「人生の師」 黒木 靖生
このテーマを頂いていろいろ考えて見たのですが、私の人生観に最も影響を与えているのは、私と交際のあった多くの人よりも、1冊の本ではないかと思い当たりました。その本の名前は『クオレ物語(愛の学校)』、著者はイタリア人の「エドモンド・デ・アミーチス」です。
私が小学校中学年の頃だったと思いますが、父親が1冊の本を買って来てくれました。(おそらく)講談社の「少年少女世界名作全集」の中の1冊だったと思いますが、それがこの「クオレ物語」でした。父親が全集の中から何故この1冊を選んで買ってくれたのかは不明です。父親は今は鬼籍に入っていますので、本人に確認することもできません。
当時は昭和29〜30年頃で、読む本もそんなに多くない時代であったことも手伝って、私はこの本が大層気に入り、繰り返し読みました。そして、その後、大人になってフッと考えると、この本が私の人生観に大きな影響を与えていることに思い当たることが何回となくありました。
この本は、ご存知の方も多いと思いますが、「エンリコ」というイタリアのトリノ市に住む少年の、小学校4年生(12歳)の新学期の始まりの月(10月)から終業式(翌年の7月)までの1年間の出来事を日記風にまとめたもので、その内容は、大きく分けると、
(1)本人の学校あるいはその周辺で起きた出来事
(2)担任の先生が毎月1回話して下さる物語
(3)本人の家庭の出来事と父母・姉からの本人に対する書簡
の記述から構成されています。
私の記憶に一番残っているのは上の(2)で、その中でも、イギリスからイタリアに向かう船に乗り合わせた少年と少女が、その船が大嵐に逢って救命ボートに乗り移る時に残り1名の余裕しか無いと言われ、少年は少女をそのボートに乗せ、自分は船長と共に沈没する船に残った話です。この話を通して、私は、このような存亡の危機に際して自分の採るべき道について学んだような気がします。
また、父親の内職(封筒の宛て名書き)を助けるため、父親がその内職を終えて就寝した後に父親の仕事部屋に入り、明け方まで宛て名書きをする日々を続けたため、その疲れで学校の成績が落ち、それを父親に咎められて悩む少年の話(最後に、父親が少年の内職を発見してハッピーエンドになるのですが)にも涙しました。
あるいは、外国に働きに行っていた父親がイタリアに戻って来て港に着いた途端に病気になり、その父親を看病するために田舎から派遣された子供が病院で父親と間違って他の人を看病してしまい、後で父親が退院する時に偶然再会するのですが、少年は今看病している人と心の交流ができていて、またその人も臨終間際であったため、父親だけが先に田舎に帰り、少年はその病人を最後まで看取る話も心に残っています。
これらの話は、当時の挿絵も、脳裏にボンヤリと浮かんで来るほどです。
また、この本の中のエンリコの父親の考えにも、私は大きな影響を受けていると思います。
エンリコの父親の職業は、この本の中ではハッキリしませんが、おそらく新聞発行人と編集長を兼ねているのではないかと思われ、この本の作者の経歴と重なるようなところがあります。エンリコの父親は、このようにインテリで、しかも、生活もどちらかと言うと裕福な部類に入るのですが、真っ黒になって働く労働者や、いざと言う時に国を守るために命を落とす兵隊さんを心から尊敬せよと、エンリコに徹底的に教育します。
また、家庭が貧しい、あるいは身体に不具合を持ったエンリコの友達を家に招き、それらの友人がそのような事情で心を傷つけられないような気配りを自分の息子に見せてあげます。
こう言った多くの話の中から、私は、自分の行動原理・価値観を学び取ったような気がしています。
この本のモチーフは、書名にもありますように「愛(クオレ)」ということでしょうが、私は「単なる愛」と言うより、「正義の愛」と理解したと思います。つまり、「無条件に与える愛(無原則的な愛)」と言うより、「自分の価値観を持ち、その価値観に従って行使する愛」と言ったものだと思います。
この小文を書くにあたり、何十年振りに「クオレ物語」を読んでみました。勿論、私が昔読んだ本は手元に残っていませんから、八重洲ブックセンターに行って買ったのですが、偕成社から出版されている「クオレ 愛の学校」という上・下2冊の文庫本のみが入手可能でした。
この本を読んで見たのですが、日本語が直訳調で、子供に読ませる本はもっと推敲に推敲を重ねた質の高い日本語であるべきと、残念に思いました。この訳文の問題は、偕成社の編集部に猛省を促したいと思います。
なお、この偕成社の本で、あの有名な『母をたずねて3000里』というマルコ少年の長い長い旅物語も、この『クオレ物語』の中で担任の先生が話して下さった話の1つであることが分かりました。このことは、私の記憶から全く欠落していました。
最後に、この偕成社の本によると「クオレ物語」がイタリアで初出版されたのは1886年ですから、この本は100年以上の命を保っていると言えます。このように時間の審判に耐えた本を、もっと学校教育に活用してくれたらなと思います。
(以上)