ドラム缶 高嶋 宏尚
恩師と言えば、やはり何人かの学校の先生を思い出す。
様々なご指導をいただきながらも、なお先生方にずいぶんご迷惑をかけ続けてきたのだと思うが、なかでも中学校で薫陶を受けたS先生を忘れる訳にはいかない。S先生は社会科を担当されていたが、野球部の監督であった。当時40歳になっておられただろうか、でっぷりと太って赤ら顔、いつも厳しい顔つきをされている怖い先生であったが、生徒たちは圧倒的な恐れと少しだけの親しみを込めて「ドラム缶」と呼んでいた。
先生ご自身が学生時代柔道の選手であって、厳しく鍛えられてきた経験もあり、生徒に対しては「背筋をピシッと伸ばせ。いたずらに権利の主張ばかりをするな。学業、運動ともきちんと自分の務めを果たせ」の方針で指導されていた。従って、授業中のだらけた態度などには厳しい叱責が飛んだ。「昔は人糞が肥料となったから、馬鹿でも人糞製造機としての使い道があったが、これからは化学肥料の時代だ。只の人糞製造機では何の役にも立たないのだ」というのが、出来の悪い自分達へのお叱りの言葉であった。
授業もさることながら、S先生に様々なご指導を頂いたのは野球部での活動の中でであった。走るのだけは人に負けなかったが、キャッチボールもろくに出来ないし望んだ訳でもないのに、スパルタで知られていた野球部に入れたのは父親である。田舎の小さな中学校であったが、野球部には上手な選手が揃っていた。いわばミスフィットの自分をS先生は真剣に鍛えてくださった。「足の速い選手に下手な奴はいない」が先生の励ましの言葉だった。上手な選手は被害(?)に合うことはなかったが、下手がユニフォームを着て歩いていたような自分は、 S先生に何度も集中的にノックを浴びた。炎天下、1時間もノックを受け続けるのである。ノックされる選手は勿論だが、ノックを打つ監督だって苦しくない訳がない。どちらにとっても"地獄のノック"だった。これに呼ばれることを選手達は皆恐れていた。
ボールから目を離さず、体の真正面で腰を落として処理しろと教えられたが、慣れないうちはやはりボールが怖い。ショート・バウンドやイレギュラー・バウンドでは反射的に顔をそむけてしまう。強い当たりに腰が引けたり、顔をそむけたりすると、グローブを外させられた。素手でボールを処理するためには掌でしっかり受け止めなくてはならず、嫌でも体の正面で処理することになる。また、イレギュラーしても顔だけは守られるようキャッチャーのマスクも付けさせられた。どんな当たりが来ても絶対顔をそむけるなということである。マスクを付け、素手でボールに向かう姿は惨めなものだった。
体中から噴出した汗のためにユニフォームは泥だらけ、目にも汗が入り込むが、マスクのため簡単には拭えない。太っているから先生も大汗をかいている。広い額に少なくなりかかっている前髪がピタッとへばりついて滑稽な感じになっているのだが、笑っていられる場合ではない。一丁前なのは「さあこい!」と怒鳴る声だけ。強い当たりを取り損ねると、次には更に強い打球が飛んできた。
猛然と汗が出て、さらにもう一段の汗が搾り出され、ややフラフラになりかかった頃、突然体中がカッと熱くなり「矢でも鉄砲でも持って来い」というような捨て鉢な気持ちになった。ある種のトランス状態なのだと思う。何も怖くなくなった。ショートバウンドもイレギュラーも胸に当てて止められるようになった。マスクを外しても顔をそむけないようになる。あごを引いてしっかりボールを見るコツのようなものを体が覚えてくれる。この"地獄のノック"おかげで、自分は人並みに守備が出来るようになったのだった。
バッティングについても、ダウン・スィングで強いゴロを打てということだが、先生は独特の教え方をされた。「フライを上げるな。フライの守備機会は取る時一回だけだ。どんな下手な選手でもフライは取る。簡単にアウトカウントを敵にやることになる。ゴロならば野手が捕球する時、一塁へ投げる時、そして一塁手が捕球する時の3回エラーをする可能性がある」と言って生徒を指導した。この教えは様々なゲ−ム・プランを可能にする積極的な考えなのだが、その時には、相手のエラーを勘定するとはなんて消極的な姿勢だろうと思っていた。先生の教えが本当に理解できたのは、ずーっとあとになってからだった。
フリーバッティングでは、マネージャーに選手個々の成績をノートさせ、フライ、空振りの回数だけバットや柳の枝で尻を叩かれた。地上から1メートル以上あがった打球はフライという定義であった。選手がフリーバッティングを行っている間、先生はグランド脇に生えている柳の木から手頃な枝を折り取り、ベンチにどっかりと腰を降ろして木の葉を毟る。フリーバッティングが終わる頃、柳の鞭が出来上がる寸法だった。自分は守備以上にバッティングが苦手だった。正直、打てるような気がしたことはあまりなかった。従って、自分はいつも一番叩かれる口だった。柳の枝はしなるので痛かった。
今でも、先生の前に選手が一列に並び、順に尻を打たれる情景をまざまざと思い出すことが出来るのだが、従順な羊の群のように叩かれるために並んでいるのはユーモラスにも感じられる。しかし、一方先生がどんな気持ちでいたのかと思うと、何かしら胸が詰まるような気がしないでもない。厳しいシゴキもスパルタも、田舎の小さな中学が都会の大きな中学校に勝ち、県大会に出場せんがためであった。
勝つための戦法についても、先生は熱心に研究されていた。いくつものフォーメーション・プレーは勿論のこと、トリック・プレーの練習もしたし、ルール・ブックを開いてのルールの勉強も全員でさせられた。当時、トリック・プレーの練習やルール・ブックの勉強までしていた中学生は少なかったと思う。
ある時、隣り町の中学を迎えて練習試合をしたことがあった。普段の力を発揮すれば当方がてこずる相手ではなかったが、折からの雨にもたたられ守備も攻撃もチグハグになり、最後には選手に無気力なプレーも出始め、とうとう負けてしまった。当然のごとく先生は怒った。セカンド・ベース周辺は水溜りが出来ている。そこに全員ヘッドスライディングをさせられた。憤怒の形相でセカンド・ベースに踏ん張っている先生目掛けて頭から突っ込んで行く訳だが、選手が泥まみれになるのは勿論、先生も泥しぶきを頭から浴びて真っ黒なダルマのようになってしまったのだった。家に帰ると、母親がユニフォームを洗濯すると言ったが、何だか洗ってはいけないような気がしてそのままにした。翌日、泥でゴワゴワになったユニフォームを着て練習に出ていった。30人余の部員は皆、洗濯したユニフォーム姿であった。それを見た先生は、「高嶋だけが何故きのうスライディングさせられたかが判っている」と言われたのであった。先生の気持ちが判っていた訳でもないのだが、野球部生活の中で先生に誉められたのはこの時だけだった。
厳しい練習の毎日で下手でもなんとか人並みぐらいにはなってきたものの、3年生になる頃には自分が正選手になれないことがはっきりしてきた。もともと望んで入部した訳でもなかったし、父親からも「それならやめてもいい」との許しがでた。恐る恐る職員室のS先生のところへ出向き、退部したい旨申し出た。怒られるかなと思ったが、「途中で投げ出してはいけない。諦めてはいけない」とのことを、先生は懇々と諭された。実際に正選手と控えが入れ替わった例などを挙げ、「チャンスが無い訳ではない」とも話してくれた。いくら先生が熱心に言ってくれても自分にもチャンスがあるとは到底思えなかったが、一生懸命説得してくれている先生に済まない気がしてきた。小一時間ほど説教を受け、退部を撤回してしまったのだった。
間もなく春の選抜大会があり、試合の直前に一塁手が肺炎で倒れてしまった。突然自分にお鉢が回ってきた。外野の控えだった自分は一塁など守ったことがなかった。皆の迷惑にはならないようにしたいとだけ思って試合に出たのだが、いきなりホームランを打ってしまった。これがきっかけで自分は正選手になれたのだったが、考えてもみなかった事だし、自分のためにレギュラーを外されてしまった選手に申し訳ないと思ったものだ。
大会の前には、選手を引き連れて八幡神社に必勝祈願に行くのが慣わしであった。お祓いを受けてきた塩をベンチに撒いて清めるのが先生のグランド入りの手続だった。塩を撒く前に選手がベンチに入ると怒られたものだ。
また、試合に臨んだ時、大勢の応援団や観客を前にして選手があがってしまうことがある。試合前のシート・ノックでボールが手につかなかったり、浮き足立ったようなプレーをしてしまうと先生はその選手をベンチ前に手招きする。「あがるのは、玉が上がっているからだ」と選手の股間に手を伸ばし、局所をつかむと下に引っぱるのだ。観客からはどっと笑いが起こる。やられた選手は真っ赤になって俯くしかない。「恥ずかしさの頂点まで行ってしまえばもうあがることはない」、涼しげな顔で先生は言ったものだ。自分も一度これをやられたことがある。
最後の夏が近づいた。県大会へむけた地区予選の下馬評は隣りの市のO中学が断然で、母校は3〜4番手の評価にしか過ぎなかったが、S先生も選手達もライバルはO中学だけと考えていた。O中学には、超高校級と評判の左腕投手がいた。実際この投手は卒業後県下一の野球強豪高校に入り、1年生の春からエースになったし、中学卒業時にプロのスカウトが来たとの噂もあった位の逸材だった。
大会まで1ヶ月程になった頃、グラウンドにW先輩が来てくださった。先輩は10年程前の卒業生で、社会人となっても野球を続けている左腕のピッチャーだった。ピッチャーズプレートの1メートル前からW先輩が投げ込むボールを、いつもより更に短く持ったバットで打ち返す練習をした。W先輩は2〜3日間隔で練習に来てくれた。投げ込みの所為で先輩の指には血豆ができ、それが破れてしまった。それでも先輩は自分達のために投げ続けてくれた。キャッチャーミットが先輩の血で赤く染まってしまった。ライバル校の左腕投手を打つ練習のためW先輩に来てくれるよう、S先生がお願いしてくれたのだ。
大会が始まり、我チームは順調に勝ち決勝に進んだ。格下相手にもたつきながらも、O中学も決勝戦に出てきた。
やはり噂にたがわぬ投手だった。完全に打者を見下し、薄ら笑いを浮かべながら凄いボールを投げ込んできた。これまで対戦したどの投手よりも速かったし、手元で球が伸びホップするように見えた。なかなか中学生では打てる球ではなかった。インコースの速球に詰まり、運良くセカンドの頭を越した自分の安打も含めて、最終回までたったの2安打で得点ゼロ。いかんせんランナーを出せない。味方の投手もいままでにない集中力を見せ最高の投球をした。なかなか点をやらなかったが、ついに1点を取られ最終回となった。
3番からの打順だったが、3番打者はセーフティ・バントで1塁に生きた。続く4番もセーフティ・バント。思わぬバント攻撃に相手投手は撹乱され、無死1,2塁と、初めてのチャンスが来た。7番を打っていた自分は「5番打者が送って1死2,3塁となる。6番のスクイズで同点になり2死3塁になる。その後、逆転打を打つのは自分だ」と、この後のシナリオを勝手に思い描き、体中が熱くなる思いでバットを握り締めていた。
敵も味方もこの場面のセオリーは送りバントと承知しているから、守備側はファーストとサードが前進してきてバントをさせまいとするし、こちらもそうやすやすとバントはしない。しかも我が方の5番は、高校卒業後プロ入りした程の選手だった。1球、2球と見送った。敵の守備陣にも、バント・シフトへの迷いが生じたように感じられた。その時、S先生からバントのサインが出た。投球と同時に、敵のサードだけが猛然とダッシュしてきた。あたかもそこを狙ったかのように、5番打者のバントは小飛球となって敵のグローブに収まってしまった。ランナーは必死に塁に戻ろうとしたが、すぐさまボールが1塁へ送られアウト、次いで2塁へもボールが転送された。ランナーの帰塁が早かったと見えたが、審判の手は高々と上げられてしまった。瞬く間のトリプル・プレー成立である。瞬時の暗転。現実に起きたこととは信じられず、割り切れない気持のままで試合終了となってしまった。2塁ベースでの判定には疑義があり、当然S先生が抗議をするものと思ったが、先生の口から出たのは「行け!」の一言だった。潔く敗戦を認め整列しろとのことだった。40年も前の出来事だが、審判も人の子。あまりにも見事な、絵に描いたような状況に思わず手が上がってしまったものと、今でも思えてならない。
後日聞いたところによると、あの場面で敵方の監督はバントをしてこないと判断し、バント・シフト解除のサインを出したとのこと。それをサードが見落としてしまい、投球と同時にダッシュしてしまったということだった。球運に見放されていたとしか言いようがないが、それにしても我がチームにとっては非情な幕切れだった。
試合終了の挨拶を終え、閉会式を待つ間ベンチ前に選手が集められた。全員呆然自失の態である、言葉を発する者とてない。S先生が選手に話された、「みんな今日まで良く頑張ってきてくれた。残念だが力及ばずあのピッチャーを打てなかった。おまえ達は高校に行ってからあのピッチャーを打ち込め。おまえ達ならそれが出来る」と。怖かった監督から初めてかけられた優しい言葉だった。
こらえきれず誰かが嗚咽を洩らした。それにつられるように選手の間に嗚咽が広がり、終には全員が声を上げて泣いた。自分達には高校で名誉挽回の可能性があるかもしれないが、「ドラム缶」と一緒にこの無念を晴らすことはもう出来ないのだ。悔しかった。今でもこの時のことを思うと目頭が潤んでくる。
翌年高校に入学してからも、時々グラウンドに出掛けてノックをしたり、後輩の試合の応援に行ったりした。選手の頃と違って、S先生はにこやかな顔で応対してくださった。どこから聞いてくるものやら、自分の高校での成績なども詳細にご存知だった。「高嶋よ、T大に行け」とよくおっしゃってくれたが、もとよりそんな実力のないことは自分が一番よく知っていた。先生の期待には応えられず北海道に渡ったのだが、故郷を離れる時に先生が手紙を下さった。「あの時のホームランは風にも乗ったラッキーなものだったが、今度の合格は君の実力で勝ち取ったものだ。母校では卒業生が10年ぶりに国立大学へ入学したことを喜んでいる」といった内容だった。
当時、何度かはお出しした年賀状もそのうちに出さなくなってしまったし、2度も留年を繰り返したグータラ学生だったから、S先生とて恩師などと言われても迷惑千万なことだろうが、大学の野球では先生に厳しく鍛えられたことが本当に役に立った。それ以上に、「目標に向かってあらゆる智恵をふりしぼり、精一杯努力をしろ。そして結果に対しては潔くせよ」ということを身をもって教えていただいたと思っている。自分は出来の悪い教え子だから、智恵をふりしぼるということや努力することについては及第点はもらえないだろうと思うが、これまでの人生での様々な結果に対して潔かったかということでは先生は合格点を下さるのではないかと勝手に思っているのである。
S先生は、学校長まで勤められた後引退し、悠々自適の日々と風の便りに聞いた。80歳の声を聞く頃かと思うが、お元気なうちに一度お尋ねしたいと思う。不義理続きの教え子の頭を昔日の如くコツンとやって頂く必要がある、と思っているところである。 (13.11.15)