持ちになっている。
このように、「儀礼的な場だけの付き合い」を超えたいとこ間の繋がりが芽生えつつあるのを興味深く感じ、無理をすることはないが一つでも多く“感動の連鎖”を連ねて行ければと願っている昨今である。上記の経験から、ちょっとしたキッカケからふるさとと身近かな“心休まる”繋がりを持つことは誰にもあり得ると確信している。ふるさとやそこに住む人と自然体で向き合う気持ちがあれば、長くまた遠く離れていても「回帰のキッカケ」は必ず近ずいて来る。ふるさととは、本来そういうものではないだろうか。その思いから、その可能性に繋がる機会が到来した時には「万障繰り合わせてふるさとに足を運ぶ」ように心掛け、また人にもお勧めしたいと思っている。[2001.8.25]